はつ恋(サイトウと僕と斎藤さんの夏)

西尾 諒

第1話 

 坂の途中にある区立図書館のロビーは、のびのびと葉の茂ったヒノキの陰になっていて、夏の陽光がフロアにくっきりと幹の影をおとしていた。ヒノキの葉の一枚一枚が風に揺れ、フロアで踊っている。

 備え付けの金属のフレームの椅子に座って、僕は子供たちがそれと気づかずに、葉影と重なるように遊んでいる姿をぼんやりと眺めていた。節電のためかエアコンディショナーの風は生温く湿気を含んでいた。自動ドアが開くたびに空気は微かに揺れ、外の熱気がそっと忍び込んで来た。

 小学校に上がったばかりの年頃の女の子たちが、ロビーで誰が鬼なのかはっきりと分からない追いかけっこを始めた。太い柱の陰に隠れたりソファに別の子供を追い詰めたり、きらきらと輝く眼を抜け目なく四方に配りながら相手を出し抜こうと身構えている。桜色やペパーミントグリーンやヒマワリ色の小さな生き物の塊が甲高い叫び声をあげながらくるくるとめまぐるしく駆け回る。

 静かになさい、他の人に迷惑でしょ、という母親たちの小言は興奮した子供たちに一向に効きはしなかった。ふと目を上げると、騒いでいる子供たちの向こう側には制服姿の女子高校生がひとり、長い髪をほっそりとしたシルエットに重ねて壁にもたれながら携帯電話に見入っている。

  僕は視線を目の前の床に落とした。

十五年勤めていた会社を辞め、物書きを目指し始めている僕にとって初めての夏休みの季節だった。十五年間システムエンジニアとして働いてきたが、会社に入った時に感じたこれが一生の仕事なのかという疑問と、そこから芽生えた会社生活への違和感はいつまでたっても消えることはなかった。むしろそれは年を経るにつれ海の底に沈んでいくプランクトンの死骸のように少しずつ僕の内側に積もっていった。プロジェクトマネージャーに昇進した一年後の今年の初夏、僕は会社に辞表を出した。無理で無駄なことを滔々と言い募る顧客やそれに輪をかけて難題をいかにも当たり前のことのように押しつけてくる営業と、疲れた顔をして零れ落ちていくように辞めていく部下の間で僕自身も疲れ切っていた。

 辞めたあとしばらくの間、僕は一人暮らしの狭いマンションに引き籠って時間が体の上を通り過ぎるのを待つようにして暮らした。一日が経つのは働いていた時に比べて途轍もなく長かったけれど、ぼんやりと座ったまま過ごすことに僕はさほどの苦痛を覚えなかった。

半月ほどして僕は少しずつ以前の自分を取り戻していった。年金や健康保険の切り替えが迫っていたのも理由だったかもしれない。使う暇もなく銀行口座に積み上がっていた残業代とわずかな退職金、そして失業保険が僕の新たな、そして孤独な旅立ちの軍資金だった。

 会社を辞めたことを伝えると、いきなり僕の部屋にやってきた母親はじっとしたままでいる僕を横目で見ながら、食事の用意や洗濯をしてくれた。時おり彼女が微かに漏らす溜息にはじめの頃は神経がささくれ立ったが、そのうちだんだんと気にならなくなっていった。やがて僕が立ち直って外出し始めると母親は

 「もう、来なくても大丈夫だね」

 と呟いて、僕の部屋を訪れるのを止めた。母親の溜息は僕が会社を辞めたことではなく、僕が生きようとすることを止めていくのではないかという不安に対してだったのかもしれない。

 でも僕は・・・単に束の間の休息と新しい未来への希望が欲しかっただけだったのだ。


 図書館で簡単な調べ物をしたあと、近くのコーヒーショップで軽い食事をして戻ってきた平日の昼下がり、目の前に広がっているのは、勤めていた時には想像したこともなかった景色だった。

 色とりどりの服の騒がしい子供たち、若い母親、ダブルデッカーの乳母車。本を借りに来た老夫婦。試験勉強でもしに来たのか軽い足取りで階段を駆け上がる学生たち。

 オフィスで仕様書と書類に埋もれた生活とはまるで別の世界の光景。新しい人生に不安がない訳ではなかったけど、子供の頃は何とも思わなかったそんな風景が、会社を辞めたばかりの僕の眼にはいきいきと、そして新鮮に映った。

さっきはしゃぎまわっていた子供たちはいつかしら母親たちが連れ去り、綺麗なシルエットの女子高校生は軽く溜息をついて携帯電話をぱたりと閉じた。静寂を取り戻したロビーには、案内係を兼ねている退屈そうな警備員がパイプチェアに取り残されうつらうつらと午睡ひるねをし始めている。

 その時自動ドアが開いてふわりと夏の外気が空気を揺らすと、コツコツと靴の底が床にあたる高い音がロビーに響いた。眼を遣ると日差を背景に人影がロビーに真っ直ぐに入って来るのが見えた。

コツコツというリズムと共に、僕の前を高校生くらいの女の子が通り過ぎて行った。その女の子の顔を覗き見たその瞬間、僕の体と脳が一瞬で硬直した。


サイトウ?


女の子の肌は透けるように白かった。少し広めの額の下にある長い睫とくっきりとした黒い瞳、細い卵のような顔立ちと固く結ばれた唇。さらりと長い髪を耳を隠すように垂らしている髪型は記憶と異なるけれど、グレーのサマーカーディガンに赤いチェックのスカートには見覚えがあるような気がした。細いすらりと長い腕に一冊の本とノートを抱えたその女の子は、息を殺すようにして見詰めている僕に気づくこともなく、僕の前を通り過ぎると図書館へ続く階段を上がっていった。スカートの下でまだ成熟しきっていない細く白い脚が規則正しいリズムを立てて、仄暗い階上に消えて行く。

 サイトウ・・・?

 そんなはずはなかった。

 サイトウユキコ。

僕が初めて恋心を抱いた、僕と同学年の女の子が今高校生であるはずがない。けれどもその子は単に僕の記憶にあるサイトウに顔立ちや背格好が似ているだけではなかった。あの頃サイトウが纏っていたりんとした張り詰めたような空気がその女の子からはっきりと感じとられたのだ。

 腰かけていた椅子から僕はゆっくりと立ち上がった。椅子がコンクリートの壁にぶつかり、がたりと鳴った。


サイトウユキコのことは古い子供の頃の写真のように懐かしく僕の心に焼き付いている。

僕の初恋の相手、新潟に住んでいた女の子。あの頃は曖昧な感情だったけれど、今になって思い返してみればはっきりとそれが僕の初恋だったと分かる。ただ、僕の初恋は淡い感情の高揚を僕の記憶の片隅に残したまま僕自身の転校という形で終わりを迎えた。たぶんサイトウは僕が彼女のことを好きだったことにさえ気づかなかったと思う。

 サイトウに好意を持っている男子はほかにもたくさんいた。でも、サイトウは男子たちにまったく関心を示さなかった。その姿は無言のうちに、私にはまだ恋は早いと告げていた。男子たちは互いにけん制して一定の距離を保ちながらサイトウとの距離を縮めようとしなかった、というか縮められなかった。そのうちにいつしか緩衝地帯のようなものがサイトウの周りに出来上がっていった。

 サイトウの他にも僕らの学校には可愛い女の子たちはいたのだけれど、サイトウは群を抜いて眩い存在だった。咲きかけた桜のつぼみのような硬質の瑞々しさと美しさ。そして、凛とした気性とそれと対極にある優しさ。透明なヴェールのようにそうしたもろもろの要素がサイトウを包みこみ、僕らが軽軽と感情を打ち明けることを拒んでいた。

 サイトウは美しく礼儀正しく、そして誰かが彼女のプライベートを犯したり彼女の正義感のスィッチを誤って押さない限り、誰とも公平に距離を保っていた。もし告白を断ったとしてもサイトウは次の日もその男子に以前と同じように接しようとしただろう。僕らは振られた挙句、サイトウとそんな形で向き合う勇気が持てなかったのかもしれない。

そしてどういうわけかそのうちにサイトウに抜け駆けして告白するのは許さないと言う暗黙のルールが男子の間に出来上がっていった。

 僕自身はそういう男子たちのグループの一番外側にいたように思う。別の女の子から友達以上になってくださいと言われた時に、その子は曖昧に笑っている僕に向かって、

「西尾君って斎藤さんのファンじゃないみたいから」

と言い訳のように呟いた。でも、それは間違っている。他の男の子と違って僕が感情を表に出さなかっただけなのだ。サイトウに向けられた視線、呟き、噂、そんなものと僕はかかわりを持とうとしなかっただけだ。

僕はその子に嘘を答えた。

 「うん。でも、ごめん、今はそんな気はないんだ」

 サイトウを良い子ぶっていると心の中で密かに思っている女の子も少しはいたかもしれない。けれどたいていの女の子はサイトウのことを嫌ってはいなかった。僕の通っていた中学の女の子たちはみんな人が良く純真で、サイトウにどんなに人気が集まってもそれだけで彼女に敵意を持つようなことはなかった。僕はそんなサイトウ以外の女の子たちも好きだった。まるで春の花束を見ているような気がしたんだ。


 田舎の男子は最後まで不器用な鴉のようだった。新潟の市内とはいえ畑や田んぼの広がる片田舎で暮らしていた制服を着た鴉たちは、ついに中学生活の三年間(僕は二年の夏に引越しをして東京に出てきてしまったので最後まで参加はできなかったのだけど、そのあとも連絡を取り合っていた山賀によると「三年間一部の隙もなく」、だったそうだ)互いにけん制しあうという不毛な活動をしたあげく、美しい白鳥は市内の私立の女子高へ飛び立っていってしまった。卒業式にはいつもより厳重なけん制が引かれ、抜け駆けをしてサイトウに告白をしようとした一人が、持ってきた花束の上で羽交い絞めにあっている脇をサイトウはほかの女子と歩きながら、にっこりと笑って通り過ぎて行ったそうだ。

軟弱でひょうきん者のくせに果敢にも裏切りを決行しようとた結城はどこからどうみても喧嘩とかプロレスごっこには弱いタイプだった。山賀なんて結城の二倍くらい体重があったに違いない。その結城が押さえ付けられている原因が自分にあるとは思わず、中学最後の悪ふざけをしているのだと考えたのだろう。

 男の子たち楽しそうだね、卒業式だっていうのに・・・悲しくなんてないんだろうね。とサイトウユキコが隣の女の子にそう話しかけたのが聞こえたと、山賀が高校生になって初めて掛けてきた電話で話したのを僕は今でも覚えている。そういう山賀もサイトウの崇拝者の一人だった。裏切り者の結城をみんなで押さえ付けていたときに、結城に小指を噛みつかれ歯の痕がしばらく残ったという話をした後で、

 「結局なんだったんだろうな」

 近くの共学の公立高校に入って、彼女ができたばかりだという山賀は不思議そうに言った。

「なんだか、サイトウって女神かアイドルみたいなものだったのかな?おれ、彼女と最後までまともに口をきいたことがないのに最近気が付いた」

 「みんなそんなものじゃないか?」

 僕が答えると、山賀は、ははは、と豪快に笑ってからじゃあな、東京で頑張れよ、と言って電話を切った。


でも僕にはサイトウユキコとの確かな思い出がある。彼女は僕の隣に座っていて、彼女の髪は新潟の街の片隅で吹いた夕方の風に揺れて僕の頬にそっと触れた。彼女の柔らかく耳触りのいい声を僕は耳元で聞いた。それは忘れることのできない、僕の記憶の中でもいちばん美しい思い出だ。


東京に引越をするスケジュールが決まった日、僕は朝礼が始まる前に職員室に行き担任の樋口先生に転校することを告げた。

樋口先生はかけるべき適当な言葉がうまく見つからなかったのかいきなり僕の肩をたたいた。樋口先生はそんな不器用な先生だったけどまっすぐで明るく、えこひいきをしない、僕が好きな先生の一人だった。僕は黙ったまま樋口先生を見ていた。

「さみしくなるな。せっかくたくさん友達もできたのに残念だ」

先生はようやく言葉を探しあてたかのように日焼けした顔から白い歯を覗かせて笑った。つられて僕も少し笑った。

「でも東京は面白いところだぞ。色々あるしな。みんなに伝えていいな」

僕は頷いた。朝礼ではなくて終礼で先生は僕が東京へ引っ越すことをクラスのみんなに告げた。山賀は複雑な顔をして先生と横に立っている僕を見つめていた。山賀だけには引っ越すことを昨日僕から話しておいたのだけど、どんな反応をしていいのか分からなかったのだろう。

 クラスメイトの羨ましそうな声とエーッという意味のない叫び声が混じった中で、教室の廊下側に座っていたサイトウは先生の横に立っている僕をじっと見ていた。教室のぼんやりと薄暗い陰の中の白い陶器の人形のような顔を僕がちらりと盗み見た時にもサイトウは視線を逸らさずに僕を見つめていた。

授業が終わり、山賀たちは僕の周りに集った。僕はサイトウを眼で追ったけど、サイトウは何も言わずに紺色の学生鞄を抱えて教室を出て行った。男の子たちは学生帽で僕を乱暴に叩いたり、机の上に腰かけたりしながら僕を取り囲んだ。

「いつ東京へ行くんだよ」

とか

「東京へ遊びに行くからな。ディズニーランドに連れて行ってくれよ。新幹線で行きたい」

そんな会話の中に、山賀も初めて聞いたような顔をして交じっていた。ワイワイと最初は賑やかだった。けれどやがて一人ずつ塾や家の用事があると言って、じゃあ明日な、と去っていき、山賀も塾があるからと言って最後の二人と一緒に立ち上がった。僕は一人で教室に残された。

じゃあ明日な、の明日はもうすぐ僕には来なくなる。死ぬ時ってそういうことなんだろうな、とふとその時思った。明日に集まってみると僕だけがいない。最初は寂しがってくれたりするけれど明日を重ねるたびに僕の記憶がみんなから薄れていく。僕を野球帽でたたいた奴からも山賀からも、そしてサイトウからも。

 それって、死ぬこととおんなじなのかもしれない、そんな気がしたのだ。

上京することへのわくわくした気持ちはすっかり消し飛んでいた。

 帰宅すると母が

 「ちゃんと先生に伝えた?」

と僕に尋ねた。東京生まれの母は東京に帰ることを単純に喜んでいた。

「諒君だって、東京の方が学校も塾もちゃんとした所がたくさんあるんだから、ぜったい良いわよ」

東京に行く内々示が父に出た日にそう言ってさっそく引越業者に電話を掛けようとした母を父がまだ正式に日程が決まったわけじゃないからと慌てて止めていたのを僕は思い出す。僕はそのとき「今の学校だってちゃんとしているよ」と不貞腐れたのだった。山賀と別れることを思うとひどくさみしかった。サイトウと会えなくなることを考えるとなんだか鼻の奥がツンとなるような変な気がした。

 だけどあと三週間後の土曜日に荷物を送りだし市内のホテルに一泊してから新幹線で東京に行くことは決まっていた。明日は母が学校に行って転校の手続きをすることになっている。

ちゃんと荷物を作るのよ、捨てるものはいい機会だからちゃんと選り分けて捨てちゃいなさい、という母親の言葉を背後に聞きながら、僕はこっそりと家を抜け出して陽の傾きかけた道を海に向かって自転車を漕いで行った。国道に出て一つ目の角を右に曲がり川沿いの道を走っていくと、途中で坂になった脇道が丘の上へと続いていく。懸命に漕げばなんとか自転車を降りて押していかずに済む傾斜を僕は一気に駆け上がり始めた。

まんじゅう山と小学生のころ呼んでいた、実際はただの小さな丘へ続く道からはところどころで木の間から日本海の景色が眼の前に開けている。初夏の風は涼しく、僕は楽々と自転車を飛ばして坂を登って行った。

丘の上には展望台のような小さな空き地があって、そこから見る日本海が僕はいちばん好きだった。雪の日も嵐の日でも雨合羽やコートを着てここにやって来た。海の表情は荒々しかったり穏やかだったり暗かったり、いろいろだった。でもこんな晴れた日の夕焼けの景色は格別だ。引越すまでにあと何回この場所に来られるのだろう。水平線にあと少しで沈みそうになっている夕陽を眺めながらぼんやりと僕は思った。東京にはこんなに綺麗な夕陽を見ことができる場所はあるんだろうか。風が舞って時おり強く僕の顔に吹きつけ、見下ろした港では漁船の旗が必死でポールにすがりつくようにはためいていた。

かたかた、と後ろで自転車を牽く音が聞こえた。かすかに金属が擦れるような音が混じっている。振り向くと、夕暮れの中でサイトウが自転車を牽きながら僕に向かって手を振っていた。

「やっぱりここにいたんだ」

サイトウは僕の自転車の脇に自分の自転車を停めると、僕の横に座った。

「西尾君はここまで自転車を漕いで来れるん?私、半分くらいで降りてそこから歩いてきたよ」

「うん、当たり前だよ。サイトウみたいによわっちくないから。それに自転車に油を注した方がいいよ」

 意地悪い口調で僕は答えた。でも心臓はばくばくしていたんだ。

「西尾君は男の子だもんね」

そう言って髪を掻き上げたサイトウの髪の毛先が強い風に吹かれて一瞬僕の頬に触れた。

「あ、ごめん」

サイトウが僕を見た。

「いいよ」

僕はそう言って前を向いたまま海を見続けた。

「西尾君・・・東京に行っちゃうんだね」

僕はこくりと頷いた。

「いいなあ、東京。私も行きたい」

家は代々新潟に住んでいて東京には叔父さんが仕事の関係で一人だけ家族と住んでいるの、とサイトウは言った。

 「一度だけ叔父さんの家に行ったけど小学生のころだもんな、もうずいぶんと昔の話だよね」

 柔らかくおっとりとしたサイトウの声が風に乗って空へ消えて行った。

「さびしくなっちゃうね」

サイトウが組んだ腕の上にあごを落とすようにして言った。

「うん」

僕はまた頷いた。こんな場所でサイトウと二人きりで話しているのは信じられない気持だった。

「どうして僕がここにいるって分かったの?」

「西尾君がここにしょっちゅう来ているの、前から知っていたよ。自転車であの坂道を走っていくのをよく見たもの」

サイトウも僕の隣で海をまっすぐ見つめながらそう答えた。

「そうなんだ」

夕陽が海に沈むと空は心細いような淡い光に包まれた。やがて、ぽつんと僕らの真上に星が見えた。

「あ、星だね」

サイトウも気づいて空を指さした。

「東京でもおんなじ星が見えるんだね」

「見えるのかなあ」

僕が呟くと、サイトウはきっぱりと

「うん、見えるよ。だって空はつながっているもの」

と言って僕を見た。

「でも、東京は明かりが多いし、ここに比べると空気も汚れているって言うし」

「そんなことはないよ。なんか淋しくなったら空を見上げて良く探せばそこにはきっと星があるよ。そんなとき私たちはきっとおんなじ星を見ているんだよ」

「うん」

しばらく僕らは星を見つめていた。

「そろそろ帰ろうか。暗くなっちゃたし」

 僕はサイトウに言った。

「そうだね」

サイトウも腰を上げるとスカートをはたいた。

「私もそのうちに自転車でここまで一気に漕いで来れるようにするよ。そして西尾君のことをちょっぴり思い出すよ」

「ちょっぴりかよ」

口を尖らせた僕を見てサイトウがころころと笑った。僕は丘の上に一つだけポツンと点いている街灯の下まで自転車を引っ張って行くと、自転車につけておいた小さな工具箱の中からスプレー式の機械油を取り出し、横で不思議そうに眺めていたサイトウの自転車のギアに油を差してやった。

「そんなの持っているんだ」

サイトウは眼を瞠って、それから自転車を前後に動かした。

「ほんとうだ。音がしなくなったね」

サイトウは嬉しそうに笑った。

日が落ちて暗くなった坂道を僕らは自転車を押して降りた。街灯が直線に川沿いの道筋を照らし出していた。国道まで僕らは言葉を交わすこともなくライトを点けた自転車を漕いだ。そして国道と交わる角でサイトウは自転車を停めた。僕もブレーキを掛けた。

 「じゃあね、自転車直してくれてありがとう」

 そう言ってにっこりと笑うとサイトウは僕の家とは逆の方向へ自転車を漕ぎだした。僕は自転車を片手で押さえたまま去っていくサイトウを見ていた。

「気をつけろよ」

僕が大きな声を掛けると、自転車がぐらりと揺れ振り向いたサイトウが手を振った。そして夕闇の中へとその姿は消えて行った。


 三週間後の週末に僕たち家族は東京に旅立った。山賀と何人かの友達は見送りに来てくれたけどサイトウの姿は駅になかった。山賀たちは何だかそわそわと不安そうだった。きっと別れるということに慣れていなかったのだろう。やがて発車したローカル線の車窓から僕は山賀たちに手を振った。山賀たちは何か大声で叫んでいたけれど、電車の車輪の擦れる音で僕にはよく聞き取れなかった。またな、とか、頑張れよとか叫んでいたのだろう。僕は窓から小さくなっていく山賀たちに手を振った。やがてその姿は見えなくなり、僕は僕が育った場所の景色を車窓から見納めながら、サイトウが自転車に乗ってあの丘へ続く坂道をひとりできこきこと音を立てながら漕いでいく姿を思い浮かべた。

 サイトウの自転車はきこきこと音をたてているほうがなんだか似合っていたような気がしたんだ。


女の子は図書室の窓際の明るい席に座っていた。古い写真に滲んだセピア色で印画されていたサイトウユキコの姿が、二十年の時を経て突然原色で動き始めたような、そんな奇妙な、でも眩しいような感覚に囚われて、僕は眼の前で本を読んでいる女の子をまともに見ることさえできなかった。近くの本棚から適当に本をそっと一冊引き抜くと僕は女の子の斜め後ろの席に腰かけた。

女の子が時おり音読するように唇を動かす仕草が思い出の中のサイトウと重なった。持ってきた本のページをめくるふりをしながら、僕はその女の子がサイトウとかかわりのある人なのかを知る方法を懸命に考えた。制服を着ているならそこから彼女が通っている学校を知ることもできるだろう。けれどその女の子は制服を着ているわけでもなく、また例え通っている学校が分かったとしてもそのあとどうしたら彼女の名前やサイトウとの関係を知ることができるのか僕にはまるきり見当がつかなかった。調べ物のことはすっかり僕の頭から消し飛んでいた。それでも熱心に本を読んでいる様子から彼女がしばらく図書室で過ごしそうだと見極めると、僕はさっき本棚から抜いてきた本を手に取ってタイトルを眺めた。

 「編み物の歴史」。一生の間で、二度と手にすることの無いに違いないその本を丁寧に書棚に戻すと、僕は「日本の洋館」という写真集を手に取って席に戻った。今書きかけている小説の舞台に合うイメージの洋館を探すのが図書館に来た目的だということを思い出したのだった。アート紙の厚いページをめくり、時おり女の子の黒く長い髪の向こうに微かに見える横顔を眺めながら、僕は初めてサイトウユキコと出会ったときのことを思い出していた。


 父の仕事の関係で市内の別の小学校から僕がサイトウのいる学校へ転校して来たのは小学校の五年生の時だった。春のある一日、母に連れられて初めて訪れた転校先の小学校のグラウンドで、体操着姿でドッヂボールをしていたのが僕が初めて見たサイトウの姿だった。校庭で遊んでいる子供たちを僕が眺め始めたのを見て母も僕の横に立ち止まった。

 サイトウはそれほど運動神経の良い女の子ではなかった。投げる時にボールにうまく力が伝わらないのか、ボールはふわっとした力のない球になって楽々と相手に取られたし、ボールをうまく受けきれずにすぐに外野に出されてしまった。でもサイトウは一所懸命にボールを見つめ、外野に転がっていくボールをめがけて駆けていき、そして盛んに声を出していた。

 翌日僕が入るクラスが決まり初めて教室に入った時に、一後ろ隣の席に昨日ドッジボールをしていたその女の子が座っているのを見て僕は頬が熱くなったような気がして少しどきまぎした。

 たぶん、それが僕の初恋の始まりだったのだ。

 転校生は最初のうちはうまくクラスの中に溶け込めないものだけど、小学校二年生の時に一度転校を経験していた僕は少しのきっかけを見つけてクラスに溶け込む事が出来るすべを身につけていた。サイトウと初めて話をしたのはクラスの半分くらいの女の子と口をきいたあと、転校して来てから二週間くらい経ってからだった。僕が親しく口をきくようになっていた他の女の子と一緒にいたサイトウは、

「転校って楽しい?ほかの学校に行くってどんな気分なの」

と僕に尋ねた。僕はしばらく考えた。

「一緒に遊んでいた友達とは別れなくちゃならないし嫌なこともあるけど、いいこともあるよ」

「いいことって?」

「いろんな人と知り合いになれるんだ」

「そうか。そうだね」

サイトウは僕の眼を覗き込むようにして、微笑んだ。

「私もそのうちの一人だね」

うん。

 サイトウに向かって僕は頷いたんだ。


かたん、と椅子を引く音がした。サイトウユキコの思い出に浸っていた僕の眼にさっきの女の子が席からすっと立ち上がるのが見えた。

 本を借りるつもりはないらしく、女の子は書架に向かってさっさと歩き出した。僕は「建築」の分類の書棚にさっき出してきた重たい写真集を適当に突っ込みながら彼女の姿を眼で追いかけた。

彼女に声を掛けなければいけない、どうしても、と思ったのはなぜだろう。普段の僕なら決してそんなことはしないのにその時はそのまま彼女を見送ることは決して許されないような気がしたのだ。

 「空はつながっているんだよ」

 ふっと、サイトウユキコの声が耳に甦った。本をきちんともとあった場所に戻した彼女は階段からの入り口とは別の二階から直接坂の上に出る出口を通って外に出た。

何かの衝動に駆られるように僕は小走りに彼女に追いつくと声を掛けた。

「ごめんなさい。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」

振り向いた女の子は一瞬怯えたような眼をして、それから首を少し傾けて僕を見た。時間が溶けた。懐かしいサイトウがそこに立っていた。

「なんでしょうか」

そう答えた声もサイトウユキコとそっくりで柔らかく、でももう少し透き通っていた。

「あなたにとてもよく似た女性を僕は知っているんです。もしかしたらご親戚じゃないかと思って。と言っても僕と同い年の女性なんですけど」

彼女は視線を下げて僕の足もとを見つめ黙っていた。

「その人、サイトウさん。サイトウユキコさんっていうんですけれど」

女の子は口を結んだまま僕の声を聞いていた。そして顔をあげると僕をまっすぐ見つめた。

「斎藤由紀子は私の母です」

やっぱり、そう僕が思った時、彼女は僕を見つめたまま不意に大きく息を吸い込むと、硬い声で尋ねた。

「あなたは・・・私の父親なのですか?」

背の低い小さな向日葵ひまわりがいっぱいに咲いている花壇では上から蝉が降るように鳴いていた。猛々たけだけしい真夏の日差しの中で僕らは向き合ったまましばらく沈黙した。風は止まっていた。額に汗が浮いてくるのを感じながら僕は女の子の問いの意味を捉えあぐねて彼女を見つめていた。

「いや、僕は斎藤由紀子さんの中学校の時の同級生です」

ようやく僕がそう答えると女の子はがっかりしたような、それでいてほっとした複雑な表情を浮かべた。

「突然、声を掛けてごめんなさいね。でも本当によく似ていたから」

女の子は髪を掻き揚げるような仕草をしかけて、ふとその手の動きを止めた。

「よく言われるんです。親戚からも。まるで生まれ変わりのようだって」

生まれ変わり、という言葉に引っかかった。

「じゃあ、お母さんは」

「私が五歳の時に亡くなりました」

「そうなんだ」

僕は呟いた。サイトウユキコは死んでしまっていた。僕の初恋の相手は、僕が知らないうちに僕の手の届かない世界に旅立って行ってしまっていたのだ。

 サイトウ・・・それはないよ。

 君のいる所とこの空はつながっていないじゃないか。あんなに溌剌はつらつとしていて明るかったサイトウがもう今はこの世にいない。あの柔らかい言葉使いも、僕の頬に優しく触れた黒くて長い髪もこの世から消えてしまったんだ。そう思った瞬間に景色の中の向日葵の花がぼんやりと滲んだ。眼の前の女の子はサイトウとそっくりの黒い大きな瞳でそんな僕の様子をじっと見つめていた。

「父ではないんですね」

ぽつんと女の子は独り言を言うとふと眼を細めた。そして何かの香りをかぐようにしてから、驚いたような表情を浮かべて僕をもう一度見つめた。


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