第21話 「 悩みの時のバインバイン 」
長い一日だった。とてもとても、とてもじゃないが、長すぎた。言葉が飲み込みづらくなる程度は疲弊して、ルチル・ハーバーグはため息に似た何かを吐き出した。
朝早い牧場の仕事をマルコ・ストロースとこなし、少しの休憩時間を挟んでアニール・クッキーの果樹園の手伝いをして、お昼のご飯の時に川で溺れたカルネという女性を助け出せば、マメとキノコという男たちにアニールがお怒りモード。付き添いとして声をかけられたマルコが一緒に話し合いの場に行くことが決定すれば、子牛であるルチルも当然一緒に村長宅へお邪魔することと相成って、意気消沈したのっぽとずんぐりから話を聞いた際には、昔村長が酔っ払った勢いで言っていたらしいおとぎ話から砂金がとれるかもとマルコは言いだして、ならばそれは一体どこにあるんだという話に広がって――閑話休題。諸々が一段落してルチルが牛舎へと戻ってこれたのは、赤い西日が藍色を濃くした頃だった。『ただいま、ミルク姉さん』の言葉と一緒に体を投げ出した干し草のちょっとチクチクした感触がやけに懐かしく感じちゃうノスタルジックなルチルは、だからため息に似た疲弊色の強い息を吐き出しちゃう。
変わって。角をはやしたグラマラスボディーを誇るでもなく誇っちゃえるミイ姉さんは、死に体のルチルに目をやって呆れたような声を出す。干し草の上でゴロンと体を動かすだけで妙な色気があるのは彼女がホルスタインでバインバインだからかもしれない!
『どうしたの、ルチル。そんなに疲れて。何かあったの?』
『何か……そうですね、ありました。一大事でした』
『一大事って。そんな大事だったの?』
『大ごとも大ごとで、でも大事にはならなくて』
『大事にならない大ごとで、でも一大事だったの?』
『はい、もう、大変だったんですよぅ』
ふえぇー! と。妹系幼馴染があざとく出しそうな声を他意なくこぼしながら、ルチルはミイ姉さんの胸に飛び込んでいった。ムッニムニでフッカフカのおっぱいに挟まれながら話すのは今日の出来事。それを聞くミイ姉さんは飛びついてきたルチルを難なく受け止めて頭を撫でながら『あらあら、そう。へぇ、偉かったわねぇ』などと相槌を打つ。静かに耳を傾け、子供をあやすように。
仕事、手伝い、事故、救出、話し合い。
それら一切合切を、ルチルの気が済むまで聞き手に回ったミイ姉さんは、自分の胸に顔を埋める女の子の瞳を覗き込むように微笑んだ。
『本当に大変だったみたいね。お疲れ様、ルチル』
『んふー、チカレマチタ。……もう、人が死んじゃうかもしれない場面にはあいたくないです』
『そうね。それは悲しいものね。でも、ルチル。これで人の姿に戻れる時も早まったんじゃないかしら』
『……そっか、良いことなんですね、あたしがしたことって。――でも』
『何か引っかかるの?』
ルチルはミイ姉さんの豊満なおっぱいを指でつつきながら難しい顔を作っていた。
『えっと。あたしには、その、良く分からなくて。だって、溺れてる人を助けるのは当たり前だし。あたしの故郷は水の都って言われてて、例えば、観光客の人とか溺れてたらみんな助けに行ってたし。その当たり前が良いことって……なんか、腑に落ちなくて』
『そう、そうね。そうかも知れない』
ミイ姉さんは言葉を一つ置いて困ったように微笑んだ。
『ルチルが言うことももっともよ。何も間違っていないわ。命は命を助け合っているんですもの。――でもね、ルチル。きっとヒトの世界では良いことよ。それは少し悲しい理由であるけれど、ルチルが考えている当たり前を、〝当たり前のように行えるヒト〟は少なくなっているのだと思うもの』
『少なってる?』
『そう。ヒトの社会も私たち動物から言わせれば群れを成す動物に過ぎない。そして、群れを作る動物は多かれ少なかれ自分のコミュニティーを守るため、他の個体を助けようとするものよ。それこそ、当たり前のように』
『じゃ、じゃあ! 今日あたしがしたことも当たり前で、良いことなんかじゃな――』
『ああ、違う。違うのよ、ルチル。あなたは今日、本当に良いことをしたのよ!』
ミイ姉さんは慌ててルチルを抱きすくめると額にキスをした。改めて視線を合わせる時にはルチルの額に自分の額をこつんと当てて、優しく続ける。
『……そうねぇ、ヒトが形成する社会は、自然との調和を忘れられるくらいに力を持ってしまったのよ。それはここ二ペソのような小さな村の中ではまだまだ忘れられていないけれど、ヒトは集まれば集まるほどに自然を圧倒出来る力を持って、力を持てば持つほど、ヒト同士で力のぶつけ合いを起こしてしまうの』
『喧嘩する、ってこと?』
『ん、まあ、簡単に言えばそうね。長く生きている間、この土地を離れたことはないけれど、それだけ時間があればいろいろな話は漏れ伝わってくるもの。渡り鳥の話や、マルコの坊やの所に来る行商さんの話とか。話の中には心躍るものや、優しく鳴れるものも沢山あったけれど、でも、時代が流れるたびにヒトの争いの話は増えてくる。昔からの国同士のいざこざだけじゃなくて、個人個人の、争いがね』
『……、喧嘩は嫌です。嫌いです。自分も相手も悲しくて、寂しくて、きっととっても辛くなっちゃう』
『そうね、だからヒトは他人を疑う……いいえ、確認しようとするのよ。相手は悪いヒトじゃないかな? お付き合いを持っても大丈夫かしら? ってね。自分に悪い影響があるヒトとは関わり合いを持ちたくないのよ。だからヒトは確認が終わらないと他人に近寄れなくなってきているの。もちろん、ヒト助けするときにだって、その確認がまず頭をもたげちゃう――このヒトは大丈夫かな、って』
見る見るうちに悲しく染まっていくルチルの瞳に、ミイ姉さんの胸が痛む。
『それって、なんだか切ないです。ミルク姉さん……』
頭を撫でられながら、ルチルは今日の出来事――溺れて真っ青になったカルネの顔を思い返した。ミイ姉さんの言葉を疑っているわけではないが、あの状況を眼にしておいて助けない人なんていないはずだ、とルチルは思いたかった。
しかし、それでも。
ルチルにも数か月の旅を経てこの地までやってきた経験がある。その間、すべての人が優しいわけではなかったことを覚えている。例えば、はしゃいでいた子供が通りを行く男性とぶつかった場面では、その子は唾を吐きかけられていた。周りの大人たちは誰も助けようとしてくれなかった。寂しかった。悲しかった。そして逆に、またある時には助けた善意を利用してやろうと企む人間にも出会った。苦しかった。悔しかった。
ルチルはより深く、ミイ姉さんの胸にうずくまるように身じろぐと、呟きを漏らした。
『あたしには難しいです。良いことって……』
そして目をつむる。すぐに寝入ったのか、ルチルはそれから一言もしゃべらなかった。
ミイ姉さんは胸元のルチルに苦く笑んで、頭を撫で続けた。
(良いことをする――それを悩む子がいるなんて。それもこれもルチルのお婆さまの賜物なのでしょうけど……本当に不思議な弊害を引き起こしたものね)
呆れればいいのか、それとも余計なことをと憤ればいいのか。ミイ姉さんは分からなくなってくる。事実、それは称賛されるべきことだろう。けれど『手助けするのは当たり前』と言い聞かせるのではなく、『良いことをするのは当たり前』と教えていればルチルはこれほど悩まなかっただろうにと、ため息が出る。
けどねぇ――とミイ姉さんは考える。
さて、良いこととは何でしょう? そう問われたとき、いったいどこの誰が完全に納得いく答えを用意できるというのか。ミイ姉さんは知っているのだ。そんなものはないと。腹ペコオオカミと野兎の出会いを例に挙げればわかりやすいだろうか。食べたい側と逃げたい側の『良いこと』が一致するなんてそうはないはずだ。
(まあ……そうは言っても、これを深く考えられるほど若くないのよね、私って。だからって、私のあきらめをルチルに押し付けるわけにもいかないけれどねぇ)
ミイ姉さんはモフゥと更に溜息を重ね、胸元を濡らすルチルをギュウと抱きしめる。そして、ルチルから聞いた砂金の話に意識を切り替えると、少し不安の混じった視線で牛舎の小窓から顔をのぞかせる月に願いを込めるのだった。
(とうとうその時が来たのねぇ。ああ、ミルク酒に弱かった先代村長のガル坊や、きちんとマルコに伝えているのかしら。お池の話、間違っていなければいいけれど……)
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