第7節 -神の存在証明-

 正午過ぎ。レオナルドとフランクリンは総会で発表する資料の最終確認を終えてホテルのレストランで昼食をとっていた。

 綺麗に整えられたレストランのテーブルの上にはハンガリーにおける家庭料理の象徴的な存在であるグヤーシュとラコット・プルンクリ、そして焼き立てパンとサラダが並ぶ。

 グヤーシュはパプリカの風味が特徴のスープである。肉と玉ねぎ、じゃがいも、トマトやパプリカ、ラードなどを煮込んで作る。

 今回のグヤーシュにはマジャール・スルケと呼ばれるさっぱりとした味わいが特徴の灰色牛が使われているらしい。

 ラコット・プルンクリはグラタンをイメージするようなオーブン料理で、じゃがいもやゆで卵、サラミなどを一緒に焼き上げたものになる。その名は “じゃがいもの重ね焼き” を指し非常にボリュームがある。

 目の前に並ぶそれらのごちそうを楽しみながらも、レオナルドの心はやはり落ち着かずにいた。


「やはり落ち着きませんか?」フランクリンがレオナルドの様子を見て言う。

「はっはっは。君にはそう見えるか。これでも隠しているつもりだったのだがな。」穏やかに笑いながらレオナルドが答える。

 見栄を張って落ち着いた様子を演出してみせているつもりだったが、どうやら彼には全てお見通しらしい。落ち着いているふりを見抜かれてしまっては、かえって格好がつかないというものだ。

 機構の総監という役職を務めるレオナルドにとって、フランクリンという存在は機構内において数少ない気を許せる相手であり、飾る事のない本当の自分というものを安心して見せられる人物だ。

 だからだろうか。フランクリン相手ではどんなに普段通りに体裁を保っているつもりでも僅かな変化で心情を読み解かれてしまう

 自分を飾る事なく共に過ごせる相手というのは貴重だ。特に常にプレッシャーにさらされるような立場では、役割をこなす自分に夢中で本当の自分というものを見失いそうになる事が幾度となくある。

 そうした時に、心から気を許せる存在が一人でも傍にいてくれれば心強い。

 自身が道を踏み外しそうになった時や、どうしようもなく不安に苛まれた時でも心の支えになってくれるからである。

 その点において、レオナルドはフランクリンに対して絶対的な信頼を置いていた。


 少し間を置いて総会の話題とは別の話をレオナルドが切り出す。

「ところで。フランク。一昨夜の事件のニュースは見ているかね?」

「難民狩りと呼ばれている事件の事でしょうか。」

「そうだ。」

 ごちそうを目の前にして語るような話題ではないが、レオナルドにとって総会の発表と同じようにこの事件も気にかかっていた。

 ハンガリーとセルビア国境付近で頻発する強盗殺人事件。最初の犯行から一か月が経過し、既に十件に上る犯行が繰り返されているが未だに犯人は捕まっていない。

 両国の現地警察や国境警備隊がどんなに厳重な体制で警備を固めようとも必ずその隙をついて犯行が行われる。

 一昨夜もハンガリーとセルビア国境にあるアシュトホロム村のすぐ近くで事件が起きた。今回も例に漏れず犯人は捕まっていない。

 ニュースで流れていた情報では周辺を監視していたはずのドローンの映像にも記録は無く、深夜だったことから目撃者も無い状態らしい。

 少し離れた位置にあるAI監視カメラにも人影らしきものは何も写っていなかったという。


「この事件をどう思う?」

 レオナルドの問いかけにフランクリンは少しの時間考えを巡らせる。

「犯人の姿が一切見えないという謎も当然ありますが、それ以前に実行犯の目的がはっきりしません。」

 その答えはレオナルドが思っている事と同じであった。

 最初は生活苦を抱えた者による単なる物盗りの犯行かと思われていたが、最近の事件の様子を見るにどうも違う。

 そういった底の浅い理由での突発的犯行であればここまで長期に渡って一切手がかりが掴めないというのもおかしな話であるし、最近の犯行では金品といったものが盗まれた形跡すら無い。

 生活苦を抱えて突発的に犯行に及ぶような者が国境付近の厳重に固められたセキュリティや警備を軽々突破するなど有り得ないだろうし、そもそもこうした場所を狙うという事自体がおかしな話だ。

 この事件の犯人からは最初から金品を奪う事が目的ではなく、ただ殺人を行う事だけに意義を見出しているような印象を受ける。

 日に日に警戒レベルが引き上げられていく中で、わざわざ危険を冒してまでなぜ事件を繰り返すのか理由や目的がまるで分からない。

 特に国連特別総会が行われる直前である最近は厳重な警備体制が敷かれていたはずである。にも関わらず犯人は平然と犯行を行って見せた。

 理解し難い犯行の数々には目的と手段が入れ替わっているような不自然さすら漂う。


 先程のフランクリンの回答にレオナルドは自身も同様の意見だと返事をした。

「私も同じことを思っていた。何が目的で事件を起こしているのか、どうやって警備をかいくぐっているのか。」

「最初の犯行から先日に至るまで、今回の総会が行われるタイミングを狙っていたかのようにも思えます。」

「国際社会に対する何らかのメッセージだと?」

「そこまで考慮出来るような者が犯人であるかは分かりませんが、可能性という点では否定できません。しかし意図があまりにも不明瞭です。」

 レオナルドはフランクリンの回答に深く頷いた。

 この時期に危険を冒してまで犯罪を重ねる理由として何らかのメッセージ性があるという意見には同意できる。しかしそれにしてはまるで意図が感じられない。

 何かを伝えようとしているのに何もメッセージ性が無いというのも大いなる矛盾だ。


 続けてレオナルドは唐突に別の質問をフランクリンに投げかけた。

「では、彼女達についてはどう思う。」

 それは公園からホテルへ戻る途中にも少し触れた話題だ。

 マリアとアザミ。国際連盟における暗部とも呼べる部門に所属する彼女達が、この時期に何の目的も無くこの地を訪れたとは到底思えない。

「総監はもしや、あの二人の来訪が例の件に何か関りがあるとお考えで?」

 レストランの中という状況を鑑みて、敢えて如何様にも受け取る事が出来る言葉でフランクリンが返答した。しかしレオナルドの考えている事は伝わっているらしい。

 国連に所属する立場ながら総会にも出席しない彼女達が、こうした情勢下において観光以外に何か “予定” を入れるとなると考えられる結論は自然と一つに絞り込まれる。

 考え付く答えに懸念を示しつつ、レオナルドは祈るように呟いた。

「もちろん、私としてはそうでない事を願うが。」

「彼女達を心配されていらっしゃるので?」

「なんだかんだと言いつつも長い付き合いになるからな。情が無いわけではないし、仕事を抜きにして接する事が出来るなら良き友人だろう。それに彼女は “見た目だけなら” 孫と同じような年齢だ。」

「左様ですか。では、本日の総会が落ち着いたら一度連絡を入れられてみては?」

「あぁ、そうしよう。」

 この後開催される総会に加えて、気に掛ける事を自身の中で燻らせておくのは避けたい。そう考えたレオナルドはフランクリンにこの話をした。

 信頼できる人物と意見を共有しておくというのは気分が楽になる。

 それで懸念そのものが解決するわけではないが、心持ちというもので言えば紛らわせる事が出来るというものだ。これで改めて総会の発表にのみ集中する事が出来る。

 レオナルドは心の中で改めてフランクリンに感謝をした。


                 * * *


 午後1時過ぎ。公演の終了と共に劇場内に万雷の喝采が鳴り響く。

 オーケストラの指揮者の退場直後、出演したキャスト達が順に舞台に出て演じた役に合わせた一礼をしていく。

 観客の拍手はやがて一定のリズムを刻みながら繰り返されるようになり、キャストの挨拶に花を添えた。

 国立歌劇場ではバレエ公演が丁度終了した所だ。キャストの挨拶が終わり舞台の緞帳が閉じる。

 フロリアンは終演の余韻に浸りながら惜しみない拍手を送り続ける。すぐ隣でマリアが満面の笑みを浮かべて言う。

「素晴らしかったね!」

「はい。とても綺麗でした。」その言葉にアザミが同意する。興奮冷めやらぬ様子でマリアはフロリアンにも話し掛ける。

「フロリアンはどうだったかな?」

 マリアが話し掛けるも感慨に浸りすぎていたフロリアンには声が届いていなかった。

「フロリアン?」

 その呼び掛けでようやく感慨から引き戻されたフロリアンが返事をする。

「ごめん、あまりに良い公演だったからつい惹き込まれて。」

 実際公演は素晴らしかった。オーケストラと完璧に息の合った踊りは、およそ人がその肉体で表現できる美しさの究極であろう。約二時間の公演があっという間であった。

「うんうん!素晴らしかったね!そして君も楽しめたなら良かった。」そう言うとマリアは微笑んだ。さらに続けて言う。

「では、お昼を食べに行こうか。フロリアン、約束通りプランは君にお任せするよ。」

「うん、任せて。」フロリアンは笑顔で頷いた。

 三人は座席を後にして廊下を抜け、大階段から一階へと下りるとそのまま正面入り口から外へと向かった。


 歌劇場の正面入り口から外に出たところでマリアが期待の眼差しを向けながら次の目的地をフロリアンに尋ねる。

「さて、私達をどこに連れて行ってくれるのかな?」

 バレエ開演前と同じように蠱惑的に言う彼女は何とも含みのありそうな言い方で聞いてきた。フロリアンはそんなマリアを見て心臓が早鐘を打つのを感じつつも、あくまで平静を装って返事をした。

「ハンガリー料理のお店だよ。近くに人気のお店があるらしいんだ。」

 そう言うとスマートデバイスで表示した店の情報ホログラムをマリアとアザミに見せる。

 そこには数々の美味しそうな料理が表示されており、マリアが希望したデザートも多くある様子だった。

 写真を見たマリアは目を輝かせながらフロリアンの示した行き先に賛成した。その様子をアザミが微笑ましそうに眺める。

「いいね!早速向かおう。それで、どっちに行くんだい?」

「こっちだよ。リスト広場の近くみたいだ。5分ほどの道のりだね。」

 フロリアンはマップで現在地から目的地までの道筋をチェックすると左方向へ向かって二人を誘導する。マリアとアザミもそれに続く。

 アンドラーシ通りからオクトゴン駅に向かう途中にあるフランツ・リスト広場に目的のレストランはある。

 三人はバレエの余韻と談笑を楽しみつつ次の目的地へと向かって歩き始めた。


                 * * *


 穏やかな昼下がり。目の前にはのどかな田園風景が広がる。空から降り注ぐ光は眩いほどだが外の空気は冷え込んでいる。

 アシュトホロム村の国境検問所付近にある記念公園に男はいた。

 ほとんど遮蔽物も無く、すぐ隣を走る道路からもよく見通しの利く公園だが、一か所だけ木陰になる場所がある。

 男はそこに身を潜めながらこれまでの人生について思い出していた。


「狂ってやがる。」


 僅かに思い返しただけでそんな言葉が口から吐き出される。自分の人生に対してでは無い。 “この世界に対して” の言葉である。

 自分には故郷と呼べる場所がない。生まれて間もなく両親に捨てられ、三十年と少しほどになる人生の半分を孤児院で過ごしてきた。

 その孤児院はカトリック教会に属するもので、そこで過ごす間はおよそ自分が思うような自由は無く定められた戒律に従って生きるしかなかった。

 祈り。それは自分にとって何の救いにもならなかった。父などというものも知らないし、信じるべき神もいない。

 この世に生まれたというだけで両親に捨てられた自分が、存在するかも分からない神などというものに対してなぜ赦しを乞わなければならないのか。世界は不条理だ。

 自分には名前も無い。孤児院で過ごしていた時、便宜上付けられた名前で呼ばれていたような気がするが、そんなものはもはや思い出すこともできない。

 自分は幸福など知らない。与えられた事が無いのだから、それがどういうものなのかが理解できない。

 世界にいる多くの人間は自分が満たされた存在だという事に気付かない。

 住む場所、親しい人、便利な道具、それらが身近にある事を当たり前に享受しておきながら、まだ自分が持っていないものだけを見ては満たされていないと嘆く。欲望が満たされない自分は可哀そうな存在だと嘆き続ける。

 自分はそういう人間の言う事が許せない。幸福などというものは知らないが、怒りというものは知っている。あれはとても “良い感情” だ。

 不条理なこの世界で生きているという実感をこの身に与えてくれる。


 男は成人が近付いてきたある日、孤児院を脱走した。意味の無い祈りを繰り返す日々にうんざりしていたのだ。

 逃げ出すことで自らを縛ってきた堅苦しい戒律から逃れ、生まれて初めて自由を手に入れたと思った。しかし、それは違った。

 男には社会のルールというものが分からなかった。品物を購入する為の貨幣など持っていなかったし、人とうまく接するなどという事も出来なかった。

 生きる為には他人のものを盗むしか無かった。自分を殺そうとするものを殺すしかなかった。そういう生き方しか出来なかった。


 ある時は、ドイツやオーストリアを目指す移民と難民の群衆に混ざりまだ見ぬ地へ移住しようとしたこともあった。

 セルビアとハンガリーの国境にあるリュスケへ向かったが、そこで受け入れられることは無かった。強行に不法越境をしようとした事で、国境警備隊に掴まり収容施設送りである。

 収容所での生活もとても馴染めるものでは無く、一年と経たない内に脱走した。当然、警備隊によりすぐに拘束され連れ戻された。だが、男は諦めなかった。

 更に数年後、男はそれでも自分が置かれている環境を我慢する事が出来ずに脱走を企てる。

 以前の脱走により警備体制は厳重さを増していたものの、数年を過ごす間に警備の欠陥、セキュリティの穴というものが分かってきた。

 脱走の為に必要な情報を集める為に人とうまく接する術を学んだ。模範的に生きるという事がどういう事なのか学んだ。社会の規律というものを学んだ。目的を達成する為に必要な嘘の吐き方を知った。

 そして入念な準備と計画によって男はついに二度目の脱走を成し遂げたのである。警備の穴を突いての脱走だった為、警備隊が気付くのが遅く、気付かれた時には既に探し出せない場所まで逃げ出せていた。

 これが男の人生における二度目の自由の獲得であった。


 しかし、男のやる事は変わらない。むしろ収容施設で身に着けた技術などを使い、以前よりさらに巧妙で陰湿なやり口で盗みや殺人を犯すようになっていた。

 人並みの幸福など知らない。怒りに身を任せてただ気の赴くままに罪を犯し日々を過ごすことが男にとっての幸福となってしまっていた。

 それからどのくらいの月日を過ごしただろうか。男は行く当てもなく放浪の日々を過ごす事に限界を感じ始めていた。

 重ねてきた罪は数えきれない。行く先々での現地警察がそれを見逃し続けるはずも無かった。


 訪れる場所全てで追われる身となったのだ。

 もうどこに行っても地獄しか待っていない。この世界にもはや居場所など無くなった。いや、最初から居場所など無かった。

 追い詰められた男は、始まりから何も無いつまらない人生であったと過去を振り返りながら自らの命の幕引きを考えていた。そんな時に奴は現れた。


 警察の追跡から逃れ、荒れた森の中で力無く倒れ込んで間もなくの事だ。

 どこの誰かなぞ知る由も無い。全身を黒色のローブでくるみ素顔も一切見る事は出来なかった。

 男か女かすら分からない。しかしどうやら警察などの手のものではない事だけは確かだった。その人物は自分にこういった。


「神はお前を選んだ。天啓はお前を指し示した。貴様の願いを叶える為に必要なものを与えよう。」


 【神】が選んだだと?冗談にもほどがある。

 この世に神などいない。もし存在するならば、真っ先に裁かるべきは今ここにいる自分という人間であろう。

 多くの人々から物を盗み、多くの人々を殺してきた。他者から奪い殺す事しか出来ない自分が今も生きている時点で、それを悪業だと断じるような神などという存在を肯定する事は出来ない。

 溢れ出る笑いを堪える事が出来なかった。社会から逸脱した罪人。もはや世界の敵と呼べるような自分を指して “神が選んだ” だと?

 その人物に対してこう言い返した。

「お前は面白いことを言うな。神が選んだだと?出来の悪い冗談だ。」

 だがその人物は動じる事も無く、何も反応する事もなく淡々と次の言葉を言った。

「お前には理由がある。望むものがあるなら今から渡すものを使ってみると良い。」

 言っている意味が理解できない。突然現れてそんなことを言われて “はいそうですか” という奴が果たしているのだろうか。

 少しの間を置き、その人物に対して至極当然の質問を投げかけた。

「お前は何者だ?」

 自分の質問に黒づくめの人物は黙り込んだ。長い沈黙の後にただ一言だけ告げる。

「プロフェータ」

 そう言い残すと目の前の人物は大きなカバンを投げ置いてその場を立ち去った。

 言葉の意味を理解する事は出来なかったが、どうせ今から死ぬ身であるからと騙された気持ちで残されたカバンを開き、詰め込まれていた中身に驚愕した。


 その日から自分は生まれ変わった。元々何も無かったが、唯一自分が持っていた “元々の自分の姿” も捨て去った。

 今では自分の姿そのものをこの世界から消すことだって出来てしまう。

 かつて越える事が出来なかった二重の鉄フェンスの向こう側に、今自分はこうして立っている。

 誰にも追いかけられることも無く、誰にも見つかる事も無く、ただ己の気の向くままに “楽しい事” をして過ごしている。

 約五百メートル向こう側では先日の事件の調査を行う為に今も国境警備隊や警察が動き回り、メディアがそれを追いかけている。無駄な労働をご苦労な事だと男は思った。

 今日の夜にはここを移動しよう。改めてそう決めた男は日が暮れるまでの間もうしばらく今の場所に留まる事にした。


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