港湾少女のキス

夏山茂樹

ヴェロニカ・マリーの思い出

 ヴェロニカ・マリー。戦争の痕残るトタン屋根の長屋で生まれ、真冬の寒い中、列車に飛び込んで死んだ哀れな女。今は亡き、私の友達で恋人だった少女探偵。


 尼崎の排水で汚れた海を一緒に見に行っては、船が遠い地平線へ消えていく光景を眺めて外国のお話を彼女から聞いた。


「ピッピってみだれみたいな赤髪の女の子がね、船に乗ってお父さんを探しにいくのよ。そこには黒人のお姫様がいて、ピッピはそこでお父さんと再会するの……」


 自分を捨てた見知らぬ異国の父親に思いを馳せていたのだろう、自身の境遇を憎むことなく健気に笑うその姿に私は同情を禁じ得なかった。


「みだれもその髪を伸ばして三つ編みにすれば似合うのにな」


 そう言って私の縮れた赤髪に触れる彼女。私は彼女の優しそうな、それでいてキッとした様子の顔が近づくのが恥ずかしくて頬を染めた。


「秀子の茶髪だって綺麗だよ」


「そんなの、分かってる」


 自分の髪を自信ありげに解いて、私のおかっぱより少し長い髪に触れて、私の頬についたソバカスにも触れる彼女の手つきは優しい。


「船に乗って、アメリカでもヨーロッパでもいいの。みだれの赤髪はよくソバカスになじんでる。可愛い」


 そう桃色の瞳をした彼女が私の顔を褒めてくれる。バタ臭いと呼ばれていた私の顔を褒めてくれる人なんていなかったから、その時は顔の造形から来るお互いの境遇を笑い飛ばし合っていた。


「お隣さんが、クラスメイトがみだれでよかった。真田みだれ、可愛い名前だな。うん、私の好きな名前! 憧れだよ」


 暴力を幼い頃から受け続けたその瞳には、今まで見られなかった光が感じられる。私はその目を見つめて、眼鏡越しにその愛を受け止めた。


「葉山秀子も素敵な名前。その桃色の瞳も、金髪の混ざった茶髪も、透き通るように白い肌も、私は大好きだよ。尼崎は霧に包まれてるけど、その霧がよく似合うわ」


「ロンドンの霧かな? まあ、私はホームズほどのお金持ちじゃないけど、探偵やってるもんね!」


 その時、ボーッと船から音が鳴った。その音の大きさに驚きながらも、私たちは思わず笑い合って、憧れの人と唇で触れ合った。静かな時間がわずかの間に流れ、その間、唇を食み合って自分たちなりの愛を確かめ合った。西洋の恋人たちがするように。


「は、恥ずかしい……」


 口元を手で押さえる私に、秀子は大きな目で見つめて笑った。


「私も。だって秘密の恋だもんね」


「うん……」


 それから時は流れ、彼女は未婚の母となり追い詰められて自殺。遺された息子は彼女と一緒に暮らしていた女のもとで育ち、中年となった今は東北で餅屋を経営している。


「みだれさん、新作ができたんですよ!」


 仙台駅の中にあるその餅屋の支店で、秀子の孫娘が笑って新商品を案内する。


「このいちご大福は……」


 イギリス進駐軍の将校だった貴族のひ孫で、私の恋人だった女の孫である彼女は女の面影を残す顔で笑うのだった。

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港湾少女のキス 夏山茂樹 @minakolan

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