6-9 雪原の道行き

 雨も雪も降っていないが、雨具は脱がなかった。防寒具代わりに着ているのだが、それでも体の震えるは止められなかった。歩きながら体を小さく揺らすヒタクに、アヌエナが手の平をこすり合わせながら問う。


「ちょっと。あんたの羽で飛んで行った方が速くない?」


「こんな冷たい中を飛んだら、あっという間に体が凍りつくよ。むしろ身体が温まるぐらいに歩いた方がいいと思う」


 ヒタクは絡羽からばねを背負い直しながら答えた。万が一この場で何かあった時、即座に脱出するために装備したのだが、重みで体温が上がったのは嬉しい誤算だった。


 もっとも、『自分だけずるい』と文句を言われそうで黙っているが。


「せめて入り口が分かっていればね。一気に飛んで行ってもいいけど」


「それが分かってたら最初から苦労しないっての、もう。あの子が見つけてくれてきたらいいのに」


「ヤタ……」


 彼女のぼやきを耳にして、ヒタクは目の前が暗くなるのを感じた。舟が落ちてはぐれた形になってしまったが、彼はどうしているのだろうか。


(まだ雲の切れ間を探してくれてるのかな。僕たちを探して空をさまよったりしてなきゃいいけど)


 一向に姿の見えない相棒が心配だ。


 だが今は、再会を信じて歩くしかない。


 頭をもたげてくる不安を押し殺し、ヒタクは眼前にそびえる銀色の壁を見据えた。


(フソウを守る保護壁……。きっと枝は切り落としてるんだろうな。こんなに寒いとまず育たないだろうし、だから樹面に代わるこんな平原みたいな広場を造って……あれ?)


 一つ、疑問が芽生えた。


 今まで気にしたことはなかったが、天人はこの空の世界にどやって樹を植えたのだろ。


 仮に、空に底があったとして、種を植え天に届くほど大きく育てるとなるとどうなるか。きっと、時間も手間も膨大なものになるはずだ。それならばむしろ、白虹はっこうからそのまま下へ道を造った方が早いのではないか。


(兄さんはフソウの中が空洞って言ってたけど、本当はフソウの外に森ができたんじゃ? あの柱……いや、中を通るんだったら塔かな? あれを梯子はしごみたいにシロニジから降ろして、この広場を作って移住して――)


 天人が空に移り住んだ後、長い時間を経る中で塔の壁伝いに宿り木が成長し森になった。そう考えれば辻褄つじつまが合う。


(でも、それじゃあ……)


「なんか、息苦し――」


 思考を巡らせていると、傍らから声がした。そのかすれた響きに、ヒタクは慌てて少女へ目を向けた。


「え? ごめん。聞こえなかった」


「息苦しくなってきた、って言ったの……」


「あ、それは僕も。空気が薄いせいだよ」


「そういう割には元気そうだけど?」


「個人差じゃない?」


「いいえ。男女差ね」


「そうかな」


 彼女の感じている苦痛を少しでも和らげようと、とりとめのない会話を続ける。だが高空に陣取る冬の空気までは変えられない。せめて身体が冷えないようにと、ヒタクは足に遅れが出てきたアヌエナへ寄り添った。


「あ、あんまりくっつかないでよね」


「う、うん」


「でもわたしが転びそうになったら、すぐ支えなさい」


「それは……くっついてないと難しいかも」


「口答えするな」


「わ、分かった」


「……」


「……」


 いつしか会話が途絶え、無言のまま歩みを進める時間が続く。


(ええっと、ほかに何か話題は……)


 馴染みのない空気に必死で頭を働かせるヒタク。だが、気の利いたセリフは一つも浮かばない。ただざくざくと、白銀の世界に足音が響く。


 ざくざく……。


 ざくざく……。


 ざくざく……ざくっ。


「きゃっ」


「わっと」


 足音のリズムが崩れ、アヌエナが小さな悲鳴を上げた。咄嗟とっさに彼女を支えることができたのは、先程の雑談のおかげかもしれない。


(照れ隠しに怒るかな)


 少女の普段の言動からヒタクは少し身構えた。だが案に相違して、彼女は大人しく支えられたままだった。


「? アヌエナ?」


「ん……」


「どうしたの。大丈夫?」


「ヒタク、わたし……」


「なに?」


「なんか、気分が悪い……」


「え?」


「ちょっと、肩、貸してくれる?」


 少女は途切れ途切れに口を開くと、ほとんど抱きつくようにヒタクへ寄りかかってきた。その頰は赤く紅潮し、息遣いが荒い。明らかに体調が悪化していた。


「どうしたの。どこか痛い?」


「痛くはないわ。ただ……、目がくらくらして気持ち悪い。吐き気がする」


「吐き気?」


「あ……。ごめん」


 反射的に繰り返した単語で、アヌエナは万が一の粗相を心配したのだろう。弱々しく手を突き出して体を離そうとする。それに対してヒタクは、彼女を強く抱き締め引き止めた。


「いいよ! 気なんて遣わなくても。ほら、もっとこっちに寄って」


「ん。ありがと。……でも変ね。わたし、空酔いなんてしたことないのに」


「空酔い? ……そうか、山酔いだ!」


 ヒタクは高所特有の病気を思い出した。


 高山病とも呼ばれるそれは、気圧の低下が原因となって起こる体調不良だ。重症時には意識障害の恐れすらあるという。


 ゼンマイ仕掛けの翼で空を飛び始めた頃、姉からあまり高くへは行かないよう散々注意されていた。にもかかわらず、その危険が全く頭になかった。


(ばかだ、僕。気付くきっかけなんていくらでもあったのに)


 思えば、雲霧林に入った辺りから彼女の機嫌は悪かった。あの時すでに初期症状が出ていたのだろう。もっと気を配るべきだった、と後悔している場合ではない。ヒタクはアヌエナを抱き留めたままきびすを返した。


「一度降りよう。酸素が戻れば治るって聞いてるから」


「え? でも、ここまで来たのに」


「どのみち、今の格好じゃ凍え死んじゃうよ。もう一度、装備を整えてから出直さないと」


 空の森に降りるだけなら自分でもどうにかなる。そう判断して、ヒタクは一刻も早く飛舟とぶねに戻るべく絡羽からばねを広げた。そして少女の体を抱え上げようとした、まさにその時。


「ご……めん。わたし……もう、だめ」


「アヌエナ!?」


 少女が息も絶え絶えにつぶやいた。その顔は腫れて赤く、体が異様に冷たい。高山病に加えて、寒さに体温が奪われているのは明らかだった。すぐに飛舟とぶねの炉で暖を取るべきだが、果たしてこんな状態の人間を冷気にさらしていいのか。下手に高速で飛ぶと、身体が冷風をまともに受けて凍ってしまうような気がした。


(こういう時は人肌で温めればいいんだっけ? でも早く酸素を吸わせないと意識が戻らなくなる……。けど飛んだら体が冷える……。でも温めているような時間は……)


 少女の体温を保持しつつ急ぎ空を降下。


 頭ではやるべきことが分かっているのだが、経験の浅いヒタクはどれを優先すべきか判断に迷う。


「アヌエナ! アヌエナ! しっかりしてっ!」


 ついに恐慌状態に陥ってしまい、一心不乱に叫び続けるしかできなくなった。貴重な時間が刻一刻と過ぎていく。だが風前の灯火ともしびとなった命はどうすることもできない。


 いよいよ呼吸も怪しくなる少女。


 成す術もなく立ち尽くす少年。


 その背後――。


 ざり、と雪のきしむ音がした。

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