第15節 -心の在処-

 午前7時。フロリアンは目を覚ました。外は徐々に明るさを増しているが太陽はまだ東の空に隠れたままだ。

 マリアにメッセージを送った後、早めに眠りについたはずだが、結局随分と長く寝ていたものだと思った。全くそういう意識は無かったが疲れていたのだろうか。

 スマートデバイスを見てみるとマリアからメッセージの返信が来ていた。


“ありがとう”


 ただ一言短く書かれているだけかと思ったが、どうやら下に続きがあるようだ。長い空白を下にスクロールしていくともう一つメッセージがあった。


“声を聞かせてほしかったけれど。”


 それを見た瞬間に朝の眠気が吹き飛んだ。彼女の言葉は冗談なのか本気なのか分からない事がある。

 これはおそらく冗談の類であろうが、普段からこうした異性とのやり取りには慣れていない為反応に困ってしまう。

 ベッドから起き上がるとまずシャワーを浴びて身支度を整えた。

 約束の時間まではまだかなりある。特にする事も無かったのでネットテレビを見てみる事にした。

 昨日と同じ朝のニュースが流れる。

『次のニュースです。昨夜、アシュトホロム村近郊で自動車の盗難被害がありました。被害に遭ったのは付近で農業を営む男性で、農作業用に使用していた小型トラックが盗まれたとの事です。数日前に起きた難民狩り事件と関連する疑いがあるとみて、現在警察が捜査を行っています。付近の幹線道路の監視カメラに映像が残っていない事からそう遠くへは行っていないものとみられており…』


 アシュトホロム。昨日三人で訪れた地である。滞在時間は長くなかったが、色々と考えさせられる場所となった。

 マリアは今日、別の場所に行くと言っていた。彼女はそこで何を見るのだろうか。自分なりに思考してみるがうまく考えとしてまとまらなかった。

 時刻は午前8時に近付いてきている。早いところでは付近の飲食店が開店している頃合いだ。

 二人との待ち合わせ前に軽く朝食を済ませる為、テレビの電源を切り出掛ける事にした。


                 * * *


 午前7時半。朝日が昇り街が一層明るく照らし出される。室内に差し込む光でマリアは目を開いた。

 ベッドの傍にはアザミが座って佇んでいる。自身の右手を優しく握ってくれている。あの後も一晩中手を握ってくれていたようだ。

「おはようございます。マリー。」

「おはよう。ずっと手を握っていてくれたんだね。ありがとう。」

 アザミの挨拶に返事をするとマリアはすぐに起き上がった。

「加減は大丈夫ですか?」

「平気だよ。私の体は君と同じく特別だからね。」

「そうですか。しかしあまり無理はしないでください。」

 マリアには分かっていた。アザミは体の心配ではなく精神面での心配をしてくれている。そもそも、不老不死の肉体を手にした時点で自身の体に不調が出る事など有り得ない。

 自身がわざと論点のずれた返事をした事を承知で、アザミも敢えて問い直す事はしなかったようだ。

「シャワーを浴びてくるよ。」そう言うとマリアはシャワールームへと向かった。


 シャワールームへと向かうマリアの後ろ姿を眺めながらアザミは考え事をしていた。彼女の少し強がりなところは昔から変わらない。

 過去の経験が本音を出すことへの不安になっているのだろうか。自分にどんな本音を漏らしたところで、拒絶する事などないというのに。

 彼女の強がりは自分を心配をさせないようにという彼女なりの気遣いであることは承知している。だが、それが余計にアザミを不安にさせる事もあった。人の身で背負い込みすぎるのは良くない。

 そしてふと昨日出会ったあの青年の事が頭をよぎる。彼に対してマリアは何の躊躇いもなく本音で会話をしていたように感じられた。

 千年にも渡る長い時の中でそれは初めての事だった。だからこそ、彼女が何の警戒も無く自然と心を開いたあの青年に対して自分も “可能性” というものを感じているのかもしれない。

 彼なら或いは…或いは彼女の心に巣食う、暗くて悲しい夢を終わらせる事が出来るのではないか。そう期待してしまっているのだろうか。それも今日一緒に過ごせば何か分かるかもしれない。

 人が知覚できる時間の概念を悠に超えて彼女の隣に寄り添う自分にすら不可能だったそれを、出会って一日も経過していない彼が成し遂げる可能性を示している。

「少しだけ、妬いてしまいますね。」

 思わず口から他愛もない不満がこぼれる。かつて神と呼ばれ、いつしか悪魔となった自身が一人の人間に嫉妬をする日が訪れようなどと。

 これも因果というものだろう。人の悪意を持って存在を確立する自身には、他者の心に巣食う闇を取り払う事は出来ないに違いない。なぜなら、本来そういったものは自分が愛すべき事象に他ならないのだから。

 アザミはそんな事を考えながら、シャワーから戻ったマリアが気に入りそうなふわふわのバスタオルを持って待つことにした。


                 * * *


 太陽が東の空に顔を覗かせた頃、レオナルドとフランクリンはホテルで朝食をとっている最中だった。

 今日は午後1時より特別総会の各国代表による演説の続きが再開される。

 その為、午前中は昨日の各国の演説と、機構の演説に対する各国の反応を元に指摘されるであろう内容をまとめた要点の確認を行う予定にしている。

 レオナルドは濃いめに淹れてもらったコーヒーを飲み眠気を覚ます。その様子を見たフランクリンがレオナルドの体調を気遣う。

「昨夜はゆっくりとお休みになれましたか?」

「あぁ、おかげでゆっくり眠る事が出来たよ。体調も良い。」

「それは何よりです。資料の作成も無事終わっています。」

「ありがとう。何から何まですまないな。」

「これが私の為すべき事ですから。資料は後程部屋にお持ちします。」

「頼む。会議に出発するまでに要点を押さえておこう。」

 体調は良いが疲れが無いと言えば嘘になる。それも肉体的な疲れではなく精神面の疲れだ。

 思い返してみれば、この総会に参加する事が決まってからというもの心が休まる事は無かった。

 今日の各国の演説が終了した後に行われる質疑応答、つまり討論が正念場だ。その場において各国からの指摘や協議が行われるが、機構を指して行われる質疑において対応を誤るわけにはいかない。

 この質疑応答が終わった後に決議案がまとめられ、その案に対する投票が実施される。その上で賛成多数の得票を得る事が出来れば決議採択だ。

 ここまで来て初めて自らに課せられた仕事は束の間の落ち着きを迎える事となる。


 レオナルドは窓の外を眺める。この季節には珍しく二日続けての快晴だ。

 自らの心がこの天気のように晴れやかになるのはまだ少し先の話になるだろう。前に進まなければならない。その重圧が心にのしかかる。

 一度深呼吸をしてから視線をテーブルへと戻す。テーブルの上には温かい料理が並んでいる。

 気持ちを張り詰めたままでもいけない。良い仕事は良い休息と共にあるものだ。今はこのゆったりとした朝食のひと時を楽しむことにしよう。

 そう気持ちを切り替え、目の前にある焼き立てのパンへと手を伸ばした。


                 * * *


 フロリアンはカフェテラスでパンとコーヒーの朝食をとっていた。

 宿泊しているホテルからほど近いパン屋で購入したポガーチャと呼ばれるハンガリー名物のパンと、付近のコーヒーショップで購入した淹れたてのコーヒーだ。

 ポガーチャはスコーンを少し小さくしたようなもちもちとした触感が特徴のパンだ。ポピュラーな塩味やサワークリーム、チーズやベーコントッピングなど様々な味が楽しめる。

 今日もブダペストの街並みは穏やかだ。曇りが多いこの季節に二日続けて快晴というのも珍しい。

 冬の寒さの中で注がれる太陽の日差しはとても柔らかく暖かで心地よい。

 空を眺めながら物思いに耽っていると昨日の事が脳裏に蘇った。

【分からないものとしてただ傍観するだけなのか。】マリアの言葉を思い出す。

 フロリアンは手に持ったコーヒーを飲み干し、カフェテラスの椅子から腰を上げる。

 少し早いが、そろそろ待ち合わせ場所に向かおう。そう考え約束のセーチェーニ鎖橋まで歩き始めた。


                 * * *


 シャワールームからマリアが出るとアザミは用意していたふわふわのバスタオルで彼女をくるむ。

 過保護にされる事に不満そうではあるが、タオルの心地よさに包まれてすぐに笑顔になる。

 そのままドレッサーへと向かい、アザミはマリアの髪を丁寧に乾かしてから梳かした。どこに行っても欠かさない毎日の習慣だ。

 アザミが丁寧に髪を梳かす穏やかな時間が過ぎる中、ふとマリアが昨日の話を持ち出す。

「これは確認になるけど、昨日の公園で撮影した写真に写っていたもの。“あれ” が犯人で間違いなさそうかい?」

「間違いないかと。」

「結構だ。なるほど、あの様子では新型のAI監視カメラや警備ドローンが反応しない事についても頷ける。動かない以上は人の目で認識する事すら出来ないだろうね。」そう言うとマリアは大きく溜め息をついた。

 旧式のデジタルカメラで撮影した写真に写っていたのは、人のような形をした非常にぼやけたものだった。

 特殊な素材を使用した布のようなものに、人が身を包んでいると推測される。

 周囲の景色にほぼ完全に同化するように写り込んでおり、それが最初から景色ではない別の何かだと思って見なければ見つける事は容易では無いだろう。

 撮影する際の解像度が高くなればなるほど周囲との一体化が進む為、色調の変化を無段階で認識する人間の目や、限りなくそれに近い表現が可能な最新のデジタル機材で捉える事は至難の業と言える。

 マリアが話を続ける。

「しかし、ただの一般人があんなものを自ら作り出せるとも到底思えない。フランクへの連絡はもうしたのかい?」

「それとなく送信しておきました。」

「ありがとう。フランクから相談を受けたレオが返事をしてくるのは今日の丁度お昼頃だね。送られたデータは間違いなく一度セントラルで解析される。そして解析された結果が例の電子メールの内容に準拠した内容のものであればレオは電話で私にこう言うはずだ。【君達が想像するもので間違いない】と。」

 未来視。予言。起こした行動に対する結果の有り方を既に把握している。

「だが、まだはっきりした結論までは視えていない。実際の彼らの返答を待たなければ。」

 マリアは今回の事件に機構が絡んでいるとは最初から思っていない。だが、自分達が知らない他の情報を知っているかどうかについては確認すべきではある。

「わたくしたちの元に届いた情報の内容は真実なのでしょうか。」

「公園での写真を見て判断する限り真実だろうね。どこの誰の仕業かわからないけれど、やはり特別進んだ科学技術を容易に持ち出すことが出来る立場にいる何者かが手引きした可能性を疑うべきだろう。」

 そもそも二人がこの地を直接訪れる事になったきっかけは、二人の元に送られてきた電子メールによる情報に起因する。その情報とは次のようなものだった。


                 = = =


送信者:不明(解析特定不可)

宛先:国際連盟 機密保安局 局長 マリア・オルティス・クリスティー


件名:難民狩りについて


 現在、世間を騒がしている難民狩りの犯人は数年前に難民収容施設から逃亡した者である。

 その地に辿り着くまでに数々の犯罪を重ねてきており、施設内でも看守に対して度重なる嘘を吐く事により脱走を企てた経歴などから、ライアー(嘘吐き)という蔑称で呼ばれていた男だ。

 この者は逃亡中、何者かによって最新の軍事研究によって開発された特殊素材を応用して作られた特殊スーツ、或いはそれに類似する何らかの道具を与えられたと推測されている。

 その道具を使用する事で得られる効果によって厳しい監視の目を逃れて事件を起こす事に成功している。

 道具による効果とは新型のAI監視カメラや赤外線センサー及びカメラ、警備ドローンの監視網を完全に無効化する一種のステルス技術による隠密効果である。

 検証した結果、何者かが最重要軍事機密の産物である技術サンプル品を無断で持ち出し、その者に与えた可能性が高い事が判明。

 その何者かとは国家の重要機密を取り扱う機関そのもの、又はその情報を共有できる組織・機関に属するものであることは明白である。


                 = = =


 差出人不明のこの情報はある日唐突に送られてきた。暗に身内に犯行を手引きした者がいると告発するかのような内容だ。

 完全な隠密性を実現し得るだけの高度な軍事開発技術を持つ国家など、世界がどれほど広くとも数は限られる。その限られた国家の中において当該の機密を扱う機関そのものとなると対象はさらに絞り込まれるだろう。

 その機関とは具体的には軍事開発を行う当事国に存在するものを指すが、情報を共有する組織・機関を含めるとなれば、その中には当然の事ながら国際連盟も含まれる。


 尚、進んだ科学技術の粋を持つ機関と言えば、レオナルド達の世界特殊事象研究機構も挙げられる。

 しかし、彼らは軍事行動の為ではなく災害対策が活動理念である為、隠密行動に関する技術を自ら率先して研究開発しているとはどうにも考えにくい。姿を隠す道具自体、必要がないからだ。

 よって、機構は優れた科学技術開発が出来る国際機関であることは間違いないものの、今回の事件に関しては直接的な関りは皆無であると判断した。


 つまり、情報の送り主は国際連盟に存在しないと言われる部門がある事を知る人物で、尚且つ内部情報にもある程度詳しい人物である事が窺える。

 このメールが暗に示している通り、突き詰めて考えると身内による裏切りの線が非常に濃厚という結論に達した。

 秘匿された軍事機密という情報の特性上、これらの情報を安易に他国やその現場に伝えるわけにもいかない。

 さらに本当に身内による不始末ということであればその諸悪の根源は暴く必要がある。

 故に今回の件においては他の誰でも無い二人が直接出向いた上で事の対処にあたっているというわけだ。

 一見するとメールに記載された内容は協力的なものに見えるが、直接セクション6に情報を送り付けてくる時点である種の脅迫ともいえるだろう。

 国連の中に事件を手引きした者がいるという事が事実であれば、これ以上ないスキャンダルとなる。

 難民問題の解決に向けて世界が協調を進める中、難民を殺害する目的で行動を起こした者が内部にいるとすれば言語道断だ。


 憂鬱な表情を浮かべ、マリアが呟いた。

「正直、頭の痛い問題だ。犯人はもとより、機密を漏洩させた者が内部にいたとすれば当然許すわけにはいかない。」

「はい。今日で終わりにしましょう。」

「もちろんだとも。既に犯人に対する結末は “視えている” のだから。」

 マリアの未来視では情報の送り主に関わる事は何も視えていない。しかし、自分達の行動によってこの犯人が迎える末路がどうなるかについては既に分かっている。

 その結末に至るまでに必要な “過程” も既に達成している。あとは今日の午後からリュスケの地に向かい、とある場所を訪れるだけで犯人との邂逅が果たされる。


 少しの間を置いてアザミがマリアに確認の意味を込めてある質問をした。

「マリー。もう一度だけ聞きますが、本当に今日彼を一緒に連れて行って良いのですか?」

 既に何度も聞いたことだ。しかし、アザミは念を押して確認する。

「彼に危害が及ぶという未来は視えていない。そして彼を同行させる事を決定した今も犯人が迎えるべき結末に変化はない。案ずることは無いだろう。私達の情報が事前に犯人に伝わっている可能性を危惧する事も忘れてはいけない。」

「その通りですが…」

「君も彼を連れて行くという事自体に反対しているわけではないのだろう?アザミ、君が心配しているのは私の事だね?」

「はい。」

 アザミが本当に確認したい事は彼の身に及ぶ危険性や軍事機密を指しての事では無い。それをマリアは見抜いている。

「昨晩も言ったけれど、彼は今回の私達の行動における不確定要素だ。私と彼が遭遇した事に何らかの意味があるとするなら、野放しにしておくより共にいた方が良いと考えている。」

「それは貴女の立場からくる考えでしょうか。それとも貴女個人の意思でしょうか。」

「あはは、君にしては珍しく厳しい質問だね。」マリアは笑いながら返事をした。そのまま返事を続けた。

「でも、その厳しさも私を慮ってくれての事だね。君が本当に聞きたい事はよく分かっている。彼を目的達成の為のただの駒、道具として扱う事に抵抗が無いのかという事だろう?」


 行動に対するイレギュラー。マリアが干渉できない存在。

 不確定要素である彼の存在は事前に予期されていなかった不安要素とも言い換えられる。


 彼の存在がマリアとアザミにとって都合が良いのは、今回の事件における自分達の行動が予め犯人に対して知らされていた場合の保険になるという事だ。

 自分達を知る身内の裏切りであれば、当然『二人組の女に注意しろ』などといった情報が与えられている可能性もある。

 通用するかどうかはさておき、そこにもう一人ほど突発的に別の存在が加わる事で事前情報との相違を引き起こす事が出来る。

 さらに、突発的に加わったもう一人の存在の情報まで犯人が認知する事があれば、情報漏洩の犯人が誰であるかを突き止めること自体がさらに容易くなるという算段だ。


 反対に、二人にとって懸念となるのは彼を連れている事で起きる予想外の事態だ。

 彼に関する未来を視通す事が出来ない以上、彼が同行する事で未来にどのような変化が加わる事になるのかは分からない。それが悪い方向へ影響を与えるのか、良い方向へ影響を与えるのかすら現状では判断する事は出来ない。

 しかし、だからと言ってそういった存在があると分かった上で野放しにしておく事も少なからぬ危険性を生む事になる。


 それらを総合的に考えた上で、マリアが自身の立場上において下した決断というものが手元に置いて利用するというものだった。

 見えない所に不安要素があるより、見えるところに置いて利用する方が何が起きても対処しやすいという理由での判断であった。


「先の質問に答えよう。私の決断は、私達の目的達成の為に必要なものだ。私個人の私情では無く、為すべき事を成す為に、国際連盟の一部門を統括する長として下さなければならない決断だ。」

「承知致しました。」

 マリアの返答を聞いたアザミは納得するしかなかった。ただ、本当のところはどうだろうか。

 目的の為に必要であるなら利用するだけの事。それが一個人であっても、組織であっても変わらない。それが自分達という存在だ。

 しかし今の彼女は彼を、本当にただ自分達の目的達成の為に必要な駒だと割り切って考える事が出来るのだろうか。

 僅か一日に満たない時間を共に過ごしただけとはいえ、自身の父親の面影を感じさせるような男性を相手にそこまで器用な立ち回りを最後まで続けられるのだろうか。

 アザミが頭の中で自問しているとふいにマリアが小声で呟いた。

「…でも、私は最低の人間かもしれないね。」

 彼女の言葉に沈黙が訪れる。マリアの表情には先ほどまでの穏やかさはない。考え込むように俯いている。

 アザミは先程自らがした質問というものが愚問であると分かっていた。

 彼女の決断を問いただすという事は、彼女が既に心に決めた事の是非を改めて根底から揺さぶる行為にも等しい。

 だが、今回ばかりは強がりではない覚悟を持ってもらわなくてはならない。万が一の事態が起きた時に後悔するような選択は避けなくてはならない。


 マリアが小声で呟いた事に対して、アザミは諭すように答えた。

「いいえ、貴女は自身が下すべき正しい判断をしています。求める理想の為に必要悪を事もなく為し、それを善とする。貴女の下した決断にわたくしは従い、貴女の背負うものを共に背負いましょう。貴女が今その胸に抱いているような思いやりや優しさというものは、本来わたくしたちの理想の為には必要無いものなのでしょう。ですが、貴女はそれで良いのです。貴女はわたくしと違う、人間なのですから。千年前のあの日、わたくしは貴女と契約を交わした時に誓いました。その怒り、憎しみ、苦しみ、嘆き、悲しみなどは全てわたくしが引き受けると。下した決断の事で気に病むことはありません。貴女は自身の目指す幸福だけを考えていてください。」そこで一度言葉を区切る。そしてアザミは話を続けた。

「貴女の痛みはわたくしの痛みでもあります。貴女が何者かから痛みを与えられることがあればわたくしが返しましょう。貴女から大切なものを奪おうとする者はわたくしがその生を奪いましょう。貴女と貴女の大切なものはわたくしが守ります。わたくしの名前の意味は、この名を与えてくれた貴女が一番良く知っているはずです。」


 アザミ。多くの花とは違い舌状の花びらを持たず筒状の花弁のみで美しい形を作り、葉や総苞には無数の棘を持つキク科に属する花の名前だ。

 彼女の名は千年前にマリアが贈ったものである。独立や厳格、人間嫌いといった花言葉があるが、その名が示す理は【報復】【守護】。

 マリアの傍に立ち、その痛みを返すもの。彼女を支え、その身を守護する者である。


「何があっても大丈夫です。気に病まずに、貴女はその優しさをどうか忘れないでいてください。」

 アザミは話の最後にそう付け加えるとマリアの髪を触る手を止めた。

「さぁ、出来ましたよ。」

 俯いていたマリアは視線を上げ鏡を見つめる。そこにはいつもと違う髪型の自分が映し出されていた。

 下ろした髪の片側の表面を三つ編みにして、昨日とはまた少し違った色合いのオレンジ色のリボンで可愛らしく結んである。

「貴女の健やかなる日常を願って。それと、せっかく彼に会うのです。少しお洒落をしませんと。人間とはそういうものでしょう?」

 マリアは、中世以降の欧州では三つ編みに健康祈念の願いを込めていたことを思い出す。当時、髪を長くしていた頃はよくアザミに結ってもらっていた事も。

 元々は神の身でありながら、千年の間にすっかり俗世に染まった彼女を微笑ましく思った。そして今出来る限りの笑顔でただ一言だけ礼を言う。

「ありがとう。」

 すると続けてアザミがおもむろに今日のドレスを取り出した。

「今日はこちらのドレスを用意してみました。とても似合うと思うのですが。」

 アザミが手に持つドレスは上品さと可愛らしさが感じられる黒基調のゴシックドレスだが、リボンやフリルが昨日に比べて一段と気合が入っているように見える。

「アザミ?私好みのとても可愛いドレスだけど、ひとつ良いかい?」

「何でしょう?」

「これは、昨日以上に目立たないかな?」

 その質問にアザミはただ黙って微笑みを返すだけだった。


 次の瞬間、マリアのスマートデバイスがメッセージの着信を知らせる。マリアはすぐにデバイスを手に取って内容を確認した。相手はフロリアンだ。

 そしてメッセージを読み終えるとぱたぱたと小走りで窓辺へと向かう。

 マリアはセーチェーニ鎖橋の入り口、ライオンの石像付近に目を凝らす。そこに彼の姿を見つけた。待ち合わせ時間より早い到着だ。

 アザミはその様子を傍で眺める。おそらく本人は気付いていないと思うが、この時マリアは今日起きてから一番眩しい笑顔をしていた。


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