第29話 そこに愛はある?

 舞果との契約は終了したが、連絡が途絶えたということはなかった。


 彼女からちょくちょく近況報告が来るおかげで、なんとなく状況は把握できている。


 いまは父親が用意したホテルに泊まっている。食事はおいしいが高脂肪のものが多く、困っている。ただ、ベッドは俺のうちのものとは比べものにならないほど良いらしい。


 ――やかましいわ。


 目の前にいたら思いきりツッコんでやったのに。



 舞果が部屋からいなくなって数日、俺はうつむきがちになった。


 俺の脳は彼女の姿を鮮明に記憶していて、窓の前に放置されたソファを見ても、台所を見ても、寝室を見ても、そこに舞果の姿を映しだしてしまう。


 そのたびに胸が苦しくなって、なにも手につかなくなる。だから俺はうつむき、舞果を思い起こさせるものを視界に入れないようにしていた。


 あれから舞果は学校にも来ていない。もともとサボり魔だったのに、いまでは彼女のいない教室のほうに違和感を覚えてしまう。


 今日は祝日で、バイトもない。八時には目が覚め、もう十時になろうかというのに、ダイニングのイスに腰かけたまま、なにもせずにいる。


 ――あれ? 俺、前はひとりでなにしてたっけ……?


 まったく思い出せない。


 なにもしていないと舞果のことを考えてしまい、舞果のことを考えるとなにもしたくなくなる。無気力の永久機関だ。


 今日、舞果は、出張を終えた陣野さんとともにこの地を離れる。必要な手続きなどは後回しにして、ひとまず陣野さんのホームタウンでの暮らしを始めるらしい。


 舞果は陣野さんを嫌っていたが、時間がたてばきっと和解できると俺は信じている。


 陣野さんが持っていた舞果の写真は喫茶店かあるいはケーキバイキングでの一コマだろう。ふたりで出かけているということは少なくとも母親が許可を出していたはずだし、舞果も不機嫌な顔はしていたが修復不可能なほどの仲とは思えない。長く離れていたが故の感情の行き違いではないかと思う。


 コミュ障をこじらせて家から逃げだした俺とは違い、舞果ならきっとお互いの誤解を解くことができるはずだ。


 もちろん彼女と離ればなれになりたいわけがない。しかし俺との不安定な関係をつづけるより、最初はつらくても、しっかりした家庭で暮らすほうが彼女のためになる。そのはずだ。


 あの日からずっと、そう自分に言い聞かせている。


 気がつくとまた舞果のことばかり考えている。このままでは一日中なにもしないまま終わりそうだ。


 ――飯、食うか……。


 膝に手をついて立ちあがり、レトルト食品が仕舞ってある棚に手を伸ばしたところ、ふと炊飯器に目が留まった。


 保温のランプが点灯している。俺は炊飯器の蓋を開けた。


 ご飯が乾燥して黄色くなっている。最後の夕食のとき舞果はご飯をたくさん炊いたと言っていた。そのあといろいろあってすっかり失念していた。


 涙がこみあげてきて、俺はぐっと奥歯を噛みしめた。この気持ちもこのご飯のように、色褪せて捨てられる日が来るのだろうか。


 そのときインターホンのチャイムが鳴った。俺はすがりつくみたいに通話ボタンを押す。


 小さな液晶画面に映しだされたのは、髪の長い女の子。


 八宮さんだった。


 俺は大きなため息をついた。


『そこまで露骨にがっかりされると、かえって腹も立たないね』


 画面の中で八宮さんは苦笑いをした。


「べつに、がっかりは……」


 八宮さんにがっかりしたわけではない、舞果でないことにがっかりしたのだ――というのは言い訳だろう。


『開けてもらってもいい?』

「え? あ、うん」


 言われるがままに解錠したが、八宮さんが俺にいったいなんの用だろう。わざわざうちにまで来て。


 やがてチャイムが鳴り、俺は玄関のドアを開けた。黒の花柄ワンピースにベージュのカーディガンを羽織った八宮さんがそこに立っていた。


「おはよう、かな」


 スウェット姿の俺を見て、彼女は言った。


「おはよう。でも、けっこう前に起きてた」

「小瀬水さんがいなくなって、着替えをする気力も湧かないってところ?」

「……」


 図星。八宮さんはにっこりと微笑んだ。


「入っていい?」


 俺は身体をずらし、招き入れた。八宮さんは物珍しげな顔で部屋を見回す。


「広いね」

「なにもないだけだよ」

「そう? 落ち着いた感じで素敵だと思うよ」


 気遣いに満ちた言葉。ちょっと前までからかってくる相手とばかり話をしていたから、俺はなんだかぽかんとしてしまった。


 八宮さんは小首を傾げる。


「どうしたの?」

「い、いや。――ところで、なんの用?」


 すると彼女は真剣な表情になって、俺を正面に見た。


「伝えておきたいことがあって」

「え、あ、うん……」


 気迫みたいなものを感じて、俺はたじろぐ。


「ずっと考えてたんだけど……。わたしがすべきなのは、有永くんの知らないことを伝えるだけって、そう結論したの。有永くんがどう判断するにしても、知らないことがあったらきっと後悔するから」

「うん……?」

「小瀬水さんのこと。わたしが見て、聞いて、感じたことをそのまま伝える」


 八宮さんは話しはじめた。


「小瀬水さんとお父さんの話しあいがあった日。お父さんがいまの奥さんに電話をかけて、小瀬水さんを引きとるのを『しょうがない』とか『放置して噂が広まったらどうするんだ』って言ってた」

「……え?」


 しょうがない?


 俺は失笑した。


「まさか。そんなひとには見えなかったけど。なにかのまちがいじゃないか? 電話の相手は奥さんじゃなかったとか」

「奥さんじゃなかったとしても交際相手とか、そういう関係のひとだよ。必死に浮気の弁解をしてたから」


 そう言って八宮さんはにやっと笑った。どういう流れで浮気の話が出てきたのか分からないが、なんだか聞いてはいけないような気がした。


「久しく離ればなれだった娘と一緒に暮らすことを前提にした話しあいの直後に、奥さん、ないし交際相手に電話をかけて、出てきたのがさっきの台詞だよ? もちろん百パーセントとは言いきれないし、判断は有永くんに任せるけど。わたしはあのひと、なんかおかしいと思う」

「……」

「あのひとと話したとき、有永くんはなにか感じなかった?」

「なにか……?」

「違和感でも、引っかかったことでも」


 そう言われて思いかえすと、たしかにおかしいと感じる部分がある。


「舞果が独りぼっちになったと知って、彼女を探すためにこっちに出張を申し出たって言ってんだけど……。それっておかしいよな。自分の娘が大変な状況なら、仕事を休んででも探しにくるものじゃないか? 出張の予定がなかったら来る気はなかったってことか?」


 まだある。


「それに、なんで舞果に直接じゃなくて、俺に伝えさせたんだよ。そんな大事な話、自分の口から伝えるべきだろ……!」


 自分で言いながらだんだん腹が立ってきた。


 ヒートアップする俺に、八宮さんは落ち着いた声で尋ねた。


「それで、有永くんはどうするの?」

「……」


 燃えあがった炎に水をぶっかけられたような気持ちだった。


「どうにもできないだろ……」


 喉がからからに渇き、かすれた声になった。


「陣野さんは実の父親だし、舞果のことを考えたら、あのひとのところで暮らしたほうが――」

「世間の目を気にして、家族のふりをしようっていうひとたちと暮らして、本当に幸せ?」

「でも、経済力があるし」

「でも、そこに愛はある?」


 八宮さんは目を伏せた。


「ごめん、意見しないつもりだったのに」

「いや……」


 それだけ舞果のことを真剣に考えてくれているということだ。しかし俺だって考えた。考えたうえで出した結論だ。


「舞果は頭がいいし、きっといい大学に行ける。二年もすればまた自由になれるだろ」


 八宮さんはなにも言わない。俺の言葉に納得はしていないということだろう。


「見送りには行くんでしょ?」

「……行っていいのかな?」

「有永くん以外に誰が行くの」

「……」

「まだ間にあう時間だけど、迷ってるほどの時間はないよ。はい、着がえて着がえて!」

「う、うん」


 俺は促されるままシャツとデニムに着がえる。


「ほら、早く!」


 ぐいぐいと俺の腕を引く。慌ててスマホと鍵をポケットに入れ、マンションを出た。


 玄関前で八宮さんは手を振った。


「行ってらっしゃい」

「八宮さんは行かないの?」

「その場面に八宮彩理というキャラは必要ないから」

「? それって……?」


 なんだか奇妙な言い回しだ。


 奇妙といえばもうひとつある。


「今日の用事ってさ、電話でもよくない? なんでわざわざうちまで来たの?」

「だって――参考までに、ふたりの愛の巣、見たかったから」


 ――……参考?


 なんの参考になるというのだろう。近く同棲する予定があるとか? いやまさか。第一、俺たちの関係は特殊すぎてなんの参考にもならないだろう。


「わたしのことはもういいでしょ。ほら、行って行って!」


 八宮さんは追い払うように手を振った。


 疑問には感じたものの、いまは時間がない。


 俺は駅に向かって走った。

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