第14節 -マリアの夢-

 12月25日 午前2時。

 アシュトホロム村から一台の農作業用トラックを盗んだ男は荷物を乗せてリュスケに向かっていた。


 夕方に見たあの三人組は明日現地に訪れるだろうか。出会う事が出来れば重畳。

 仮に出会う事が出来なくても、どのみち警備体制が格段に強化され、獲物共の警戒心が上昇していたあの場に留まる事は得策ではなかったので移動自体はやむを得ない事だ。

 奴らの来訪は次の目的地を決める為の良いきっかけになった。

 公園でのあの男女の話の内容は思い返しても偽善者が上から目線で話しているだけのくだらない内容だと思う。本来であればその手の輩に関わり合うなどもってのほかである。

 しかし、会話をしていた女ともう一人の女、あの場にいた二人の女は良い女だった。

 邪魔な男を始末した上で奴らが乗っていた車と共に売り捌けば良い実入りになる事だろう。それこそ、当分の間生きる為に苦労しないだけの資金調達が出来るはずだ。

 男は狙った獲物に与えられるであろう価値を値踏みして舌なめずりをした。


 車での移動を開始してからおよそ二十分。目的地のリュスケへと到達した。

 車は国境付近からは少し離れた位置に停車させる。AI監視カメラと警備ドローンを避ける為だ。

 カメラが設置されていない場所や警備が手薄になっている場所は把握している。

 ここなら見つかる事はないだろう。男はそう思いながら車から荷物を下ろすと暗闇の中へと消えていった。


 それから少し時間が経った頃、車の荷台から一匹の子犬が顔を出す。首にオレンジ色の首輪が嵌められたその子犬は荷台から飛び降りると、男とは別の方向に向かって歩き出し闇夜へと消えていった。


                 * * *


 同午前2時頃。ホテルの一室で眠りに就く少女をアザミが見守る。

 それはいつもと変わらない光景だ。ずっと昔からこうしてきた。彼女と出会ってからずっと。少女が眠るときは片時も傍を離れない。

 アザミは目の前でうなされる少女に手を伸ばし掛けて止める。

 彼女はきっとまた “あの夢” を見ているのだろう。彼女自身にはどうする事も出来なかった過去の人生、過去の歴史。今を生きる彼女が抱えたままの心の闇。

 何か不安事がある時に彼女はその夢をよく見るという。そして今もきっと。

 そういう時に自分に出来る事はただこうして傍で見守る事のみである。


 ふと窓の外に視線を向ける。穏やかな星空がそこには広がる。

 彼女が生まれた場所というのは星が美しく輝く場所だったと聞く。その地にもこのような星空が広がっていたのだろうか。

 そういえば、自分達が乗る車のスターライトに関して、彼女は自身の生まれ故郷から見た星空を再現したいと言い出し、結果その通りになっている。きっと彼女は、それほどまでに故郷の星々の輝きを愛しているに違いない。

 しかし、その地が最終的に彼女に与えた運命の冷酷さを思うと複雑な気持ちになる。

 アザミはしばらく夜空に輝く星を眺めながら遠い昔に初めて彼女と出会った時の事を思い出していた。


                  *


 夢。それは記憶が作り出す世界。人の深層意識の具現。

 その世界に光を見るもの。その世界に闇が満たされるもの。

 幸福を感じる者、苦痛を感じるもの。温かさを感じるもの、冷たさを感じるもの。

 それは個人の経験や記憶や感情によって様々であり、日々移り変わってゆくものだろう。

 だが少女の見るそれは違う。長い年月を経ても決して変わる事は無い。現実における記憶の追体験。時間の経過では到底癒される事のない心の傷跡。

 今も心に巣食い消え去る事の無い怒りと苦痛と悲しみに満ちた景色。

 少女はその夢を見る度に心に刻む。世界というのは、こんなにも醜いものだったと。


                 = = =


 視界が真っ赤に燃え上がる。自らが生まれた国が炎に包まれる。

 戦争。領土を拡大する為に行われた醜い争い。島国であった祖国もその戦火についに巻き込まれ、今目の前でその命運は尽きようとしていた。

 王家の人間や、王家に仕えた者だけをその地に残し、私達は海を渡りその島から逃げ出した。王家の中には私の親友である少女がいた。

 逃げる為に乗り込んだ船上。隣では間もなく国を継ぐとされた少年が泣きながら叫んでいる。

 その少年が愛し、共に未来を築いていくとされた少女は今あの地の炎の中で焼かれているだろう。

 投石機から放たれた巨石が星の城と呼ばれた建物を圧し潰す光景が見える。自分に出来る事は何も無い。目の前で起きる現実に狼狽え、震えながら泣く事しか出来なかった。


 少年と親友、そして私の三人は仲良しであった。どこに行くときも、どこで遊ぶときも一緒だった。

 ある日、親友が私の目を見て、この赤い目が綺麗だと言ってくれた時は嬉しかった。宝石のようだと言ってくれた。その隣にいた少年も同じように褒めてくれた。

 広い草原を走ったり、海を眺めて潮風にあたったり、空を眺めたりする。

 ありきたりで平和な日常。かけがえのない時間。その全てが愛おしかった。


 私は親友と少年が恋仲であることを知っていた。自身も少年に恋をしていたが、二人の仲睦まじい様子を見てそれは叶わない想いであると悟っていた。

 何より、国の取り決めによる実際の二人の婚姻の時が近付いていた事も知っていた。叶う事が無いのは道理だ。そういった事情から自分の気持ちを表に出したことはただの一度も無い。

 二人は自身にとっては何物にも代えがたい大切な親友である。故に二人の幸せというものは私にとっても喜ばしいものである事に疑いの余地など無かった。

 正式に二人の婚約が決まったパーティの場に私も参加していたが、その時も心からの祝福をしたものだ。

 あの時の二人の幸福そうな表情は今でも脳裏に焼き付いている。


 唯一、彼に対する私の気持ちに気付いていたのは私の両親だけであろう。

 あれは二人の婚約と、それを祝うパーティーが催される日取りが決まった際に、お父様からその話を初めて聞かされた時の事だ。

 私自身は二人が昔から恋仲である事を知っていたのと、そういった話を国が進めているというのを事前に知っていた為に、正式に二人の婚約が取り決められた事に対して特に驚きはしなかった。

 しかし、その報告を私にするお父様の表情はとても悲しそうなものだった事を今でも覚えている。

 不思議に思った私はお父様に尋ねた。『どうしてそのように悲しいお顔をされるのですか?』と。お父様は何も答えず、その隣でお母様も同じような表情をされていた。

 もしかすると、両親は私の気持ちに気付いていたのではないか。その考えに思い至った私は続けてこう話した。

『二人は私の親友です。二人が共に幸福の道を歩むというのなら、私はその事を心から祝福します。それは私にとっての喜びでもあるのですから。』

 そう話すと、お父様とお母様は何も言わずに私の事を抱き締めてくださった。


 昔から漠然と思っていた。きっと私はどこか別の国の見知らぬ誰かと生涯を共にすることになるのだろう。

 何も変わらない日々。ありきたりな日常。誰かの都合によって決められた通りに生きて、望まれるように振舞い、いつか時が来てこの生涯を閉じるに違いない。

 そういった役割を演じる事があの頃の世界では求められた。だが、そういった世界の事情を両親は快く思っていなかった節がある。

 私に対しても自由に生きて欲しいと願っていたようで、その思いが私の名前に込められていると教えてもらった事もあった。

 しかし、世界という大きな枠組みの中で生かされている個人が、その流れに逆らう事など出来はしない。

 世界という濁流に飲み込まれるように、私達の祖国は戦火の犠牲となる運命を辿る。

 遠い国々が戦争をしているとは聞いていたが、あの頃は自分達には関係の無い事だと思っていた。

 しかし、あの日から全てが変わった。変わってしまった。


 国を滅ぼした戦火から逃れ、他国へ逃げた者達を待っていたのは厳しい現実であった。

 よそ者に対する偏見や差別は酷く、耐え切れなくなった者の中には自ら命を絶つ者もいた。

 家柄のおかげでそういった境遇から自分達は少し離れた位置で生活できたが、以前と比べるととても貧しいものだった。

 私達家族はしばらくの間、次期国王となるはずだった少年とその家族と生活を共にした。彼とは故国にいた時から仲が良かったのでお互いに気を使う事も無く、以前に比べて貧しいという事も含めて何も気にならなかった。

 しかし、周囲に見えないところで毎日少年が泣いている事を私だけは知っていた。故郷を失った悲しみ。そして何よりこの世で一番愛する人を失った悲しみが少年の心を傷付けていた。

 ある日、少年が隠れて泣いている様子を物陰から見ていた時、少年に見つかってしまったことがある。


「そこにいたのか、マリー。」

「ごめんなさい。覗き見するつもりではなかったの。でも、心配で。」

「こっちこそごめん。みっともない姿を見せてしまったね。今はみんなが苦しい時だというのに。こんなところで一人で隠れて泣いているなんて。」

「いいえ。貴方の悲しみは正しいわ。彼女の事を思って泣いているのでしょう?大事な人の為に流す涙を、誰も責めたりだなんて出来ないもの。人の悲しみを背負って受け止められる貴方は、やっぱり国王にふさわしかった。彼女もそんな貴方を愛していたのだから。」

 その時、自分の中で押さえていた何かが湧き上がってくるのを感じた。忘れていたはずの感情。叶う事など無いと思って諦めた気持ち。ただの一度も、誰に対しても吐露した事の無かった想い。

「ねぇ?でも…もし、もしも貴方が望んでくれるなら。私があの子の代わりになってあげる。これ以上、貴方に寂しい思いはさせないわ。」

 少年の気持ちを慮っていたはずが、いつの間にか抑えの効かなくなった自身の感情を表に出してしまっていた。

 耐えられなかった。抑圧された生活の中でこれ以上、自らの気持ちに “嘘” を吐き続ける事は出来なかった。しかし少年から帰ってきた言葉は残酷なものだった。

「ごめん、マリー。一人にしてくれないか。」

 振り返る事も無く、姿を見てくれる事も無く彼は返事をした。

 拒絶。返ってきたのは自分が求めていた答えとは遥かかけ離れたもの。彼に差し出した手は虚空を仰いだ。それ以上、何も話すことは無く自分はその場を立ち去った。


 その後から二人の関係はとてもぎくしゃくしたものとなった。朝の挨拶以外、必要最低限の言葉以外を交わすことも無くなった。

 お互いの事が嫌いになったわけでは決してない。しかし、近くにいるだけで妙に意識してしまい、互いに話し掛ける事すら出来なくなった。

 そんな生活が続いたある日、私と家族は今の場所から離れる事になった。ここからは遠く離れた地に向かう事になる。

 最後まで理由を聞かされることは無かったが、私に対して両親が何度も謝っていたような記憶が微かに残っている。


 そして訪れた二人で共に過ごす生活の最後の日。この日も結局、出発の最後の時まで少年と自分は言葉を交わす事は無かった。

 後悔はしなかった。想いを伝えずに後悔するよりずっと良かった。しかし、たった一言で拒絶された事が自分の心には大きな傷となった。

 いつしか、自分は親友であった少女に憎しみを抱くようになっていた。彼女はどうして最後まで彼の傍にいなかったのか。

 あの日、あの時、自ら望めば少年と共に逃げることだって出来たのに。大人たちがその道筋を残してくれていたというのに。どうして。どうして自ら彼の傍を離れてしまったのか。

 何故残るなどという選択をしたのか。私には到底理解できなかった。

 これが、ただの醜い嫉妬だと理解している。自分は生まれて初めて人を憎んだ。人を恨んだ。言われなき人を。

 しかし、そうしなければ己の心を律する事すらもはや難しくなりかけていた。


 美しかった少女の瞳はこの頃から、その中に仄暗い暗闇を宿すようになっていった。


 新しい地での生活は、以前とは比べ物にならない程悲惨だった。貧しいだけであれば耐えられる。食べるものが無ければ我慢すればいい。

 しかし、人と人との関係はそういうわけにはいかなかった。

 “難民” だという理由での差別は酷く、その出自が滅んだ国のものだという噂が広がると一層強く自分達は疎まれ、両親は周囲の大人達から根も葉もない暴言や罵声を浴びせられた。

 よそ者に対して厳しい目が向けられるのは当時の世界情勢からすれば仕方のない事だった。

 元々その地に暮らす人々の食べるものすら満足に補えない中で、他所から来た者に分け与えられるものなど当然何一つないのだから。

 その地に住む大人達の両親に対する蛮行と同じように、私も忌子のように避けられ、ある時は物を投げつけられたり、殴られたり叩かれたりもした。

 最初の内は珍しさから近付いてきた子供たちも、ある時を境にして近寄らなくなっていった。

 近寄ってきた子供に微笑みを向けたこともあったが、私に対して何かを言うとすぐに逃げ出すように遠くへ行ってしまった。話している言葉を理解する事は出来なかったが、どうやら大人達から私に会う事を咎められていたようだ。


 永遠に続く地獄のような生活に耐えられなくなったお母様はついに病で倒れ床に伏せった。そして極度の栄養不足から悪化する病の進行を止める事も出来ず、そのまま息を引き取った。

 その地では満足に弔う事も出来ず、ただ雑に掘り返した土の中に遺体を埋めて祈る事しか出来ない。それが私を産み育て、愛してくれたこの世にたった一人しかいない存在に世界というものが与えた仕打ちであり、最期であった。

 この事がどれほどの絶望を私に与えたか理解できる者があの地にいただろうか。

 間もなくお父様もお母様と同じ病に倒れ、日常生活を送る事が出来なくなった。

 残されたのは自分一人だけ。必死の介抱も虚しく、お父様は目で見て分かるほど衰弱していった。

 おそらくもう長くはもたないだろう。そんなお父様は最後の気力を振り絞って自分にこう言い残した。


「マリア。お前を幸せにしてやれなくてすまない。私はもう長くないだろう。賢いお前は気付いているね?でもマリア、お前にはまだ未来がある。ここから東の森を抜けていけばお前を助けてくれる人が待っているはずだ。私の事はもう良いから、そこへ向かいなさい。そして生きろ。何もしてやれずにお前だけを残して先立つ愚かな父を許しておくれ。お前の父でいられて、私は幸せだったよ。さぁ、早く。どうか、幸せに。」


 そう言うとお父様は静かに目を閉じた。息はまだあるが、おそらくもう半日ともたないだろう。

 その直後、自分は家を出た。正直なところ、歩く体力も残っているわけではない。それでも “生きろ” と言い残したお父様の最期の言葉に従い東の森へ向かい歩く。

 行き先に何があるのかなどわからない。それで救われるのかもわからない。もはや思考も正常に出来なくなってきている。


 どれだけ歩いたのだろうか。もやは歩いているという感覚も無くなっていた。

 前に進んでいるのかどうかも理解できない。そして気付いた時には森の中で倒れていた。

 何日も前から食べる事も水を飲む事もしていなかった。体に力が入らず、指一本動かせそうにない。

 ここまで歩き続けたはずなのに体が寒い。まだ冬には早いはずだが、凍えるようだ。

 両親から美しいと褒められた金色の髪や姿は見る影もなく乱れていた。あの地で物を投げつけられたり、殴られた場所は腫れあがったまま、顔にもその痣が残っている。

 親友たちが綺麗だと褒めてくれた赤い瞳はその輝きを失い、最後の光も今この瞬間に消え去ろうとしている。


 きっとここが私の死に場所だ。私という惨めな人生の終焉地だ。


 私にはもう何も無い。愛した故郷も、愛した両親も、愛した人も無く、想いを寄せた人からは拒絶され、大切だった親友も失った。もはや誰からも必要とされず、誰にも受け入れられることも無い。

 全てを失くした私はここで誰にも看取られる事も無く、この命が尽きるまで惨めな醜態を晒すだけとなった。

 後に残るものはきっと、どこの誰かも分からなくなった死体だけ。


 何を間違えたのだろう。何が間違っていたのだろう。それとも、この世界が間違っていたのだろうか。


 私は最後に笑った。既に指の筋肉ひとつ動かすほどの力も残ってはいなかったが、自分が迎えるこの惨めな結末を笑わずにいられるだろうか。


 優しく見守ってくれた母の眼差しが頭をよぎる。生きろと言った父の言葉が頭を駆け巡る。


 お父様、お母様。私は偉大な娘ではありませんでした。貴方達が最期に抱いた願いを叶えることもなく、私はここで…



 その時だった。どこからともなく目の前に黒い影が現れる。狼、いやもっと大きい。黒い獣のような影はその視線で私を見据えたまま唸りを上げていた。

 この世にこのような生き物が存在するのだろうか。それともこれは、死に際に見るひと時の幻なのだろうか。

 そう思っていると、大きな獣のように見えた黒く巨大な “それ” はやがて形を変え一人の女性の姿へと変わった。背の高い一人の美しい女性の姿に。

「人間。こんなところに一人で?ここがどういう場所か理解して訪れたとは到底思えませんが。まぁ良いでしょう。見た目は酷いものですが、良い色の魂を持っているようですし。その残された僅かな命、その気高き魂を頂く事にします。憐れなる少女よ、安らかにお眠りなさい。」目の前の女性はそう言った。

 そうか、彼女は私の魂を求めてやってきた死神に違いない。それが正常な思考がもたらす答えとは言い難い事は何となく理解できるが、その結末はとても良いと思った。

 どうかこの惨めな人生に意味のある終わりを。

 沈みゆく意識の中で私は笑い、そして最後に言った。


「あぁ…貴女が、私の…」


 その後の事は覚えていない。

 夢の中で目を閉じた瞬間、それまでの事が一気にフラッシュバックしていく。

 炎に焼かれた故国、想いを寄せた相手からの拒絶、その後辿り着いた村での凄惨な仕打ち。


                 = = =


 午前2時過ぎ、マリアは目を覚まして飛び起きた。かなりうなされていたようだ。酷い汗をかいている。うまく視界が定まらない。

「アザミ…アザミ…」息切れをしながら彼女の名前を呼びその手を伸ばす。

「はい。わたくしはここにおります。ずっと貴女のお傍に。マリー。またあの夢を見たのですね。」アザミは彼女の手を取り優しく語り掛ける。

 マリアは無言で頷く。その目に少し涙を湛えているようにも見えた。


 決して消える事の無い記憶。克服できない傷跡。どんな力を手に入れようと、どれだけの富を得ようと、千年に近い歳月が流れようともそれが消え去る事は無い。

「お水をどうぞ。」アザミがグラスに注いだ水を差しだす。

「すまない。」マリアは酷く喉が渇いている事を知覚した。渇いた喉にむせて咳が出る。

「酷い汗。そのままでいてください。今拭き取りますから。」

 水を飲み干した後、アザミの腕に抱かれながら汗を拭きとってもらう。

「アザミ、私は必ず目的を達成するよ。このどうしようもない世界を、私の手で変えて見せる。」

 静かに、それでいて決意に満ちた声でマリアは言った。彼女の言葉にアザミは短く一言だけ返事を返す。

「はい。」

 

 かつて、マリアが死の淵に立たされていた時にその命を救ったのはアザミであった。

 アザミの正体は人間たちが超常の現象と呼ぶもの。かつてこの世界において神と呼ばれ崇められた存在であり、人間の手によって貶められ “悪魔” と成り果てた存在。

 神でもあり、悪魔でもある彼女はこの世に人の悪意というものが存在する限りその存在が消え去る事は無い。

 食事も睡眠も必要なく、遠い過去から現代に至るまで永遠とも呼べる時間を生き続けている。

 食事をしない代わり、極稀に人間の魂食いをする事もあるが必要だから行うというわけでもない。その行為ですらただの娯楽に等しい。

 

 マリアが森で息絶えようとしていたあの時、彼女の目の前に現れたアザミは彼女の魂食いをするつもりであった。

 元々輝かしい色を持っていた彼女の魂が、人間の負の感情を受け続けた事によって悪意に染まったそれは魔の者となったアザミにとっては極上の食事と言えたからだ。

 しかし、マリアの間際の一言がその考えを改めさせた。彼女は最期の瞬間に笑いながらこう言ったのだ。


 “ 貴女が、私の救いなのですね。”


 アザミが後で聞いた話では、それを言った当の本人はまったく記憶にないという。

 全てを失った少女にとって自身が命を狩り取ろうとしたその瞬間は、惨めな人生の最期にもたらされた光に等しかったという。

 今まさに自分の魂を喰らおうとしている悪魔を目の前にして “救いが与えられる” と言い放った少女を見てアザミは考えを改めた。

 それがご馳走である事に変わりはなかったが、魂を食べる事はやめにしてマリアを治癒し介抱したのだ。

 その後、マリアとの間に “ある契約” を果たすと同時に彼女に不老不死の力を与え、以後はその忠実なる従者として付き従うようになる。

 マリアが持つ予言と預言による未来予知の力は悪魔であるアザミと契約を行い、不老不死の力を得たことで開花したものであり、本人が元々内包していた力の覚醒であった。


 それからおよそ千年に渡り西暦の世界を共に生きてきた。繰り返される戦争を見てきた。奴隷貿易も、世界恐慌も、世界大戦もその目で見てきた。

 人の世で終わる事なく続く不幸の連鎖を断ち切る為に今は活動している。いずれ彼女の創造する未来によって世界には安寧と平和がもたらされるだろう。

 宗教や科学も辿り着けなかった理想の世界を作り出す事。それが自分達の目的だ。


 そして今はその目的とは別に難民狩りに対処する為のこの地を訪れているわけだが、マリアが難民問題に強く拘るのは自身のそうした境遇があっての事だ。

 普段は特定の問題に私情を挟むことはないが、この問題に関してだけは違う。難民狩りなどという行為を行う者を相手にして、この少女が絶対にそれを許すはずはない。


 汗を拭き終わったアザミはマリアに尋ねる。

「マリー。着替えますか?」

「いや、大丈夫。ありがとう。もう落ち着いたよ。」

「わたくしはずっとここにいますから、安心して眠ってください。」

「アザミ、少しだけ手を握っていても良いかい?」

「えぇ、もちろん。」マリアの頼みにアザミは快く返事をした。

 マリアは静かに微笑むと目を閉じて再び眠りに就く。その右手にはアザミの左手がしっかりと握られている。

 少女は静かな寝息を立てて眠る。アザミは彼女を慈しむように見守り、その夜もいつもと同じようにそのまま傍に寄り添った。

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