第26話 わたしがいるじゃん

「できた」


 絵が完成した。スマホの時計を見ると三時間が過ぎていた。以前ならもっと短い時間で描けたものだが、やはりブランクはいかんともしがたい。


 しかし、その三時間強は、体感ではあっという間だった。出来映えも悪くない。ただ――。


 ――シーンの選択をまちがった……。


 このシーンを描くということは、つまり、そのシーンを俺が見ていたというわけで。


 それはちょっとまずい。失敗したことにして、べつの絵を描こうとスケッチブックのページを切りとったそのとき、俺の声を聞きつけて舞果が部屋に入ってきた。


「できたの?」

「い、いや」

「でもそれ」

「これはちが――」


 ごまかす間もなく、舞果は俺の手から絵をかすめとった。


 表彰状を受けとったかのように両手に持ち、じっと見ている。


「ええ……、これ……」

「やっぱり引くか……」


 どんな罵倒が飛んでくるかと身構えるが、彼女の口から出てきたのはべつの言葉だった。


「すごい、うまい……。――ごめん、あんまり絵を褒めるボキャブラリーがなくて。でも本当にすごくて」

「あ、ありがとう」

「違う! いま直司が思ってるのの十七倍はすごいと思ってるから!」

「なぜ素数」

「これ、本当に記憶だけで描いたの?」


 俺は頷いた。


 描いたのは、舞果がソファで寝ているところ。身体を丸め、幸せそうな顔をしている。このあとタオルケットをかけてやったっけ。


 詳細に記憶しているということは凝視していたということ。ひとの寝姿をじろじろ見るなんてマナー違反も甚だしい。


 しかし舞果は「へえ」とか「ふうん」と感心の声をあげるだけ。引いている様子はない。


「あのさ、べつの場面も描ける?」

「べつの場面って?」

「なんでもいい。なんか、ぱっと思いつく場面」

「描けるけど」

「じゃあお願い。ざっとでもいいから」


 俺は再びうつぶせになって鉛筆を握る。しかし描きだすことができない。


 なぜなら。


「あの……、気が散るんだけど……」


 舞果がしゃがみこみ、じっと俺の手元をガン見している。


「あ、ごめん。どんなふうに描くのかと思って」


 決まり悪げに笑って部屋を出ていった。


 鉛筆を走らせる。感覚をとりもどしつつあるのかさっきよりも試行錯誤が少なく、二時間ほどで完成した。


「できた?」

「うおっ」


 舞果の声がして俺はびくりとなった。うっすら開いた引き戸から彼女が覗いていた。けっきょく見ていたらしい。


 描いたのは、公園で時季はずれの花火をした場面。線香花火を三本に束ねて、火の玉が落ちないようにと真剣な表情をしている舞果の絵だ。


 寝姿の絵と比べれば題材としては穏当だが、じっと観察していたみたいでやっぱり恥ずかしい。


 部屋に入ってきて俺の絵を見た舞果は興奮気味の声をあげる。


「やっぱり! ほら! ほら!」

「な、なにが」

「直司、場面を写真みたいに記憶してる。わたしが物をつまむとき薬指と小指を立てる癖とか、しゃがんだときに身体をちょっと右に傾けるところとか。覚えてないところを想像で補ったりごまかしたりってことがない」


 たしかに、絵を描くときは、頭の中にある光景をそのまま紙に出力するようなイメージだ。


「直司がコミュ障の理由、分かったかも」

「なんだよ」

「フィルターが薄いんだよ。ふつうのひとは外から入ってくる情報を無意識に取捨選択してるけど、直司はそれをしてない。だからこんな芸当ができる側面もあるけど……。――知らない誰かがちょっと不機嫌だったりしたら、自分が悪いような気にならない?」

「……なるけど」

「わたしはならない。関係ないからフィルターで弾いちゃう。でも直司はそれをしないから影響を受けちゃう。情報が過多で、だから処理しきれなくなってフリーズする。それが多分、コミュ障の理由」


 妙に説得力がある。しかし、それでは――。


「どうすれば治るんだ?」

「前に言ったでしょ。治す必要ないって。いっぱい情報を受けとれるってことは、それだけひとのことを考えられるってことだよ。だからわたしのこと、助けたいって思ったんでしょ?」


 舞果の窮状に想像を巡らせ、焦燥感を覚えたのはまちがいない。彼女のこれからを思い、胸が苦しくもなった。


「そんなの、特別なことじゃ……」

「わたしって面倒くさい奴だから、自分から『助けて』なんて絶対に言わないし。でも直司は……、直司だからこそ、そんなわたしを助けてくれた」


 舞果が俺のことをそんなふうに考えていたなんて思いもしなかった。


 彼女は肩をすくめて苦笑する。


「まあ、思考停止して暴走しがちだけどね。下校時にSPを気取ったり、教室で怒鳴り散らしたり」

「ち、散らしてはいなかっただろ……」

「ともかく、コミュニケーションが苦手だからって気にすることないよ。誰でも短所はあるんだから」

「でも、世間はそうじゃないだろ。内向的な奴より外向的な奴が得をするようにできてる」

「それは否定しない。でもそれなら、外向的なひとが内向的なひとをサポートすればいい。内向的なひとは外向的なひとが苦手な部分で力を発揮すればいい」

「でも、俺にはそんな相手……」


 すると舞果は目を伏せて、照れくさそうに身体を揺すりながら言った。


「わたしがいるじゃん」

「……」

「ちょっと黙んないでよ」

「でも、だって……」


 いまの流れでは、舞果が俺のパートナーになってもいい――それも長期的な――と聞こえる。


「それって……」


 本当にその気なのか。今一度、確認しようと口を開きかけたとき、舞果が急におどけた調子で言った。


「というわけで、よろしくお願いしますね」

「……はい?」

「ほ、ほら、そろそろ契約開始からひと月たつでしょ? だから」


 契約。その言葉が遅れてじんわりと染みこんでくる。


「ああ、なるほど……」

「そうそう! 契約更新、お願いね?」


 手を合わせ、片目をつむる舞果。


「考えておく」


 ほっとしたような、残念なような。


 ――契約、か。


 これから舞果との関係がどうなっていくかなんて分からない。しかしひとつ言えるのは『契約更新をしない』なんて頭に思い浮かびもしていなかったということ。


 もっと一緒にいたいと思っているということだ。





 舞果は図書館で借りた本を一日一冊のペースで読み終えた。


 土曜日、本を返した帰り道。


「なに?」


 並んで歩いていた舞果が俺のほうを見て言った。彼女の顔を横目で見ていたのがバレたらしい。


 再び絵を描きはじめて数日がたった。あれから、時間があれば舞果の絵ばかり描いている。単純に描くことが楽しいし、舞果が喜んでくれるのも嬉しい。しかし一番よかったことは――。


「つぎは横顔を描こうかなって」


 舞果を見つめる理由ができたこと。


 本当はちらっと見れば写真を撮るみたいに脳に焼きつけることができる、というのは内緒だ。


「楽しみにしてる」


 屈託のない笑顔。また描きたい表情が増えてしまった。


「それにしてもさ、いくら学区から離れてるとはいえ、ふたりで頻繁に出かけたらまずくないか?」

「大丈夫だよ。というか、べつに見つかってもよくない?」

「でも」

「付きあってるって言っちゃえば」


 舞果は正面を向いたまま言った。固い表情。俺の視線には気づいているはずだが、こちらに顔を向けない。


「まあ、そうか」


 俺が同意すると、


「そうだよ」


 と、ほっとしたような声で言った。


「じゃあさ、一緒に買い物に行こうよ。今日はチラシが入ってたはずだから、直司が来てくれたら買い溜めができて助かる」

「分かった」


 方向転換して最寄りのスーパーへ向かう。その道は高校の通学路でもあり、俺は誰かに目撃されるのではないかと気が気でなかったが、舞果はむしろ誇らしげに胸を張って歩いていた。


 と、そのとき、舞果がとうとつに立ち止まった。


「どうした?」


 問いかけに答えず、彼女は目を見開き、反対車線に停められた車のほうを見つめている。いや、にらんでいる、と言っても過言ではない、怒りと驚きのこもったような目つきだった。


 車の側には男性が立っていた。年齢は四十歳くらいだろうか。メガネをかけ、スーツを着ている。公務員や銀行員といった堅い職業に就いていそうだ。


 彼はこちらを見ている。


 学校の近く。車。四十歳くらいの男性。


 ――もしかして……。


 八宮さんの言っていた不審者って、あれか?


 舞果は急に俺の腕をつかんだ。


「今日はやっぱり帰ろう」


 張りつめた声。


「え?」

「帰るの!」


 腕をぐいぐい引っぱり、いま来た道を反対方向へ歩きだす。


 早足。指が腕に食いこむ。


「い、痛いって」

「早くっ」


 ちらちらと背後に目をやる。早足は徐々に駆け足へ移行する。


 路地に入り、右に折れ、左に折れ、最後にはほとんど全力疾走だった。


 大通りに出て、ようやく舞果は引っぱるのをやめてくれた。俺は膝に手をつき、ぜいぜいと身体に酸素をとりこむ。


「い、いくら不審者の情報があるからって、か、過剰反応だろ……」


 舞果はなにも言わず、路地のほうを警戒している。


「勘違いじゃないか? なんか真面目そうなひとだったし」

「そんなわけないでしょ!」


 突然の怒鳴り声に俺はびくりとなる。舞果ははっと息を飲んだ。


「ごめん。――もう大丈夫みたいだから、帰ろう」


 俺に背を向けてすたすたと歩いていってしまう。


「お、おい……」


 舞果と初めて話した日のことを思いだす。


 関係を迫ってくる男性を彼女は、そこまで言う必要があるのかと思えるほどきつい言葉でなじっていた。


『いい大人がどうしてあんなことを』


 と言った俺に、ぞっとするような冷めた声で、


『大人を信頼してるんだね』


 と言い捨てた。


 大人の男性への、明らかな嫌悪感。


 目をそらしてきた問題が、すぐそこまでやってきているのを感じる。


 遠ざかっていく彼女の背中を俺は慌てて追いかけた。

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