{本能寺の変、“悲劇の姫“の素顔}

第11話 名優退場



 —天正十年六月二日 京、本能寺

 未明の事であった。信長は一瞬目を細めたあと、旗指物を認めていつもの甲高い笑い声を発した。



   「わしは生き抜いたぞ」




 赤い業火の報せは遠く山を越え、中国に布陣した秀吉の耳を焦がした。

 はじめ、秀吉は言葉を失い膝から崩れ落ちた。


 「兄者…」


 力無い秀吉のそばには幸い秀長と黒田官兵衛孝高の二人しかいなかった。


 「ご運が開けましたな」


 官兵衛はそっと低声こごえで囁いた。温厚な秀長も、つい冷たい視線を官兵衛に送った。しかし、秀吉はその一言に胸を張って夕焼けのような色をした目に、遠く明け始めた空を留めた。



 高虎は羽柴秀長に従って、馬を走らせながら、事態を必死で反芻していた。


 「織田様が、織田様が…討たれたと…」


 指の先から血が燃えていくような心地がした。

 

 (世の中が変わる…!)


 つい数年前の俺は、世の流れにただ流され、激流の端で必死にもがいていただけだった。

 だが、今はその渦中にいる。


 それが、虚しく辛い事なのか、幸福な事なのか彼にはまだわからない。今はただ、高虎の大きな目に獰猛な光がさしていた。






 (…大変なことになった)


 恥ずかしながら、今が何年何月で、本能寺の変が何年に起こるか、しっかりと把握していなかったから、…ただただ、驚いてしまった。


 (天下を取る……秀吉様についていってほしいとは思うけど……高虎様は…今の所大丈夫そう…)


 朝子は、高虎の本拠地である大家郷の屋敷で、いくつかの書状をしたためながら考える。

 もしも、高虎様が私の知る限りの知識で、歴史の流れに逆行したら…私はどうするのだろう…


 (……。)


 私が夢や希望だけを持った中学生や高校生の年齢ならば、無知な、そして直向ひたむききな心をまだ持っていたならば…世の中を変えようとしただろうか?


 でも、私は…社会の暗さも虚しさも、

そして明るさも幸福も知ってしまった。


 (生きていけたらそれでいい…)


 今のところは、そう思おう。

 

 衣擦れの音が震える睫毛の影に落ちていく、


 「朝子様!」


 「九…いえ、お春…どうしましたか?」


 「下女」として雇った少年がお仕着せの小袖の裾を乱して部屋へ入ってきた。


 「羽柴秀吉様のお方様は、寺に匿われて無事なようです。

 しかし、安土城下は混乱しているとか…」


 「そうですか…おね様…よかった…」


 明智方により、安土では織田の残党狩りが行われている。おね様やお通さんなどの安否が気に掛かっていてもたっても居られなかったが、ひとまず胸を撫で下ろした。


 「備中に出征していた旦那様のいる羽柴様の軍勢は、毛利と和議を結ばれたそうです。」


 「そうですか…」

 

 春に出征していった夫の背が脳裏に浮かんだ。それは余りにも遠い。

『お春』は伊賀の生まれだからか、情報を得てくるのが非常に迅速で上手い。

 新聞や、インターネットが無い私にとってまさに宝のような存在になっていた。


 

 「織田様の弔い合戦は、摂津と山城の境…天王山と見込んで、羽柴様は軍議を開かれたそうです」


 「天王山…」


 結果を知っていても、やはり手に汗が滲む。私がここにいるのだから、何が起こっても不思議はないではないか——




 六月十三日— 夕闇の迫る天王山。


 

 「討ち取られても見苦しくはないように」


 肉も食べず甲冑に香を焚き染める侍は多いという。


(バカらしい)

—俺は、死なない。

—もしも俺を殺す者が有れば一生忘れられない記憶も与えてやる。


 高虎はそう吐き捨て、伊勢与三郎なる武者の首を落とした懐刀の血脂を拭った。


 「与右衛門!」


 「新七郎」


 藤堂 新七郎良勝しんしちろうよしかつが、同じく首を下げて高虎に駆け寄ってきた。

 長身で、面立ちも似ている二人は、母系を共にする従兄弟である。


 「おお、よくやったな」


 高虎の兄が討死した戦で父を亡くした新七郎は、高虎の家に引き取られ兄弟同然に育ってきた。そして、武将とも呼べぬ雑兵の頃から、こうして共に走って来た。


「しかし、大将ともあろうものが敵陣に斬り込むとはな。まぁ、与右衛門らしいが」


「秀長様に知れたら叱られるな…。しかし、謂わば弔い合戦だ。功をあげねばならん」


 織田信長公が明智光秀に討たれたのが遠い昔のようだが…

 まだたった十日ほど前の事なのだ。


 中国より驚異的な速さで兵を引き返し、この山崎に明智らを追い詰めたのは明け方の事だったか…


 「しかし明智公も運が無い。お味方が得られずとは」


 「…そうだな。だが、明智公はあの変事の直前に肌身離さず持っていた念持仏を寺に納めたそうだ。

 何かしらの覚悟があったのではあるまいか…」


 幼なじみで従兄弟だが、ふと知らない武将の顔をする与右衛門…高虎は、どこからか仕入れた情報を呟くと静かに目を伏せた。


 「…そうか…織田公は有能な施政者でもあり、横暴で気分屋なところもあったゆえな…」


 空を見上げた新七郎は雲の切れ間に向かってつぶやく、数年前の織田と浅井の戦いを思い出しているのだろう。藤堂家の領地も相争う織田と浅井の間で分断され、ずいぶんと苦労した。


 藤堂家は一つの家に仕える譜代の武士とは違い、俗に言う「陣場借り」の家柄である。


 陣場借りとは麾下に「加わり」戦うのみで「主従関係」とは少し違っている。


 現代で言えばゼネコンが下請の子会社に募集した人員のような関係で、

特別に対象の大名家に『愛社精神』があるわけでは無い。


 だが、高虎にとって浅井備前守長政はふと思い出さざるを得ない人物だった。

 生母の多賀とらは、幼少期に高虎の祖父藤堂忠高の養子となり、長じては浅井亮政の養女として父の三井源助虎高を婿に迎えた経緯がある。


 近江は「惣村」という自治制度が発達し、浅井氏も遡れば一村の代表者の出自。それだけに豪族同士横の繋がりを大切にしていた土地だった。そのような縁からか、初陣で兜首をあげた十五歳の高虎に、長政公自ら佩刀と感状を下さった。

 若く未熟な荒武者だった彼に、はじめて「褒美」の喜びを教えてくれたのだ。

 (あの頃は長政公は到底届かない雲の上の存在だったが…)

 今は浅井家を滅ぼした織田家の家臣羽柴家に仕え、

 その織田家も砂上の楼閣となっている。


 (…わからないものだ)


 今はもう何処にも居ない人が、この国には面影として残っている。

途方もない心を、手中の「首」が呼び戻す。


 いつの間にか月が夜の真上に輝いている、周りを見渡すと天王山に残るのは羽柴の兵士だけになっていた。


 (…今は、目の前の道を行くしかない)


 「ふ。ここだけにしろよ、新七郎。」


 にやりと、高虎は返り血顔に人差し指をやった。

 



 本能寺にて主君織田信長を弑した明智光秀は、

 山崎合戦の敗戦で軍事力が壊滅状態に陥ったものの、再起を図るためわずかな手勢を率い本拠坂本城を目指す途中、

 落ち武者狩りに遭い深い藪の中へ命を落とした。






 光秀の首は翌日には秀吉の下に届けられた。

 秀吉の薄い胸に、今日こんにちまでの日々が駆け抜けていく。


 いつも趣味の良い直垂に身を包んでいた胴体をいずこ、首だけの光秀は目を見開いたまま虚空を睨んでいた。



 (なぜ…なぜなんじゃあ…明智様!)


 わずか一月前までは、同じ旗のもと明日を追っていたと言うのに。


 教養があり、有能な明智様がこのような最後を迎え、

 己がその首を見下ろすことになるとは…。


 果てしない道に迷い込んでしまった、秀吉は、今まで走ってきた人生が音を立てて崩れて行くのがわかった。世が自分を置いていこうと言うなら、自分で世界を作ってやる——もう二度と、立ち止まったりするものか。


「…丁寧に化粧をしてやれ」


 光秀の首は、後に柴田勝家の元へ送られ、さらに京都の本能寺に晒されたと伝わっている。



 驚異的な速さで軍を翻し、明智光秀を討伐した秀吉は信長の後継者の座の一等にあっという間に腰を下ろした。


 世に言う清洲会議で諸将を瞠目させ、家老柴田勝家を北陸に追いやるまでの鮮やかさ…。


 この日より、天下はしばし秀吉の背にもたれ、乱世を見下ろすことになる。


 


《※》

念持仏(ねんじぶつ)…個人が身辺に置き私的に礼拝するための仏像。 多くは像高40-50cm程度の木彫像や金銅像であったそう。

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