5-7 別れの夜

 フソウに流れ着き、空の森の小屋で暮らすようになって四年。


 ヒタクは夜の廊下を歩いていた。


「う~、冷える。早くお布団に戻らなきゃ」


 熱帯といえども、太陽が沈めば熱源はない。このため夜は意外に気温が下がる。うかつに腹部を冷やすと、お手洗いの世話になることもしばしだった。


 この日も用を足し終えたヒタクが自室に戻ろうとすると、隣の部屋から兄のシグレが出て来るのが見えた。彼もお手洗いに用事ができたのかと思ったが、違った。何度も後ろを振り返りながら、しかし廊下の反対側にいる弟には気づかないまま玄関へ向かう。


(兄さん……?)


 なにか様子が変だ、と思っているうちに兄は音も立てず静かに戸を閉めた。


 こんな夜更けに外へ出てどうするのか。


 気になったヒタクが廊下の窓から目を凝らすと、月明りの中を歩く後姿が見えた。


「あっちは……」


 先の折れた太い枯れ枝が見晴らし台のように突き出し、空と森を眺めるには絶好の場所がある。兄は夜景が見たくなってこっそり起き出したのだろうか。


(僕も一緒しようかな)


 久しぶりに兄弟二人で星空を見上げるのも悪くない。


 そう思って急ぎ小屋を出ると、すでに兄の背中はなかった。


(あれ……)


 どこへ行ったのかと首を回すと、枯れ枝の先には進まず付け根へと向かっていた。見晴らしのよさとは無縁の、フソウの幹に至る道だ。


「兄さん?」


 果ての見えない絶壁のようなところへ何をしに行くのだろう。しかもあの辺りは、カグヤから立ち入りを禁じられていたはず。不審に思いながらヒタクは後を追う。


「っとと」


 こずえの隙間から差し込む月の光がなければ足元もおぼつかない。バランスを崩して転びそうになったヒタクは、反射的に傍らの木に手をついた。


「ふぅ、危なかった」


 一息つき、もう少し慎重に歩こうと改めて顔を上げる。と、枝葉の向こうに人影を見た。


「っ……!」


 空の樹の管理者が、淡く輝く翼を背に広げて降りてくる。


(いけない!)


 自分は今、言いつけを破っている。


 その事実にうしろめたさを覚え、ヒタクは息を殺して身を潜めた。


「それで――」


「――に言う」


 夜風に乗って二人の男女の声が聞こえてくる。途切れ途切れだが、その強張った空気の震えに真剣な話なのだと子供心に理解した。


(カグヤさんと兄さん、だよね。なんのお話だろう?)


「――――よう」


「――っ!」


 穏やかだった夜はとうになく、辺りは緊迫した雰囲気にのまれている。だが茂みの陰からでは何も見えない。声を掛けるタイミングを逸したヒタクは、やきもきしながら暗闇に耳を澄ませるほかなかった。


「ごめ――。あな――」


「……そうか」


 会話は男のため息のような声を最後に途切れた。代わって樹面に積もった落ち葉の擦れる音が響く。規則正しくも弱々しいその音は、だんだんと大きくなってくる。


「わわっ」


 兄がもと来た道を引き返そうとしている。そう気付いて、ヒタクは急ぎ茂みからい出した。袖を枝に引っ掛けるが力任せに振り切る。眠っていた鳥が驚いて飛び起きるのも気にせず、一目散に小屋へ駆け戻った。


(ごめんなさいごめんなさいのぞく気はなかったんです)


 自室のベッドに潜り込み、一心に謝罪を繰り返す。やがて緊張感が疲労感に取って代わられると、ヒタクは眠りに落ちた。


 翌朝、兄は森を出ると宣言した。


 弟は付いていかず、森に残った。


――――――――――――――――――――


「……兄さんは触れることもできない天人の叡智えいちより、自分で切り開ける未来を選んだんだと思う。シロニジに登るのを諦める代わりに、小型飛行船を用意してもらったようなこと言ってた」


 一通りの説明を終えると、アヌエナは得心が行ったとばかりにうなづいた。


「そっか。お兄さんは元々それを目当てに生まれ育った島を出たから、管理人であるカグヤさんの許可が下りないと、あの森にいる理由もないのか」


「うん。そんな重要な話を、何であんな真夜中にしてたのか今一つ分からないんだけど」


 自分も無関係ではないのに、という気持ちを込めながら同意する。ところがなぜか、彼女は視線をそらして目を伏せた。


「大人の夜ね」


「え?」


「なんでもない」


 ぼそりとしたつぶやきを聞き返すと、少女は首を振って応えるだけだった。話を本筋に戻し問い掛けてくる。


「あんたは残ったのね」


「うん。元々僕は兄さんに連れてこられただけで、確かな目的とか信念があったわけじゃないから。そのまま付いていっても足手まといになるだけだと思って」


「で、そのままずっと森に引きこもってると」


「ひきこ……。別に外に出たくないんじゃなくて、花の世話とか動物の保護とか、あの空の森の保全活動みたいなことがしたいんだ。姉さんに恩返しがしたいんだよ」


 本心からの言葉だったが、今度は納得を得られなかったようだ。アヌエナが探るような声音で確認してくる。


「あんた一人で?」


「それこそ姉さんは一人だよ。……いや、妖精さんがいるんだっけ?」


「え? 妖精! そんなのいるの!?」


「僕も見たことないんだけど。あの避難小屋造ったり、森を出る兄さんに小型飛行船を用意したのは彼らみたいなこと言ってた」


「そんなバカな……。いえ、それも天人の遺産なのかしら?」


「え? ああ、そうかも」


 言われてその可能性に気づいた。


 思えば、あの巨大な樹の全てをカグヤ一人で管理するのは無理がある。おとぎ話の妖精が実在するとは考えにくいが、ヤタのような鳥や小動物が補佐をしているのだとしたらどうだろう。あの鮮やかな朝焼け色の羽を持つ鳥は他に見ないが、自分も森の全てを把握しているわけではない。


(ヤタってすごく賢いし、人の言葉を理解できるもの。自然のカラスじゃなくても不思議じゃないよね。もし先祖は天人と一緒に空の上から降りてきたんだとしたら、ほかの動物もいてよさそう。サルなら道具も使えそうだし飛行船の準備も……できる、のかな?)


 などと考えていると、アヌエナが大きく伸びをした。そのまま反動をつけて立ち上がり、通りに目を向ける。


「ま、おしゃべりはこのぐらいにしておきましょ。おなかも膨れたことだし、市場に戻るわよ」


「うん。……って、これはどうしよう?」


 ヒタクは自分の手にした芋の包みとジュースのカップを見た。このまま舟まで持って帰るしかないか、と思っていると空を渡る娘の答えは違った。


「その辺に捨てとけばいいわ。元は木なんだから」


 無造作に投げ捨てられる包みとカップ。その軌跡を目で追うと、路肩に生える木の根本に落ちた。


「さ、行くわよ」


「う、うん」


 そう返事をしたものの、やはり路上にごみを捨てるのには抵抗がある。包みもカップも椰子の葉や実を加工したものだから、そのうち土にかえるというのは理解できるのだが。


「クヮ」


 ヤタが大丈夫だというように鳴いた。


「ほら早く。私の商売はまだこれからなんだから。ぼやぼやしてると日が暮れちゃう!」


「あ、待ってよ」


 せめて他の人が踏まないところに捨てようと、ヒタクは急ぎ道の端に寄った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る