第2話

 斎藤聡子、と女の子は名乗った。・・・高校二年生、十七歳です、と少し硬い声で自己紹介すると、

「・・・母のこと、宜しかったら聞かせてください。今日は用事があるのでだめですけど・・・今度の土曜日のお昼、お時間空いていませんか」

彼女が躊躇いがちに言った誘いに僕は頷いた。サイトウユキコが中学で別れたあの日以降どうやって生きていたのか、なぜ死んでしまったのか僕は知りたかった。女の子は近くの私鉄の駅前にあるファストフードの店の名前を挙げ、

「十二時に、そこで待ってます」

そう言うと近くに停めてあった自転車の鍵を外し、思いついたようにぎこちなく僕に小さくお辞儀をしてから、自転車に乗って坂を下りて行った。

 振り向いて僕に手を振りはしなかったけれど・・・。

彼女が去ったあと、僕は図書館の入り口にある樹に寄りかかってれいに電話をかけた。彼女と話すのは久しぶりだった。最後に怜に会ったのは、確か三週間前だったろうか。

怜は三度目のベルで電話に出るとささやくような声で

 「今、仕事中だよ」

 と言って、それからクスリと笑った。

「どうしたの?よっぽどいいことか悪いことでしょ」

「なんで?」

「だって、諒クンが仕事中に電話をかけてきたの初めてだもの」

柔らかい声だった。

「そうだっけ・・・。怜、今日の夜は空いてる?会えないかな」

「いいよ。今日は大丈夫。夜の仕事は休みだから」

「じゃあ、いつもの店で」

「うん、わかった」

怜は僕が仕事を辞めてからもそれまで通り付き合っている数少ない友達の一人だ。といっても仕事の同僚ではなく以前クライアントと一緒に訪れたクラブで働いていた博多出身の女の子だ。昼間は化粧品の会社で勤めていて夜は新橋のクラブで週二日働いている。僕がまだ勤めていた頃は自腹で怜のいるクラブに飲みに行くことも年に数回はあったけれど、会社を辞めてからはさすがにそんな贅沢はできなくなった。怜も僕が会社を辞めたのを知ると、クラブに誘うことはしなくなった。

「無理しなくてもいいよ。呼べば来てくれるお客さんは何人かいるもの」

怜はそう言った。

 でもたまに彼女の会社の近くでランチを一緒に食べたり、今日のように夜の勤めがない日は一緒に飲んだり、彼女が僕の家の近くに引っ越してきた時には手伝いに行ったりすることで、僕らの付き合いは続いていた。

引越を終えた秋の日の夕方、怜の新しいアパートでデリバリーのピザで軽い食事をしたあと、僕らは彼女が買ったばかりのベッドの上でじゃれあい、そして抱き合ってキスをした。怜のスカートの下に僕が手を滑り入れた時、ふと怜は唇を離して僕の眼を見つめた。

「諒クン、してもいいけど・・・しない方が私たち長続きするような気がする」

僕は怜の眼を見つめそれからそっと彼女のスカートの中の手をそっと元に戻した。そして抱きあったまま僕らはもう一度長いキスをした。怜の柔らかな唇と舌が僕の唇を包んだ。

 やがて僕らはどちらからともなく体を離し、僕は歩いて家に帰った。怜にはほかに付き合っている男はいなかった。僕らの関係はもう一歩進んでも何の不思議はなかった。どうしてあんなことを言ったのだろうと思って、次に会った時に僕はそれとなく怜に尋ねた。

「うーん、なんとなく。諒クンが私のこと大切に思ってくれるか試してみたの」

怜は笑った。

 「あの時は本当は抱かれてもいいかなぁってちょっと思ったんだけど。ふふふ・・・。でももう時効だよ」

「試験結果はどうだったの?」

「ある意味合格、別の意味で不合格」

怜の答えに僕は首を傾げた。

 でも、それからも僕らは以前と変わらない形で僕らは付き合っていた。怜は女の子にしては背が高く、本当のことは教えてくれないけど百六十五センチを少し越していると思う。眼がくりくりとしていて色白でふんわりと豊かな感じのする女の子だ。明るくて元気で、いつか博多に戻ってお母さんと一緒にお店をやるのもいいなあ、と言っている。

 「そうしたら諒クン、その店でバーテンダーをやりなよ。きっと小説のネタがいっぱいあるよ」

怜は時々そう誘って、そのたびに僕はぼんやりと答える。

「博多かあ。遠いなぁ」

 その博多のお母さんから店を出すから連帯保証人になれって言われて困っちゃっているのよね、とこの間こぼしていたけれどどうしたのだろうか。やめておいた方がいいんじゃない、と僕は忠告した。もしかしたら、そうすることで、君はお母さんを嫌いになるかもしれない。そうも言った。けれど優しい怜のことだから、もしかしたらもう判を押してしまっているのかも知れない。


その日の夕方六時半に僕が待ち合わせたスペインバルで待っていると、怜は少し遅れてやってきた。

「ああ、暑い。東京は博多より暑いよ。まじに。どうして九州より関東の方が暑いの。おかしくない?」

声の調子を上げそう言うと、席に座るか座らないかのうちにビールを頼んだ怜は目を僕から逸らしたまま、

「で、どんなことがあったの?人生の一大転機?」

と問いかけてきた。

「え?」

「あんな時間に電話をかけてくるんだもの」

「いや・・・。そういうわけではないけどさ。ちょっと相談したいなぁって思って」

僕はふと昼間起きた出来事を話すことに躊躇いを覚えた。でも結局、トルティーヤやレモンを絞ったイカのフリットを食べながら僕は初恋の女の子の娘に出会ったことをゆっくりと怜に話した。怜はビールを途中でサングリアに変えるといつもと同じようなペースでグラスを空けながら、時おりふんふんと頷いて僕の話を聞いていた。

「それ、斎藤さんでしょう?」

怜がいきなりサイトウの名前を出したので僕はイカのフリットを皿の上に取り落した。

「え、なんで名前を知っているの?」

「諒クンね、一番最初に店に来たとき、言っていたよ。私を口説こうとして」

「口説こうなんてしたかな?・・・どんな話をしたんだっけ」

「怜さんは僕が見た中で二番目に綺麗だって。私が誰が一番なの?って聞いたら眼をきらきらさせながら、それは斎藤っていう子で、僕の初恋の女の子だって。それからしばらくその斎藤って初恋相手の女の子の話をしていた。一緒に夕陽を見たなんて、そんな話。二番目に綺麗な女の子って言われてもねぇ、と思ったからよく覚えている」

「うそ」

と抗ってみたものの、それは僕が酒を飲みすぎて記憶していないだけなのだろう。そうでなければ怜がサイトウの事を知っているはずがない。夕陽を見ていたなんて、そんなことまで喋っていたんだろうか。

「本当にこの人はその子のこと好きだったんだろうな、それって諒クンにとってのダントツの一番なんだろうなって思ったからよく覚えているよ。一番は絶対に変わらないだろうけど二番目はころころ変わるんだろうなっ、て思ったから」

「そうなんだ」

僕は溜息をついた。

「でも怜は今でも二番目」

そう言うと怜は笑って、それはもういいの、というように手を横に振った。

「それで、その娘さんに会うのね」

「うん」

「女子高生と、土曜日の昼間に」

「うん」

「おじさんが、女子高生と、二人っきりで?」

怜はからかうように繰り返すと僕を見た。その眼は悪戯っぽくキラキラと輝いていた。

「うーん」

僕は小さく唸った。

「いいんじゃない?」

怜は顔を寄せると僕を唆すように耳元で囁いた。

「良い意味でも悪い意味でも。男なんてみんな初恋っていう卵の殻をお尻につけている雛鳥みたいなもんだから。諒クンはとりわけ」

「怜に言われたくないなぁ。僕より十五も年下のくせに」

僕が軽く睨むと怜は顔をくしゃっとさせて笑った。

「女の子はね、男と別れた時に全部捨てちゃうのよ、卵の殻も思い出も手紙も贈り物も」

憮然としている僕の眼の前で手をひらひらと振って怜は店員を呼んだ。

「ねえ、ワインを頼もうよ。それとパエージャ」

返事をしない僕の眼を怜はまた覗いて怒った?と聞いた。

「いいよ。それに怒ってもいない」

怜はにっこりと笑う。

「土曜日が楽しみだね」

「うん、楽しみっていうか、なんか不思議な気分だな」

「そうだね。初恋の人自身と会うんじゃなくて、そっくりな娘さんと会うなんて・・・きっとなかなかできない経験だろうね」

「怜の初恋っていつ?」

怜は天井を見上げて遠い昔を思い出すような眼をした。

「そうだな、中学の一年のときかな。ほら、学校に先生の卵みたいなのが来るじゃない」

「教育実習生?」

「そうそう、キョウセイ。その中の一人だよ」

「格好良かったの?」

「顔とかスタイルは格好良くはなかったな。どっちかっていうとダサいって言われるタイプ。でも数学の教師になるんだって頑張っていて資料とかたくさん作って毎回私たちに配ったんだよね。他の子には評判は悪くて暑っ苦しいとかうっとうしいとか言われてたけど、私はなんだかそういうのに惹かれたんだ。私、その頃数学の成績がちょっと上がったんだよ。恋の力ってすごいよね」

「そうだね。今でもその人に会ってみたい?」

「まさか。言ったでしょ、女の子はそんなセンチメンタルなことは捨てちゃうって」

 玲は手を振った。

 「たぶん、もう太り始めているよ。それに髪の毛が柔らかそうだったから、もしかしたらもう薄くなっちゃっているかもしれない。きっと地味な奥さんを貰って、子供が三人くらいいるんじゃないかな。私を後悔させないくらい、きっとダサくなっているよ」

薄暗いバルの中で、店員が手にしたワインボトルから、柔らかなライトが反射してきらきらと赤い流れがグラスの中に注がれていく。怜は頬杖をついてワイングラスを見つめていた。眼のふちをほんのり染めて眠そうにしている怜はとても綺麗で魅惑的だった。

「ねえ、お母さんの連帯保証の話はどうしたの?」

怜はとろんとした眼を少し開くとゆっくりと首を横に振った。それが、断ったという事なのか、その話はよそうよ、という意味なのか僕には区別がつかなかった。


土曜日の午前中ずっと、僕は斎藤さんと会うのに何を着ていくか迷っていた。サイトウ本人ではないといえ、初恋の相手にそっくりな女の子にさえない格好をしていると思われたくなかったのだ。でも結局は濃い茶色のチノパンに白のポロシャツ、生成りの麻のジャケットという普段とたいして変わり映えのしない服装になってしまった。「まあ、こんなものかな」と独り言を呟いて鏡に映っていたあまりぱっとしない自分の姿を潔く心の中から消去すると、僕は斎藤さんとの待ち合わせ場所に向かった。店に着いたのは昼前だったが、店に入ると白いトップスに紺色のフレアスカートを着た斎藤さんが背中をまっすぐに伸ばして座っているのが見えた。店の中でそこだけが涼しげだった。

「こんにちわ」

声を掛けると斎藤さんは緊張した表情で丁寧にお辞儀をした。

「待たせてごめんなさいね。何か飲んでくれていてよかったのに」

「でも、それはなんだか失礼な感じがして」

斎藤さんは生真面目に答えながらくすんと鼻をならした。

「じゃあ、僕が買って来ますよ。何がいいですか?」

「コーラ・・・がいいです」

「何か食べません?」

「じゃあ、フライドポテトをお願いしていいですか」

「うん」

二人分のフライドポテトとコーラを手に戻って斎藤さんの向かい側に座ると、はい、とトレイを縦に置いて片側に斎藤さんの分を取り分けた。斎藤さんはそんな僕をじっと見ていた。

「意外ですね。コーラとフライドポテトっていうのは」

「そうですか?」

斎藤さんはそう言われたのが不思議そうに僕を見た。

「なんだかジャンクフードっぽいものを食べたり飲んだりしなさそうな感じがするから」

「めったにこういうところに来ないから。どういうものがあるのか良く分からないんです。それにフライドポテトってあんまり食べたことなくて、たまにはいいかなって」

自分の分を払うという斎藤さんに、そんなことをしてもらってはさすがに大人として恥ずかしいから、と僕は断った。そうですか、と納得していない様子で斎藤さんは財布を鞄にしまった。

「こういうところにめったに来ないって、高校生にしては珍しいですね」

「私、あんまり友達がいないですから」

そういうと、斎藤さんははにかむように、食べてもいいですか、とフライドポテトを指さした。紙ナプキンで指を包んでフライドポテトを摘んで食べ始めた彼女を僕は黙って眺めていた。二、三本ポテトフライをつまむと斎藤さんは、意外とおいしいですね、とにっこり笑ってから

「西尾さん、母とは仲のいい友達だったんですか」

と僕に尋ねた。

「彼女にとってはどうだったかなぁ。でも僕にとっては懐かしい友達の一人です。いつまでも覚えている・・・。そういう友達ってめったにいないから」

「恋人じゃなかったんですか」

「残念だけど。僕らの頃は今よりみんなずっと奥手だったし、住んでいたのが田舎だったから中学生で恋人同士って言うのは少なかったですよ。僕はあなたのお母さんのことをとっても好きだったけれど・・・。初恋の人だな。でも僕は中学の途中で転校してしまったし、お母さんに自分の気持ちを伝えることもできなかった。それにお母さんは男の子にとっても人気があったんですよ。特定の人とは付き合っていなかったみたいだけど」

斎藤さんは、初恋の人、と口の中で呟いてぼんやりと遠くを見つめるような眼つきをしてから

「母はどんな生徒だったんですか?」

と僕に尋ねた。

僕はサイトウの思い出をできるだけ丁寧に彼女に話した。最初に会った日に赤い鉢巻に白い体操着で一所懸命にドッジボールをしていた姿を可愛いなと思ったこと、編入したクラスに彼女がいてとても嬉しかったこと、中学では男子たちがけん制をしあったまま結局誰一人サイトウに告白できなかったこと。東京へ発つ前にサイトウと会った丘で夕陽を一緒に見たこと。

僕の、少し脈絡のない思い出話をフライドポテトにも飲み物にも手を付けないで斎藤さんはずっと僕を見詰めたまま聞いていた。僕は隅に埋もれている思い出がないか記憶の海の底を覗くようにその頃のことを思い返して見た。

「今思い出せるのは、そんなところかな」

覚えていたことを洗いざらい話し終えると僕はコーラを一口飲んだ。コーラはぬるく気が抜けかかっていた。

「そうですか、母はきっと楽しい学生生活を過ごしていたんですね」

斎藤さんは、ありがとうございました、と言った後にそう呟いた。

「今度はあなたの話を聞かせてくれないかな」

「私の方は、本当に小さなときに母がなくなってしまいましたから、あんまり母の記憶はないんですけど。母は血液がんで亡くなったんです」

 斎藤さんが覚えているのは、街の市場に一緒に買い物に行ったときに突然眼の前で倒れた母親の姿、救急車の甲高いサイレンと目まぐるしく回転していた赤い緊急灯、そして病室の薬の匂いと髪の毛が次第に抜けていく母親の頭と細くなった腕に刺さった輸液管だった。

「その前にはきっと母との楽しい思い出もあったんでしょうけど、なんだかみんな忘れちゃいました」

「そうですよね。そんなことがあったら」

僕がそう言うと、斎藤さんはちらりと僕を盗み見るようにした。

「でも母は私を可愛がってくれていたんだと思います。私を抱いてくれた時の母の匂い、ミルクとシャンプーの混ざったような香りを今でもよく覚えています。だから」

「だから?」

斎藤さんは首を微かに振った。

「秘密・・・なの?」

「いえ・・・。西尾さんと初めてお会いした時、ふとその匂いを感じたんです。どうしてだろう?」

そう言うと斎藤さんは話題を変えるように僕に尋ねてきた。

「血液がんって、なんだかすごい名前じゃないですか?」

「そう?」

僕は少し戸惑って彼女を見た。

「胃がんとか肺がんだった手術して悪い所を取れば治るような気がしますけど、血液がんってなんか全身がダメになっていくような感じがしませんか。遺伝もするらしいし」

血液がん・・・白血病のことだろう。ふつうなら血液がんとは言わないじゃないか、と僕は思う。遺伝はするのだったろうか。

「君の話は?」

「え?」

斎藤さんは怪訝そうに聞き返した。

「君自身の話も聞きたいですね」

「私の話?」

斎藤さんはうろたえたように眼を泳がせた。

「私の話なんて、面白いこと何もありません」

「この間、僕のことをお父さんじゃないんですか、って聞きましたよね」

「ああ、そうですよね」

斎藤さんは観念したように背を微かに丸めた。

「母は横浜の大学を受験して受かりました。親の反対を押し切って新潟を出たから、祖父は本当に怒ってしまったみたい。大学に通う学費だけはなんとか出してくれたみたいですけど、生活費は自分で稼げって」

サイトウは横浜でアルバイトをしながら大学に通っていたらしい。

「でも、大学三年生の時、母は大学を突然やめて実家に帰ってきたのだそうです」

サイトウが実家に戻ったその日北陸一帯は台風並みの秋の嵐に襲われていた。サイトウの母親はこんな嵐の日に誰が来たのかしらと不思議に思いながらベルの音に玄関に出たらしい。そこに文字通り全身から水を滴らせて立っている自分の娘を見てびっくりしたそうだ。サイトウは玄関に崩れ落ちるように倒れこみ、それから三日間熱にうなされたまま寝込んだ。その間にサイトウの実家は大騒ぎになった。サイトウを診察した医者が、

「御嬢さんは大丈夫だと思いますが、おなかのお子さんは駄目かもしれません」

とサイトウの母親に言ったからだ。それを聞いた父親はサイトウが横浜に一人で出て行った時より激しく怒った。

「勝手に家を飛び出しておいて都合が悪くなると家に戻ってくる。その上妊娠しているとは近所にも親戚にも顔向けができない。出て行かせろ」

なんとか母親が庇ってくれたお蔭でサイトウはしばらくそのまま実家で過ごした。父親の怒りはなかなか納まらずサイトウが回復してからも滅多にサイトウと口を利かなかったらしい。サイトウは翌年の六月の終わりに病院で無事に女の子を産んだ。それが聡子さんだ。そのあとサイトウは正式に大学を退学し聡子さんが三歳になると市内の洋品店で販売店員として働き始めた。母親からいくら問い詰められてもサイトウは産まれた女の子の父親のことを明かさなかったという。そんなこともあって実家には居づらかったのかもしれない。聡子さんが四歳になった時に職場と保育園に近いアパートに引っ越して、聡子さんと二人で暮らし始めた。

「みんな聞いた話なんですけど。私はその頃のことを良く覚えていないんです。確かとっても小さなアパートの部屋に住んでいたと思います。いつも一緒に寝ていたし、お布団を畳まないと朝ごはんが食べられなかった」

そんなひっそりとした暮らしをしていたある日突然サイトウは聡子さんの眼の前で倒れた。古町の商店街のどこかで、まだほんの小さな、あどけない女の子の手をひいていたときに。

 「そう、買い物袋の中にお葱がありました、母が崩れ落ちるようにして膝をついたとき葱が買い物袋の中から飛び出していくのをびっくりしながら眺めていたんです。まるでスローモーションの映画を見ているみたいでした。・・・今でもはっきりとその場面だけは鮮やかに覚えているんです」

そう言うと斎藤さんは唇を紙ナプキンで拭った。

「結局、最後まで母は祖父母にも私の父親が誰かを明かさなかったんです。私にさえ・・・」

 彼女は不満そうに唇を突き出した。それは彼女が初めて僕に見せた本音のように思えた。

母親が父の名を明かさなかったのには何か理由があるのではないか、と彼女は疑っていた。どういう事?と尋ねると、例えば犯罪者だったとか、と彼女は言って小さく身震いした。

「君のお母さん、ちょっと頑固で強情なところはあったなぁ。でも悪い人とつきあうような女の子じゃなかったよ」

サイトウは子供の頃でも誰かが相手の容姿や要領の悪さをからかったりすると、その子が相手に謝るまで決して口を利かなかった。秘密を喋らないと約束したら決して喋らなかった。世界中が許しても、世界中に噂が広まっても、自分から決して譲ったり、口に出すことはなかった。

 そう言うと斎藤さんは微かに微笑みながら頷いた。

「なんとなく分かります。私もそうだから。嬉しいな・・・そう言って貰えると」

サイトウはすぐ入院して抗癌治療を受けはじめた。怒っていた父親もさすがに娘を不憫に思ったのだろう、病院にやってきて細くなった自分の腕を見て弱弱しく笑うサイトウの掌を握っていたという。サイトウは眠りから覚めると

「ごめんね、お父さん」

と泣いた。一緒にやって来たサイトウの母親は持ってきた飴やチョコレートを聡子さんに渡してから聡子さんを抱くとやっぱり静かに泣いた。

 聡子さんが五歳になった春にサイトウは向こうの世界に一人で旅立った。若かったから病気の進行が早かったのだろう。

 「告別式があったのは桜の花が散り始めた頃でした。花びらがほんのちょっとの風で舞うように散っていました」

 斎藤さんはその頃からサイトウにそっくりだったそうだ。葬儀にやって来た親戚や子供のころからの友人は斎藤さんを見ると、誰もが子供の頃のサイトウを思い出したらしい。だから、と斎藤さんを育ててくれているサイトウの叔父さんはよく斎藤さんに言ったそうだ。

「君を見ると余計にみんな泣いていた。由紀子の小さい頃に本当に君はそっくりだから。みんな由紀子のことを思い出してしまったんだね」

 東京から葬儀にやって来た叔父さんにサイトウは幼い頃からよく懐いていたらしい。あの日、丘の上でサイトウが僕に話した叔父さんのことだろう。多忙にも拘らず何度か東京から見舞いにやってきたその叔父さんには子供がなく、葬儀が済むと斎藤さんを養子として引き取りたいとサイトウの両親に申し出た。

 サイトウの父親は東京で孫を育てることに難色を示した。水の合わない都会暮らしが娘の命を縮めたと頑なに信じていたサイトウの父親は孫も東京に行けば同じ目にあうのではないかと怖れていた。でもサイトウの叔父さんも簡単には引き下がらなかった。最後の見舞いに来たとき病床のサイトウに話したら、そうして、とサイトウが言ったのだと叔父さんは主張した。その後、急に容体が悪化してサイトウはその話を両親に伝えることができなかったのだ。

結局、選択は斎藤さんに委ねられた。

「東京に住んでいれば、本当のお父さんが私のことに気づくかもしれない」

五歳だった斎藤さんはそう言って東京の叔父さんの家に引き取られた。サイトウの父親は娘のことを怒りながら酒に酔うと可哀想なことをしたと言っていたのだそうだ。その父親も五年前に肝臓がんで亡くなり、翌年サイトウの母親も脳梗塞で亡くなった。でも斎藤さんは新潟には一度も帰らなかった。悲しい思い出がある場所だからと斎藤さんを引き取った叔父さんも無理強いはしなかった。

「そういうの、不義理って言うんですよね」

斎藤さんはまだ母の墓を一度も訪れたことがないんですと淋しそうに笑った。

「だから・・・西尾さんが私に声を掛けてきたとき、父かもしれないって思ったんです」

「そうだったんだね」

紙コップに半分残っていたコーラからは炭酸が抜けて、大きな泡がぽつんと一つ心細そうに浮いていた。

「ごめんね。変な期待をさせてしまったのかもしれない」

「いいんです。だって、もし本当に父だったらどうしようってちょっと怖かったから」

「なぜ?」

「さっきも言いましたけど・・・本当の父親ってどんな人かわからないんです。母を妊娠させてそのあと何の連絡も寄越さないような人なんです。犯罪者じゃないかもしれないけど・・・でも、もしかしたら母は無理やり妊娠させられたのかもしれない」

「お父さんは・・・君のお母さんが妊娠していたことに気が付かなかったんじゃないかな」

「でも、母は突然大学をやめて新潟に戻ったんです。そんな関係になっていた人なら、母と連絡を取ろうとするはずじゃないですか。母だってどうして父のことを言わないのか、それは何かあるからじゃないですか」

静かにそう言った斎藤さんの言葉に、僕は黙った。彼女の言うことはもっともだった。

「私、自分からは絶対に父を探そうとは思わないんです。父の方が私を探すのが筋じゃないかってずっとそう考えているんです。いつか年を取って気が弱くなった父が私のことを探してやって来たら、思いっきり嫌味を言って追い返してやる、ってそんな風に考えたこともあります。もしかしたら西尾さんの言うように父は母が妊娠したことに気がつかなかったかもしれない。それでも大人になった私を見かければきっと気づくだろうなって」

「うん」

「西尾さん、私って変ですか?」

真剣な眼で斎藤さんは僕に尋ねた。

「そんなことないよ。君の気持ちは良く分かる」

と真剣に僕は答えた。僕もサイトウを幸せにしてあげられなかった人物に憤りを重ねていた。初恋の相手が不幸せな人生を送ったという事実は受け入れがたいものだ。斎藤さんは安心したように眼の縁に笑みを浮かべた。

「私、ときどき自分の考えが間違っているんじゃないかって思う時もあるんです。だって誰かわからないけど、その人はやっぱり私の父親で私はその人の血をひいているんですもの。でも、なんだかお話して気が楽になりました。母の学生時代のお話も聞けたし。母がちょっと身近になったような気がします」

斎藤さんは少し頬を緩めて僕を見た。父親の話をしていた時と違って優しげな眼をしていた。サイトウ、父親が誰であろうとこの娘はサイトウの血をそのままひいている女の子だ。

もったいないという斎藤さんを説得して、冷えて固くなってしまったフライドポテトと気が抜けたコーラを捨てると僕はもう一度食べ物を買いに行くことにした。

「今度は何にする?」

「じゃあ、チキンバーガーとアイスティーにしていただけますか」

斎藤さんは少し恥ずかしそうに言った。

「お話していたらおなかがすいちゃいました。さっきまで・・・緊張していたのかもしれませんね」

食べ物を持って席に戻ってくると斎藤さんはちょっとした食欲を見せ、ペロリとバーガーを食べ終えた。そして細い唇をまた紙ナプキンで丁寧に拭うと斎藤さんは突然僕に聞いた。

「西尾さんって、奥さんとか彼女はいるんですか」

僕は怜のことを考えた。

「親しくしている女の子ならいるよ」

「その方と結婚するんですか?」

「そんな雰囲気じゃないな。僕は今はまともに稼げていないし、その女の子とはずいぶんと年が離れているし」

「そうなんですか。西尾さんって今、何をしているんですか」

僕は何と答えようか迷って物書きを志しているんだと答えた。斎藤さんは僕の答えに何の疑念も持たないようだった。志しているだけの物書きは失業者と大して変わらないことを斎藤さんはまだ知らないに違いなかった。

「それから」

何ですか、という表情で僕を見つめる斎藤さんのくっきりとした顔の柔らかそうな産毛に陽の光が優しく宿っていた。

「血液がんって遺伝はしないらしいよ。少なくとも遺伝と直接の関係はないらしい。さっき列で待っている時にスマートフォンで調べたけれど」

斎藤さんはびっくりしたような眼つきをすると

「西尾さんって優しいんですね」

と呟くように言った。

「でも、直接の関係があるって書いたら、その病気にかかっている人の血縁の人たちが結婚とかし難くなって困るから、そう言っているだけかもしれませんよ。やさしさで」

ファストフードの店内でざわめく声が聞こえた。いつしか、部活帰りの近くの男子校の学生たちが僕らの周りで小突きあいながら楽しそうに話をしていた。子供を連れた近所同士の母親が子供たちの騒ぐ声に負けないような大きな声で話し込んでいた。子供たちは夢中でハンバーガーにかぶりついていた。誰もがみんな幸せそうに見えた。でも斎藤さんは今までずっと同じ不幸と不安を背負って生きてきたのだ。それはなんだかひどく不当なことに僕には思えた。

僕らはお互いのメールアドレスと電話番号を交換して店の前で別れた。別れ際にまた思い出したことがあったら教えてください、と斎藤さんは言った。

「うん、そうするよ。もしかしたら、実家にその頃の写真が残っているかもしれない」

「あ、見つかったら絶対に連絡くださいね。楽しみにしています」

斎藤さんは深々と頭を下げ黒く長い髪が縦に揺れた。小さく手を振ってから自転車に跨った斎藤さんが僕の方を振り向くともう一度丁寧にお辞儀をして去って行くのを僕は見送った。その背中が図書館の前で別れた時よりもほんの少しだけ活き活きとしているように見えたのは、単に気のせいだったのだろうか。


その晩、遅くに怜から電話がかかってきた。僕はテレビをつけたまま、うたた寝の中でウサギと遊んでいる夢を見ていた。夢の中のウサギはつぶらな眼で僕を見ながら時々僕の指を齧った。痛くもなんともなくてちょっとくすぐったかった。

電話のベルで悪戯なウサギは姿を消し、僕はテーブルの上で鳴っているスマホを取り上げると時間を見た。夜の十二時半だった。携帯のスクリーンで怜の写真が笑っている。この時間だとたぶん店からの帰りのタクシーから掛けてきたのだろう。

「どうだった?」

 僕が斎藤さんと会った時の様子を話すと、怜は、ふうんと鼻を鳴らすような音を立てた。

「で、諒クンはどうするの」

「どうって、何か思い出したら連絡しようかって思ってる」

「だけど、その子のこと気になるんでしょう。その子の本当のお父さんの事だって」

「そうだけど」

「初恋の女の子とそっくりの娘さんに出会うなんて奇跡だよ。神様がどうにかしてあげろって言っているようなもんだよ」

「うーん。じゃあ、とりあえず明日実家に中学の頃の写真を探しに行くよ。サイトウが写っている奴」

「何、それ。なんだか中途半端だねぇ」

怜は不機嫌そうな口調になる。

「あと、そのうち私の方から話をすることがある」

「何?お見合いの話でもあるの?」

「どうしてそういう反応になるかな。違うけど。でも内緒。今は言いたくない」

怜はそう言うと唐突に電話を切った。時おり怜は突然機嫌が悪くなるのだけど、怜が不機嫌になるポイントがいつも僕には良く分からない。きっと怜の神経にはところどころに小さな地雷が埋められていて、僕はそれを時折無神経に踏んでしまうのだろう。


翌日、僕はJRで目黒から池袋まで出ると東上線に乗り換えて埼玉の実家に戻った。昔僕が使っていた二階の部屋でごそごそと写真を探していると、久しぶりに戻ってきた息子の様子を見に上ってきた母が散らかった部屋を見てふんと鼻を鳴らした。

「なんでそんな子供のころのものを探しているの」

僕は母が上がってくる前に、つい眼に留まって眺めていた昔の通知表を急いで体の下に隠しながら答えた。

「前に新潟にいたじゃない」

「そんなこと当たり前じゃない。一緒に住んでいたんだから」

「その頃のクラスメートの娘さんに会ったんだよ。だからその頃の写真を探しているんだ。見せてあげたいからね」

「へぇ、そんなこともあるんだね。良く分かったね」

感心したような声を出すと母は僕の横に座って僕が押し入れからひっぱり出した昔のガラクタを懐かしそうに手に取った。パッチ(東京ではメンコと呼んでいたらしいけど)をゴムで留めた束を手に、ほらあなた昔これでよく遊んでいたのよとか、習字の賞状を見て、あんた昔から字だけは上手だったからね、とか言いながら一向に部屋を出て行こうとしないので通知表の上に乗ったまま僕は身動きが取れなくなってしまった。

「ほら、あの綺麗な御嬢さん、斎藤さんっていたじゃない」

突然母がそう言って写真を探していた僕の手が止まった。どうして僕の周りの人はサイトウの名前をいきなり口にして僕を驚かせようとするのだろう。僕はそんなに周りにサイトウの話をしていたのだろうか?

「会ったのはそのサイトウの子供」

僕はぶっきらぼうに答えた。

「そうなの。じゃあ綺麗な娘さんだろうね」

「サイトウと瓜二つだった。だから気が付いたんだ」

「斎藤さんとは会ったの?もうお前の齢の子は結婚して子供がいるんだね」

「・・・・サイトウは病気で死んじゃったんだ」

「あら、そうなの?」

母はびっくりしたような声をあげた。

「若いのにね。それはかわいそうなことをしたね」

「中学の頃のサイトウの写真をその子に見せてあげようと思ってさ、探しているんだ」

「そうなの。写真だったらこっちの方にあるんじゃないのかね」

片づけ上手な母が言った通り写真は浪花屋の柿の種の缶の中で見つかった。

 「お前は大切なものをなんでも柿の種の空き缶にものをかくしている時があったからね。眼の前から物が消えれば片付いたと思っているんだから」

 母はそう言って自分に似ず整理下手な息子を嘆いた。それを聞き流しながら僕は突っ込んだままにしてあった写真の束を取り出すと一枚一枚めくっていった。

 最初に見つけたサイトウの姿が写っている写真は修学旅行の時のものだった。サイトウと僕を含めて一緒の班だった五人がそこに写っていた。一番端で僕がピースサインを作り、真ん中でサイトウが笑っていた。クラスの集合写真ではサイトウは真面目な顔をして一番前の列で先生の隣に座っていた。後ろの列の山賀の隣で僕もぎりぎり真面目そうな顔を作って、カメラを睨むようにして立っていた。僕らはみんな幼く、自分たちはこれからなんでもできるんだぞ、とでも言いたげな顔をしてレンズを見つめていた。

 探し出したサイトウの写真の中に一枚だけサイトウが一人で写っている写真があった。写真の中のサイトウは、いつもそうしていたように前髪を黒いピンできちんと留めていた。夕暮れの橙色の僅かな逆光の中でサイトウは遠く何かを見つめてた。

 それは・・・少し淋しげな表情だった。


 その写真を見た瞬間、時のネジが大きく音を立てて巻き戻り、記憶が三十年を飛び越えて鮮やかに蘇った。

 この写真は僕が写したものだ。中学二年の春の修学旅行で行った京都の町で僕は一緒の班の五人と歩いていた。女の子が三人と、僕ともうひとりの男子だった。二人の女の子は僕らの先を話しながら歩いていて、サイトウだけ一人遅れて歩いていた。橙色の夕陽が街を覆い始め、時どき途切れる人ごみの中で少し眼を細めて歩いているサイトウは何か物思いに耽っているようだった。沿道の店をもう一人の男子生徒が覗いている隙に、僕は気づかれないようにカメラをサイトウに向けてシャッターを切った。悟られないように写したつもりだったけど、でもサイトウは僕が写真を撮ったことに気づいていた。宿に戻ると、サイトウが僕の肩をそっと叩いて僕を玄関の脇に連れて行った。

「さっき、私の写真を撮ったでしょう?」

とサイトウは僕の耳元で囁いた。

「・・・」

「ちょうだい」

「え?」

「さっき写した私の写真、私にちょうだいね」

写真を隠し撮ったことが恥ずかしくて否定をしようとした気持ちは、彼女の見せた微笑みで粉あっという間に粉砕された。

「うん・・・いいよ」

修学旅行の終わったあとできあがってきた写真を僕は封筒に入れサイトウに渡そうとしたが、教室の中で渡すのは気恥ずかしかった。写真のサイトウはカメラに気づいていないような自然な表情だったからもし誰か他の人が見れば僕が隠し撮りをしたのがばれてしまうに違いない。

かといって、二人きりになるのもなかなか難しい。万一、こっそりと二人で会っているところを誰かに見つかったらサイトウの信奉者連中に僕がぼこぼこにされるに違いなかった。結局サイトウに渡せたのは修学旅行が終わってから三日もたってからだった。「写真ができた。今日校舎の裏で十二時五十五分。誰かいたら、またの機会で」と書いた紙を朝早く来てサイトウの机の中にそっと入れておいたのだ。サイトウはそれを見るとちょっと不思議そうな顔をして、それから僕を見て共犯者のようににこっと笑った。

 その日昼食の後で校舎の裏で二人きりになると僕は封筒から取り出した写真をサイトウに渡した。サイトウは受け取った写真を取り出してじっと眺めていた。僕は二人きりでいる所を誰かに見られるのじゃないかとひやひやしながらサイトウを見ていた。

「なんで、誰かいたらまたの機会、なの?」

写真から眼を外さないまま、突然斎藤は僕に尋ねた。

「え?」

「メモにそう書いてあった」

「それは・・・女の子とふたりきりなんて、さ」

僕の曖昧な答えをサイトウは聞き流すかのように、

「いい写真だね」

とサイトウは呟いた。

「修学旅行の写真の中ではこの写真が一番好きだな。ううん、私の写真の中で一番好きかもしれない」

僕はちょっと照れた。

「西尾君も大切に持っていてね、この写真。あと誰にもこの写真はあげちゃ駄目」

「うん、分かった」

そう答えると、サイトウはにっこりと微笑んで写真を撫でた。

「ほんとうにいい写真」

その時サイトウは嬉しそうに笑っていたんだ。


「何をぼけっと見とれているんだろうね」

母のあきれたような声で僕は現実に引き戻された。母は僕が通知表の上に乗っていることに気づいてそれを引っ張り出して眺めていたのだが、そのことにさえ僕は気が付かなかった。

「人さまの面倒を見るのもいいけど、たいがい自分自身の面倒を見れるようにしてほしいよ。あんたも昔は成績のいい子だったのにねぇ」

説教が始まりそうになったので、僕は慌ててサイトウが写っている写真を手早く纏めると、片づけていきなさいよ、という母の声を後ろで聞きながら部屋から逃げ出した。下手をすれば通知表に書かれた先生の講評まで引きあいに出されて文句を言われるのに違いないのだ。協調性に若干欠けているとか、授業を聞く態度が余りよくないとか・・・。

「お昼くらい食べていけばいいのに。何もあんたを取って食おうという訳じゃないのにね」

玄関でそう言う母を背に、写真を焼き増しして早くその子に渡してあげたいからと言って僕は実家を後にした。

 定年した父がすぐに亡くなってから、母は以前より口煩くなったような気がする。仕事もせずに孫の顔を見せてあげるわけでもない僕の肩身が狭いのは言うまでもなかった。厳しい小言も何度か言われた。僕のことを心配しているのだということは分かるけれど、時どきそれがわずらわしくなり実家から足が遠のく時がある。

 家から駅までの暑く長い道のりの途中、僕は新潟から転校してから通い始めた中学校の脇を通り過ぎた。サイトウのいないそこでの中学生活はひどく味気なかった。人影のないその中学の校門に向けて僕は落ちていた小石を軽く蹴りこんだ。


「写真が見つかりました。中にあなたのお母さんが一番好きかもしれないって言っていた写真もありました」

そう書いて送ると斎藤さんからすぐに返信が返ってきた。

「ぜひその写真、見たいです。明日、お時間ありますか」

僕もすぐに返事を打ち返した。

「学校が終わってから会いましょう。何時が良いですか」

また返事が来た。メールやSMSってまるでピンポンをしているような時がある。

「夏休みですから、授業はありません。明日のお昼でどうでしょう。12時で」

そうだった。会社に通っているころは朝晩の電車が微妙に空いてくるのでなんとなく学校の休みが始まったんだと気づいたものだ。社会生活を離れてみると案外そうしたことが分からなくなったりする。なんで今日はこんなに電車が空いているんだろうと思うと休日だったことを夜のテレビ番組で知るなんていうことがしょっちゅうだ。

「わかりました。こんどはもう少しちゃんとしたものを食べましょう。僕の行きつけの所だからお金の心配はしないでくださいね」

そう書いてから僕は駅から五分ほど歩いたところにあるイタリアレストランの名前と場所、そしてURLを付け加えた。

「楽しみです。ウェブで見ました。素敵そうなところ。料理もおいしそうですね」

すぐにメールが返ってきた。

近くの写真屋で焼き増しした写真一式を一緒に買った小さなアルバムに整理するともとの写真はビニールのケースに入れた。笑っているサイトウ、真面目な顔をしたサイトウ、清水寺でピースサインを作っているサイトウ、そして夕陽の中で眼を細めて物思いに耽っているサイトウ。ケースを持ち上げるといろいろな表情をしているサイトウがその中で踊っているように見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る