32. 踏みしめろその足、振り切れよのろいを


 梨生と千結、ホンちゃんの三人でときどきファミレスに集まるのが習慣となってすでに一年半ほど過ぎた。この日も三人で夕食を食べに来ていた。

 梨生は見慣れたメニューの間に期間限定のドリンクメニューが挟まっているのを見つけ、弾んだ声を出した。


「これ美味しそう」


 ホンちゃんが体を伸ばしてメニューを覗き込み、「ほんとだ」と同意してすぐ、


「あ、でもドゥ、これお酒だけど大丈夫?」

「あ……」


 梨生は”これはお酒です”と小さく書かれた文字を確認し、正面に座る千結のことをちらと一瞥して、


「じゃあやめとこ……」


と無念そうに応じた。普段からあまりアルコールを摂取しないようにしているが、特に千結と同席している場合は、二度と醜態を見せないよう酒を遠ざけているのだった。

 しかし、「はらぺこ」と言うホンちゃんが何品もフードを注文したあと、千結は最後に、


「あ、それから“ひんやりライチと杏のソーダ”もお願いします」


と付け加えた。それは梨生が諦めた期間限定のドリンクだった。梨生は羨ましく思う。千結は見た目に反してそれなりに酒に強いのだ。己の体質を恨み、いじけた気分を感じていたら、梨生の顔にその感情を認めたらしい千結が、唇と目尻をわずかに緩めた。

 まもなく運ばれてきたそのドリンクをストローからひと口すすると、千結は梨生に言う。


「美味しいよ。試す?」

「ん、ん〜いいや……」

「美味しいのに」

「うう、お酒さえ入ってなければ……。子どもだってきっとライチ飲みたいよ……」


 梨生が憐れっぽい声で言うので、千結はくすりと笑った。


 フードの到着を待つあいだに千結がお手洗いへ立ったとき、ホンちゃんはのんびりと口にした。


「やっぱドゥといると、アワたんよく笑うなあ」

「――え?」

「笑顔五割増しって感じ」

「逆じゃなくて?」

「逆?」

「……むしろ、前よりあんまり笑わないなあと思ってた」

「え、あれで?」


 記憶のなかのちーちゃんに比べたら全然笑わない、と感じていたのに。


「だって――」


 そのとき、千結が座席へ帰ってきた。


「トイレのハンドドライヤー直ってた?」


 何食わぬ顔で滑らかに話題を変えるホンちゃんの手腕にはいつも舌を巻く。


「まだ。この店永遠に修理する気ないと思う」

「じゃあ髪の毛で対処するかあ」

「毎回のことなんだから、いい加減ハンカチ持ってきなよ」


 千結の呆れた声音に梨生は頬を緩めながら、ホンちゃんへ言う。


「ハンカチ貸そうか?」

「ありがと、ドゥ〜」


 調子よくにっこりとするホンちゃんの隣で、千結はため息をついている。その様子に梨生はどうしてもくすくす笑ってしまう。

 梨生の正面に千結が座り、その隣にホンちゃん、というのがファミレスでの定位置となって久しい。千結とホンちゃんの関係性は傍目で見ていても微笑ましく、梨生はこの三人で集まれていることに心地よさを覚えていた。

 先ほどのホンちゃんの言葉をふと思い出し、あの感想は実態と合致するのかと、梨生が千結を盗み見ていたところ目が合って、彼女は怪訝そうに眉を寄せた。


「なに?」

「ん? なんでも?」



 ほどなくして、注文した食べ物がやってきた。それぞれの皿から立ち昇る湯気と香りに皆笑顔を浮かべて「いただきます」と声をあげたそのとき、卓上で誰かのスマートフォンが震える。ホンちゃんが自身のそれを手に取って、顔をしかめた。


「うわ、バイト先から電話だ。出たくな〜い」

「無視しちゃえば」


 そそのかす千結を見やってから一瞬黙り込み、人の好いホンちゃんは電話に出た。


「はい。……はい。……え〜そうなんですかあ。でもぉ……大丈夫ですよそれぐらい。どうにかなりますよ〜そのメンツなら。……えええ……うん、はい。あ〜……でも今ですね、友達とごはん食べてて〜、ていうかまさに食べようとしてて、餃子」


 鉄板の上でほどよい焦げ目と見事な羽根を披露している焼き餃子を、彼女は切なげに眺めた。


「……ん〜〜、はあ。ほんとですね? じゃあそれプラス、今日あがったあとビール奢ってください。少なくとも二杯です、二杯。――はい、絶対。はい、はい。……はあ、そんじゃまあ、40分後くらいですかねえ。はい、またあとで〜。失礼しまーす」


 携帯電話を置いたホンちゃんが眉を下げて言う。


「団体客の予約が突然入ったとかで、呼び出されたあ」

「行くの?」

「泣きつかれたし、ここのごはん代も、バイト終わりにビールも奢ってくれるって言うからさあ」

「そうなんだ……おつかれさま」


 労いの言葉をかけた梨生に頷きつつ、彼女は荷物をまとめだす。


「ごめんね、じゃあ労働してくる。私のごはん、二人で分けちゃって」


 そう言って紙幣を数枚テーブルの上へ置くから、梨生は遮る。


「いいよ、お金」

「うちの店長が出すお金だからいいって。――でも、ひとつだけ食べよ」


 そうしてホンちゃんは餃子をひとつつまむと、慌ただしく手を振って出ていった。


「……ホンちゃん、結構バイト入ってるよね」

「わりと楽しそうに働いてると思う。でも、就活始まったらバイト減らさなきゃって言ってた」


 千結と二人きりになるのはすごく久しぶりだった。梨生はいまや千結と話すのにいちいち緊張は感じなくなったが、たった二人でいるのはなんとなく気詰まりだった。お酒の力をちょっと借りようかな、と梨生は思い立って、千結の前にあるグラスを指差した。


「やっぱそれ、ちょっと飲んでみていい?」


 千結は目を瞬き、それからにこりとして、グラスを梨生のほうへ押し出した。飲み過ぎないよう、梨生は唇を湿らせる程度に留めたが、それでも、


「美味しい」

「でしょ」


 得意げに口角を上げる千結の横から、「お待たせしました」と声がかかって、ごとん、と天津飯と小ラーメン、ピータンとザーサイ、それからよだれ鶏が卓上に置かれた。全部ホンちゃんの注文の品だった。


「……ホンダどれだけ食べるつもりだったんだろ」

「お腹空いたままバイト行って大丈夫かなあ」

「あの子絶対バイト中につまみ食いするから大丈夫」


 その光景が想像できて、二人で笑い合う。

 いなくなっても二人のあいだを取り持ってくれるホンちゃんのありがたさが身に沁みた。


 食べながら、もうすぐ面接シーズンが始まる千結の就活について二人は話した。「人間としゃべる機会が少ないほうがいい」と言う千結は、IT系の技術職に就きたいそうだ。大学ではひと学年下の梨生はまだ働くことの具体的な想像を描けていないが、千結やホンちゃんたちは社会へ漕ぎ出す準備をすでに進めている。


「転勤とかもありえる?」

「ううん。地方には行きたくないから、拠点が都内の企業に絞って応募してる」

「そうかあ……ちーちゃんもいよいよ社会人になるんだねえ」

「梨生だって、再来年には働きだすでしょ」

「そうだけど……実感湧かないなあ」


 千結はライチの飲み物が気に入ったらしく、追加で二杯目の注文を行なっていた。まもなくして、トレイを持った店員さんがやってくる。


「はい、追加のライチソーダと、こちら、ビールたいへんお待たせいたしました〜っ、ちょうどビール樽が切れて遅くなり申し訳――」


 梨生と千結がきょとんと顔を見合わせたのを受けて店員さんは、「あ、ビールはご注文されてない?」と困り顔になったが、梨生ははたと思い出し、「あ〜注文。しましたしました、ありがとうございます」と頭を下げた。ほっとしたように店員さんがドリンクを二つ置いていったのを見送ってから、梨生は苦笑する。


「ビール頼んでたよね、ホンちゃん」

「ホンダの置き土産が多い……」


 千結がぼそりとつぶやく。


「ちーちゃん飲めそ?」

「大丈夫」


 うんざりと答え、次いで彼女は思い直したように悪戯っぽく目を光らせ、


「――でも手伝って」


と二杯目のライチソーダをずいと差し出した。


「えー……ちょっとだけね」


 千結は屈託なく顔を綻ばせた。

 なんだかんだでちーちゃんも緊張してたのかもしれない、と梨生は思った。いつもよりハイスピードで酒をあおり、少し頬を上気させて、普段と比べて随分無防備に笑みを浮かべている。

 梨生は注意を払ってほろ酔い程度に抑えていたため、その様子をちゃんと観察できた。確かにこの状態なら、“よく笑う”と表現しても差し支えはないかもしれないが、いつも彼女は酔っていただろうか。ホンちゃんの置いていった大量の食べ物で梨生のお腹は膨れて苦しく、浮かんだ疑問を検証する余裕はなかった。

 どうにか二人で三人分以上のご飯を食べ終えた頃にはすっかり夜の帳も下りていた。


「もうむり。コメ一粒も飲み込めない」

「ちーちゃん少食なのに今日は頑張ったね」

「残したらホンダの胃袋に負けだと思って」


 お店を出ると、春から初夏へ変わろうかという青っぽい空気が鼻孔をくすぐった。夜はまだ少し肌寒いほどで、食べ過ぎて熱っぽい体には心地よい。

 駅のバス乗り場へ向かって歩くあいだに隣の千結をそっと見る。足取りはしっかりして酔っ払っているようには見えないけれど、そこはかとなくご機嫌そうな表情はいつもより隙があり、心配だから彼女の家の近辺まで送ることにした。


 バスの外を流れる、すっかり暗くなった風景を見ながら、あと何回こうして二人と気ままにご飯を食べたり話したりするのだろう、と梨生は考えた。


「就活始まっちゃったら、しばらくちーちゃんたちとも会えなくなるね」

「寂しい?」

「うん……」


 就職すれば、二人とも忙しくなって、もっと会えなくなるに違いない。梨生は、なんだか置いていかれる気分になる。

 隣の席の千結が、窓側へ身を乗り出して後ろに消え行く何かを振り返り、そしてバスの降車ボタンを押した。


「え、ちーちゃんちまだまだでしょ――」

「小学校」

「え?」

「学校行こう」


 彼女はそう言うと、梨生の手を引いて停まったバスから飛び降りた。緑が豊かな住宅街は、夜の虫の声で賑やかだった。事態がいまだ飲み込めていない梨生は、戸惑いながら訊く。


「学校行くって言ったって、こんな時間だともう校門も閉まってるんじゃない?」

「うん。だから、忍び込もう」

「……」


 ――ちーちゃんは、顔には出ないだけで相当酔っ払っているんだろうか。

 彼女は躊躇など微塵も感じていない様子で堂々と、二人の通っていた小学校のほうへ頭を向けている。梨生は苦笑して頷いた。



 #



 久々に見る小学校の校舎は、覚えているよりも古ぼけて、そして小さく見えた。校門はもちろん閉じられていたが、脇の花壇から登れば難なく中へ入れた。――少なくとも、梨生にとっては“難なく”。忍び込もう、と持ちかけた千結自身は、大した高さのない門を乗り越えるにもひと苦労だ。先に敷地へ不法侵入した梨生は、鉄柵に不器用そうにしがみつく千結を見上げ、体の動かし方を指示していた。


「そこ、足かけて」

「どこ?」

「そこそこ、そうそう。ちゃんと手で掴んでてよ、落ちて怪我しないでね」

「しないってば」


 千結がよじ登るのに難儀しているのはアルコールのせいだとばかり思っていたが、そういえばちーちゃんは格別にどんくさかったな、と気付き、梨生は笑いたいのを必死で我慢した。

 ようやく登りつめた門の上に跨って千結は、


「……降りるの怖い」

「そんなに高さないから大丈夫だって」


 普段は不敵な彼女は、小さい頃みたいに心細げに眉を下げている。梨生がこらえきれず唇の端に笑みを浮かべて、「ほら」と腕を広げ、受け止める体勢を示せば、彼女はやや迷ったあと、思い切った面持ちで飛び込んできた。


「全然大丈夫だったでしょ」

「うん……」


 腕の中の千結に笑いかけると、彼女はしおらく応えた。

 振り返って見た乏しい光に照らされた夜の校庭は、狭く感じられた。小学生の頃は無限に広がって、何でもできる遊び場だったのに。

 地面から半分出たタイヤの遊具、雲梯や鉄棒、平均台の上を登ったり、ぶら下がったりしながら歩く。

 脚がつかないよう膝を曲げざるを得ない低すぎる雲梯は、なかなかに大変だった。千結は地上を並んで歩き、小さな遊具を次々に渡り歩く梨生を楽しげに眺めるばかりだ。

 さっきまでパンパンに膨れていたはずのお腹は、そら恐ろしいことにもう落ち着いていた。夜中にはふたたび空腹すら感じるに違いない。


 タイヤの遊具に腰掛けた二人は、平らな校庭と、真っ暗な窓ガラスが並ぶ校舎を眺めた。教室に入り込むのはさすがに本格的な不法侵入だから、千結がそれを言い出さないか一抹の不安を覚えていたものの、どうやら彼女は満足したらしい。校庭の周りの木々や草むらから、虫たちの声だけが届く。

 夜の小学校は見慣れなくてよそよそしいが、たとえ昼間に来たとて、あの頃ほど馴染み深いものにはもう感じられないだろう。


「早いもんだね。小学生だったのなんて、ついこないだみたいなのに」

「……そうかな。私は、早く大人になりたかった」


 ひとつ隣のタイヤに座る千結の横顔をちらりと見て、梨生はくすりとした。


「ちーちゃんは昔から大人びてたから、周りが子どもに見えて仕方なかっただろうね」

「そんなんじゃ、ないけど」


 ぽつりとこぼした千結になんとなく言葉を返し損ねて、つかの間沈黙が降りた。すると、静かな、けれどはっきりとした声で千結が言う。


「梨生、走ってみて、全力で」

「――え?」

「見たい、梨生が走ってるとこ」


 瞳を煌めかせて、千結は力強く言った。


「……」


 もう長い間まともに走っていないから、それほど速く走れないかもしれない。彼女の期待に、応えられないかもしれない。

 ――『ちから一杯走ってよ。かっこいいとこ見せてよ』という声が、金属の残響音と共に梨生の脳裏へ響く。恐怖とも悲しみともつかない感情が全身を覆って、体が凍りつきそうになる。

 しかし、梨生が風を切って走ることを信じて疑わないそのまなざしを見返していると、体の強張りは自然と消えていった。


「――うん。じゃあ、走ろうかな」


 頼りなく小さく笑って答えた梨生に、千結は莞爾と微笑み返した。



 手足をぶらぶらさせ、軽く跳ねながら歩き出す。

 当然ここにはスターティングブロックはない。足元はスパイクシューズでもない、街歩き用のスニーカー。

 狭い校庭を縁取るコースの白線なんて消えかかっている。一周はせいぜい200メートルくらいで、直線で100メートルを走ることもままならない。


 ――けれど、観客がいる。たった一人の観客が。梨生の速さを信じ、憧れて、星空を映したような目を向ける観客が。


 服の上からそっと二の腕へ触れる。

 そして両手を砂の地面へつき、本気で一本一本のレースにかけていたあの頃と同じように、完璧なクラウチングスタートの姿勢をとる。

 腕の古傷が、じりじりと灼きついて感じられた。

 虫のさざめきも遠のいて、水を打ったような静けさが身体中に充ちる。


「――ッ」


 幻聴のピストルが空気を切り裂くのに合わせて、スタートを切る。久々なのに、まるでバネが一気に爆ぜたかのごとく、とてもいいスタートだった。

 豪然と腕を振り、地面を蹴って脚を回していると、全身がよろこんだ。愉しい。――そうだ、風になることはずっと楽しかった。

 すぐにコーナーへさしかかる。外に放り出されるような力にすら恍惚感を覚える。吹き飛ばされそうな力を制御して、リラックスさせた体を内側へ傾ける。速さと遠心力がぴたりと完全なバランスで融け合い、何かに導かれるみたいにぐうっとコーナーを走り抜ける。

 直線のコースへ戻るに従い、体を垂直へ起こす。不思議と疲れは感じなかった。夢中で駆けた。走るごとにどんどん力が湧いた。自分が二足歩行をする人間であることすら忘れ、獣に還るような感覚まであった。獲物を狩る一瞬に全てのスピードを賭ける肉食動物か、広い草原を軽やかに跳ねる草食動物か、はたまた水中を上下左右思いのままに泳ぐペンギンか。己が何であるか、何のために駆けているのかも忘却して、本能のままもう一度コーナーを曲がった。

 ゴールと決めていたスタート地点へもうすぐ戻ってしまう。こちらを見ている千結の立つ姿が視界に入って、梨生は梨生に戻る。千結はきっと心の底から自分を応援してくれているに違いなく、それが嬉しくて、力がみなぎった。最後の直線はもう一段階加速して、彼女の横を風になって過ぎ去った。


 トップスピードを保ったまま校庭の一周を走りきり、脚が動くのに任せてしばらく前進した。それから自分が体全体で激しく呼吸を行なっているのに気付き、どっと疲労を自覚して地面へ仰向けに寝転んだ。二の腕の熱さなんてわからないぐらいに全身が燃え盛っていた。汗が噴き出して、それを春宵しゅんしょうの風が柔らかく撫でていく。

 こんなに疲れてもう一歩も動けないほどなのに、信じられないほど清々しく、気持ちがよくて、梨生は地面に横たわったまま、乱れた呼吸の隙間で「わはは」と笑った。

 視界には空が広がって、星がまたたいていた。

 春の星空は、きらきらと眩しいわけではない。でも星は、確かにずっと頭上にあった。見えないあいだも。穏やかに、見守るみたいに。


 そこへ、千結の顔が勢いよく差し込まれた。寝転ぶ梨生へ覆いかぶさるように手をついた彼女が、興奮した声と顔つきで言い放つ。


「ねえ、かっこよかったよ!」


 別の銀河がまっすぐにこちらを見つめている。


「夢中で体動かしてる梨生は、本当にかっこいいんだよ!」


 いつになく昂ぶったその様子に、梨生は呆気にとられて訊き返す。


「かっこ――よかった? ……ほんとに?」

「うん、かっこよかった!」

「……」


 ――なんだ、こんなこと。こんなことで、いいんだ。


 梨生を長いあいだ縛っていた何かがほどけた。

 身体の芯が、やっと人心地つけるとばかり、安堵と解放に緩む。

 鼻がつんとして、涙が出そうで、梨生は目元を腕で覆った。


 ――誰より速く走る必要なんてなかったんだ。ただ、わたしのままで、彼女は認めてくれる。


 その状態では泣いてしまいそうだったから、梨生はばっと上半身を起こし、


「ねえちーちゃん、教頭の顔真似して」

「え? もうどんな顔だったか忘れた」

「え〜」


 残念極まりない梨生の声を聞き、千結は自身の頬へ触れてつぶやく。


「待って……顔の筋肉が……覚えてる気がする……」

「お、お?」


 すると、千結の顔面がカッと歪み、開かれ、吊り上がった。そこには、見事な教頭先生が降臨していた。


「あはははは」


 腹を抱えて梨生が笑いを弾けさせた数秒後、校舎のほうから白い線状の光が二人へ向けられた。続いて、「こら、何しとる!」という声。警備員か何かだろう。


「やばっ、行こちーちゃん」


 慌てて梨生は立ち上がり、千結の手を取って駆け出した。無我夢中で校庭を横切り、校門を乗り越えてからもしばらく走った。

 ある程度学校から離れたとき、膝に手をついて立ち止まった。二人分の荒い呼吸がやがて、笑い声へと変わっていく。千結が笑い混じりに言う。


「私の夢、ひとつ叶った」

「なに、夜の学校に忍び込んで怒られるのが夢?」


 目尻の涙を拭いつつ梨生は訊いたが、


「んーん、梨生には教えない」


千結は微笑んで首を振る。


「なんだよ〜」

「あーあ。教頭のモノマネ筋、久々に使ったら疲れた」

「用途限られてる筋肉だなあ」

「梨生の顔にもちゃんと備わってるはずだよ。筋トレ、付き合ってあげようか?」

「やだやだ、いらない」


 

 ――くだらないことで彼女と笑えているのが何よりも幸せだった。

 大人は、「大人になると時間がなくなるよ」と言う。それならせめて、ちーちゃんが社会人になってしまうまでの間は、こうしてくだらないことで一緒に笑って過ごそう、と梨生は思うのだった。

 汗に濡れた首筋を、涼やかな風がすっと撫でていく。

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