第6節 -胎動の予感-

 午前10時。賑やかな朝食を終えたマリア達は会計を済ませて店を出る。約束通り、支払いは全てアザミが行った。

「美味しかったね。雰囲気もお洒落で素敵なお店だった。」マリアが満足そうな表情で言う。

「ご馳走様でした。あの、ありがとうございます。」

「おや?もしかしてまだ気にしているのかい?ごちそうすると言ったのは私達の方なのだから、気にしなくてもいいのに。さては君も心配性だね。アザミと同じだ。それに食事中に楽しい話も色々聞かせてもらったのだから、お礼を言うのはむしろこちらだと思うよ。」フロリアンの言葉にマリアが返事をする。続けてアザミが言う。

「えぇ、とても楽しい朝食でした。旅のお話は今度旅行するときの参考にします。」


 マリアとアザミはそう言うが、旅先で出会ったばかりの人に全てをごちそうされるという事にフロリアンは申し訳なさを感じていた。

 すると、そんなフロリアンの内心を見透かしたかのようにマリアがひとつの提案をしてきた。

「そうだ、フロリアン。もし君が気にするというのなら私から一つ提案があるんだけど、良いかな?」

「僕に出来る事なら。」

 やや固めなフロリアンの返事を聞いたマリアは笑いながら提案を持ち掛ける。

「身構えなくて良いよ。難しい事ではないから。提案はこうだ。今日一日、私達の行く場所に付き合ってほしい。どうかな?」

 それはフロリアンにとっては願っても無い申し出であった。やましい気持ちからではなく、マリアとたくさんの話をする時間が出来るだけ長く続けば良いと感じていたからだ。

「もちろん、喜んで。」フロリアンはマリアの提案をすぐに受け入れた。

「良かった。君の話はもっと聞いてみたいと思っていたから嬉しいよ。構わないだろう?アザミ。」

「もちろん。歓迎します。」アザミの言葉を聞いたマリアはとびきりの笑顔を浮かべた。


 笑顔が弾けるというのはこういう事を言うのだろうか。マリアの嬉しそうな表情を見てフロリアンは頬が緩むのを感じた。

 本来であれば旅先において、出会って間もない人からの誘い話というのは慎重に判断すべきなのだろうが、一緒に観光して回る程度なら問題ないだろう。

 何より、自分自身も先の朝食の時にこの少女から感じたものを確かめてみたい気持ちが強い。

 言葉では言い表しにくいが、マリアからは何か不思議なものを感じる。同じ場所で同じ時間を過ごしているのに、彼女が見ているのはまるで別の時間や空間であるような…その赤い瞳の奥に何か秘められているような印象だ。

 一緒に行動していれば何か分かるかもしれない。もしかすると、彼女と話していく中で自分の求める答えに近付く事が出来る可能性だってある。そう思わずにはいられなかった。


「フロリアンはオペラやバレエは好きかい?」

「あぁ、もちろん。芸術関連は大好きだよ。」マリアの問いに即答する。

「では次は国立歌劇場へ行こう。今日はマチネがあるからね。」

 オペラやバレエ、ミュージカルといった舞台興行では夜公演の事をソワレ、昼公演をマチネと呼ぶ事が多い。

 一般的にこうした舞台は夜公演であるソワレで行われる事が多いが、今日は昼公演のマチネが開催される日であった。


 マリアの提案で次の目的地は決まった。

 ハンガリー国立歌劇場。かの有名なグスタフ・マーラーが指揮を執り黄金時代を築いた歌劇場である。

 主に小さなオペラと呼ばれるオペレッタやバレエ作品を扱う歌劇場で、他国にある巨大な歌劇場と比べると料金も手頃で、誰でも気軽に観賞を楽しめる事から非常に親しみやすく観光客にも人気だ。

 手頃な料金で鑑賞できる一方で、この歌劇場はその全てが芸術と言えるほど荘厳で豪華絢爛な建築物である事も有名だ。

 ネオルネッサンス建築の建物は外部から内部に至るまで緻密で精巧なデザインの作りになっており、見る人の心を惹きつけてやまない。

 その歌劇場は現在位置からおよそ一キロメートル離れた距離にある。話をしながら歩いていればすぐに辿り着く距離だ。

 元々フロリアンにとってみれば、朝食後は国立歌劇場を訪れようと思っていたのでこのスケジュールは予定通りである。

 ただ、異なるのは一人ではなく一緒に見に行く人が出来た事であった。道中も賑やかな旅となる事がとても嬉しく感じられた。

「劇場はそう遠くない。開演は11時からだからゆっくり歩いて行こう。食後の散歩にはもってこいだね。」

 マリアの掛け声を合図に三人は早速、歌劇場へと向けて歩き始めた。


                 * * *


 その頃、ハンガリーとセルビアの国境付近にある村、アシュトホロムでは国境警備隊と警備ドローンが一昨夜に起きた事件の調査を引き続き行っている様を一人の男が眺めていた。

 事件と言うのは難民の男を何者かが銃撃し殺害したというものだ。連日のニュースで大々的に報道されている。

 国連主催の難民問題に関する特別総会がハンガリーで行われるとあって、難民や移民が関わるニュースは現在のところ注目度が非常に高い。

 当然、その難民が何者かによって殺害されたという情報を得たメディアも昨日から大挙してこの地に押し寄せてきており、国境警備隊と警察は調査に加えてその対応にも追われている状況だ。


 男は一昨夜の情景を思い出しながら、その時に感じた興奮の余韻に浸っていた。

 良い夜だった。暗く、静かでとても良い夜だった。銃の引金を引く瞬間にあの男が見せた絶望の表情もその夜の享楽に花を添えた。

 メディアなどは難民や移民が持つ金品目的の犯行ではないかなどと騒いでいるが、自分にとってそんなものはどちらでもいい。欲しいものはただの快楽だ。

 特に昨日の獲物はあらゆる意味で自分を満足させた。奴は何も持ってないなどとのたまったが、自分には無いものを数多くもっていた。

 余興でカバンの話を持ち掛けたが、あの男が既にカバンを持っていない事など分かり切っていた。昼間にそれを施設の身内宛に送ったのを知っていたからだ。

 あの男には “送る相手がいた” 。それは自分には無いものだった。


 自分には何も無い。

 金目のものは当然、友人も家族も、そして故郷も、自分の名すらも。

 確か、昨日の男はお前が欲しいものがあるならくれてやるなどと言っていただろうか。笑わせる。持つ者には持たざる者の気持ちや境遇など理解できるはずがない。

 自分が何を持ち、どれだけの幸福を獲得しているかなどに目を向ける事も無く、ただ無いものだけに目を向け続けて嘆く事しかしない愚かさ。

 そういった者が自分の命が潰える瞬間に浮かべる絶望の表情を眺める事は最高の瞬間だ。その時になって初めて、自分が失いたくないものの多さと価値に気付くのだろう。

 自分自身で気付かないのであれば気付かせてやる。思い出させてやる。そしてそれを知った上で自らの愚かさを悟り命を散らせば良い。


 しかし、この地も格段に警備が厳重になってきた。そろそろ移動する頃合いだろうか。

 国境を遮る鉄フェンスの境界ですら自由に移動できる自分にとって、調査の手が忍び寄る事は有り得ないが万が一という事もある。

 せっかくの楽しみを邪魔されたくはない。警察も警備隊も、そしてメディアも間もなく引き上げる頃合いだろう。それを待ち、辺りが暗闇に包まれる今日の夜にでも移動しよう。

 男は内心でそう思い、自分に気付かない盲目共を嘲笑いながらその場を離れた。


                 * * *


 国立歌劇場に向けアンドラーシ通りを歩いていた三人はついに目的地に到着した。

 周囲の景色と比べてもひと際目を引く、まるで教会を思わせるように目の前に聳える建物がハンガリー国立歌劇場だ。

 ファサードを見上げると上部にはクラウディオ・モンテヴェルディやアレッサンドロ・スカルラッティをはじめ、ベートーヴェンやモーツァルトといった大作曲家達の彫像が設置されており、その威容はヴァチカンのサンピエトロ寺院を髣髴とさせる荘厳さを纏っている。

 視線を少し落とし、ファサードの中ほどを見ると公演される作品の宣伝幕が何枚か設置されていた。

 複雑さと斬新さが入り混ざった、重厚な歴史の積み重ねを感じさせるこの建物の入り口ではフェレンツ・エルケルとフランツ・リストの彫像が来館者を出迎える。


「間近で見るとやっぱり凄いね。」建物を見渡しマリアが目を輝かせて言う。

「そうだね。凄く綺麗だ。」フロリアンがマリアの言葉に同意する。

 二人が建物の素晴らしい外観に魅入っていると、ふいに後ろからカメラのシャッターを切る音が聞こえてきた。

 二人が振り返るとアザミが旧式に見えるカメラを携えとても満足そうに微笑んでいた。国立歌劇場を背景に二人を撮影したらしい。

 その様子を見たマリアはアザミに言う。

「良い写真が撮れたかい?」

「えぇ、とても。素敵な写真が撮れました。」

「それは良い。けれど、私はともかく。彼にはきちんと事前に言わないと。」マリアがフロリアンへの無許可撮影を窘める。

「すみません。」申し訳なさそうにアザミが謝る。更にフロリアンにマリアが言う。

「すまない、フロリアン。もし嫌だったら消すように言うけど。」

「平気だよ。写真は旅の良い思い出になるからね。」マリアの言葉にフロリアンは本心から言葉を返した。


 他の国では現地の人々とよく一緒に撮影もしていたし、旅の思い出として自ら進んで撮影を頼んだこともある。それらの写真は自身にとっては宝物だ。

 今回の撮影においてもうひとつ付け加えるならば、自分が今同行している二人の女性の美しさというものも挙げられるだろう。俗っぽい感性となってしまうが、これはとても言葉で言い表す事が出来ない。

 お世辞などではなく、少なくとも人生でこれほど異性を眩しいと感じた経験は未だかつてフロリアンには無かった。

 この二人と写真撮影をしたとして、悪い気分になる男が果たしてこの世界にどれほどいるのだろうかと思えるほどだ。

 さらに言えば、自分がその写真に写り込んでしまって良いのかとすら思えてくる。


「ありがとうございます。では、遠慮なく撮らせていただきますね。」

「どうぞ。後で思い出にデータを頂けると嬉しいのですが。」アザミの言葉にフロリアンが返事をする。それを聞いたアザミが一瞬マリアの方に顔を向けるとマリアは静かに頷きながら笑顔を返した。

「分かりました。では、張り切って撮影しましょう。データをお渡しするとなると、やはりマリーが転んだところもカメラに収めておくべきだったでしょうか。あの光景は非常に貴重な写真となったでしょうに。突然でしたから、惜しいことをしました。」

「さては今言ったことを反省していないな?君は。撮影される側にも撮られたくない瞬間というものがあるんだよ。」アザミの言葉にマリアは呆れたように言う。

「先程、貴女は “私はともかく” と言いましたからね。マリーだけは例外です。」アザミは反省の色を浮かべる事はなく、実に惜しいことをしたという様子だけを浮かべつつ返事をした。

 そうしてひとしきり三人で笑い合った後は正面入り口から歌劇場の中へと入った。


 入口をくぐるとそこには煌びやかなエントランスホールが広がっていた。

 美しく艶やかな大理石の柱が聳え、天井には黄金のアーチが架かる。その天上は十字模様で区切られた中に有名な作曲家の肖像画が埋め込まれ、天井に複数設置された巨大なシャンデリアは空間全体を明るく照らしだす。

 三人はしばらく言葉もなく内装の美しさに見とれていた。まるで空間そのものが美術展示のように思えるほど荘厳で美しい。世界各国にオペラハウスは数多くあるが、これほどの絢爛さをもつオペラハウスはそう多くない。


 その豪華なエントランスの奥にチケットカウンターを見つけたフロリアンが言う。

「まずはチケットの購入だね。」

「えぇ。ですが、購入自体は既に済ませてあります。先程ここへ向かっている最中に三名分予約購入しておきました。なかなか良い座席が取れましたよ。」フロリアンの言葉にアザミが返事をした。

 フロリアンはアザミの手際の良さに少し驚いた。それと同時に現地で直接チケットを購入するというイベントが無くなった事が少しだけ寂しく思えた。

「あの、チケット代は良いんですか?」フロリアンがそう言うとアザミの代わりにマリアが返事をした。

「あはは、やはり心配性だね。気にしないでくれ給え。先程の朝食にしてもそうだが、今日一日付き合って欲しいと提案したのは私達なんだ。招待をした側が支払を請け負うのは何も不思議な事では無いからね。」

 マリアは平然とそう言うが、しかしフロリアンにとっては気になる事だった。

 今日出会ってからというもの、こういった場面での支払いを全て彼女たちが負担をしている。朝食の時は素直に言葉に甘えさせてもらったが、何度も続くとさすがにそういうわけにもいかない。

 すると、またしてもその複雑な胸中を察したのかマリアが話を続ける。

「でもそうだね。この後の観賞が終わったらランチをご馳走してもらおうかな。行き先も君にお任せするよ。」

「ありがとう。」

「楽しみにしよう。甘いものがあると嬉しいね。」

 その言葉は明らかに自分の胸中を察してのものだと確信したフロリアンはマリアへ礼を言い、マリアもフロリアンの礼に返事をする。

 アザミは会話をただ横で眺めているだけであったが、不思議とどことなく楽しそうに見える。


 三人はそのまま真っすぐとチケット売り場へ向かい、予約したチケットを受け取った。

「開演は11時からだからまだ多少時間があるね。せっかくだからギフトショップや館内を見て回ろう。」

 マリアの提案で少しだけ館内を見て回ってから劇場入りをすることにした。


                  *


 そして時刻は10時40分。開演20分前である。館内を少しの間巡った三人はいよいよ指定の座席へと向かう。

 レッドカーペットの敷かれた印象的な大階段を上り劇場へと歩みを進めた。

 大階段には複数の絵画や神話をベースにしたと思われる装飾が飾られている。目に入る全てが芸術的だ。

 大階段より先の廊下を奥へ少し進み開け放たれた扉をくぐる。そこから視線を左に向けるとVIP席である中央バルコニー席へ繋がる入口が見えた。

 さらに少し進んだ先には円周状に広がるレッドカーペットが敷かれた廊下が広がり、観客席へ繋がる入口扉がいくつも並んでいる様はホテルのフロアを想起させる。予約した座席はどうやらこの扉の内どれかにあるらしい。

 マリアが数字の9と書かれたプレートが上部に掲示されている扉に手をかけて開けると、そこには絢爛たる講堂が広がっていた。


 黄金の劇場。

 講堂はそう形容するにふさわしい輝きを放っている。三人はその煌びやかさに目を奪われた。

 一階観客席は三区画に分かれ、通路にはレッドカーペットが敷かれている。その周囲を囲むように金色のコリント式の柱とアーチによって構成される馬蹄形の観客席が四段に分かれて広がる。

 客席の座面は赤色で統一され、周囲の金色とのコントラストが美しい。

 ドーム天井はロッツ・カーロイによる巨大な絵画が描かれ、中央に設置された巨大なシャンデリアが観客席に設置された照明と共に講堂内を優雅に照らし出している。

 三人の席は二階バルコニーにあるボックス席の一列目で、舞台がとてもよく見える中央寄りの場所だ。この位置からは舞台下手側のすぐ傍にある二階ボックス席、通称シシィ・ロージェもよく見える。

 シシィという愛称で親しまれたハプスブルク家最後の皇妃であるエリザベートは、お忍びで国立歌劇場に通ったと言われている。その際に、必ずその場所に彼女が座った事からシシィ・ロージェと名付けられた。

 三人のすぐ近くには王室や国賓しか立ち入る事が出来ないロイヤルボックスと呼ばれるVIP席がある。

 二階バルコニーの中央に設けられたそのボックス席は大統領直々の特別な許可が下りない限り決して誰も立ち入る事は出来ない。清掃員を除いて。


 フロリアンは講堂の煌びやかさと絢爛さが織りなす芸術性を目の当たりにして感激すると同時に、このボックス席をすぐに予約したアザミの手際の良さに改めて驚かされた。

 なかなか良い座席が取れたと彼女は言っていたが、最高の特等席と言って差し支えない。

「素晴らしい眺めだね。」講堂内の輝きを眺めながらマリアが呟く。その横で座席を確保したアザミが少し誇らしげな表情をしているように見えた。

 既に講堂内はこの後の公演を見る為に訪れた多くの人々で賑わっている。

 演目はもちろん、クリスマスの時期恒例の【くるみ割り人形】である。E.T.Aホフマンの童話【くるみ割り人形とねずみの王様】を原作にチャイコフスキーが作曲をしたバレエ作品だ。

 音楽と踊りによる総合芸術。バレエは基本的に歌やセリフが無い。その為、物語の内容は事前に目を通しておくか雰囲気で感じ取るしかないが、言語にまったく左右されない点で言えば全世界の誰もが同じ視点から公演を楽しむことが出来る。

 言葉の壁を越えて最高の芸術を平等に共有できるのが素晴らしいところだ。

 講堂内の景色をじっくり目で楽しみながら三人はバルコニー席の座席にゆっくりと腰を下ろした。中央にマリアが座り左にアザミ、右にフロリアンが座る。あとは開演の時を待つだけだ。


 フロリアンは自身の中で期待がますます高まっていくのを感じた。何かが始まる瞬間と言うのは楽しいものだ。期待に胸が膨らんでいく。

 開演までの間もう少し講堂を見回そうと思ったが、ふと気になって少しだけ視線をマリアの方へ向ける。

 表情は優しく落ち着いていて、視線は真っすぐと舞台の方へ向けられていた。自分や周囲の観客と同じようにこれから始まる舞台を楽しみにしているように見える。

 しかし、フロリアンは視線を舞台に戻そうとした時、マリアがスカートの上に置いた手を固く握っている事に気が付いた。

 これから舞台観賞を楽しもうとしている直前の様子としては違和感があるように見える。隣にいるアザミはその事に特に気付いている様子は無い。

 手を固く握るのは受け入れたくない事柄に対する拒絶や極度の緊張を表すと教わった事がある。彼女の表情を見る限りではそういう風には見えないが、何か気になる事があるのだろうか。

 そんな事を考えているとマリアがこちらの視線に気付いたのか話し掛けてきた。

「どうしたんだい?劇場よりも私の横顔に見惚れていたのかな?」

 蠱惑的な表情を浮かべるマリアにフロリアンはとっさに言葉が返せなかった。ほんの少し視線を向けたつもりだったのだが、見つめるようになってしまっていたのだろうか。

「冗談だよ。さぁ、もうすぐ始まるよ。」

 マリアはフロリアンの反応を楽しむように見て笑顔でそう言うと視線を舞台へと戻した。つい先程まで固く握られていた手は解かれ、今はゆったりと広がっている。

 きっと自分の思い過ごしか考え過ぎに違いない。フロリアンはそう考え、視線を舞台へと戻した。

 講堂内の照明が暗くなっていく。いよいよ開演だ。オーケストラピット脇からの指揮者登場に観客から万雷の拍手が送られる。

 その時、フロリアンはマリアが横で一言何かを口にしたような気がしたがよく聞き取る事が出来なかった。

 気のせいだろうか。不思議に思いつながらもすぐに意識を舞台へと向けた。

 

 マリアの隣でアザミだけはその言葉をしっかりと聞き取っていた。彼女はフロリアンに対してただ一言。 “ありがとう” と口にしたのだ。

 着席してからのマリアの様子については当然気付いていた。そして彼女の様子を見て心配そうな表情を浮かべる彼の様子も。

 彼の事は周囲に自然と気を配る事の出来る、直感の優れた好青年であると感じる。

 おそらくマリアも隣で自分に視線を向けた彼が何を思っていたのかを悟ったのだろう。先のありがとうという呟きはその事に対する感謝であることも分かった。

 舞台では弦楽が序曲を奏でている。間もなく舞台の幕が開き、物語は始まる。

 それと同時に自分達の運命とも呼ぶべき何かが動き始めたような、そんな予感をアザミは感じ取っていた。


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