夕涼

Lugh

夕涼

「夕涼って知ってる?」

 私は驚いて顔を上げた。不機嫌そうなのが当たり前の君が珍しく、明るい調子の声で言ったからだ。さきほどまで、大学の講義に文句を垂れていた同一人物とは思えない。君の機嫌の変化の仕方といったら、荒れ狂う山の天気のようで、しばしばついていけないときもあった。

 木々の生い茂った薄暗い川沿いの道だった。私は恐る恐る足元を確認しながら歩いていた。そんな私を君は嘲笑った。君は白くて長いスカートを穿いているというのに、軽い足取りで進んでいく。動く度に足首がちらちらと見えた。腰の辺りで手を組み、ゆったりと一歩一歩大股で歩き、つま先で足を下ろす場所を探しているようだった。山で育った、と言っていたのは嘘ではなかったらしい。兎が跳ねているみたいだ。君は振り返って私を見ては、からからと笑っていた。歩くことすら可笑しいといった感じで。

「ゆうすず?」

 私は足元に注意しながら、聞き慣れない言葉をそのままそっくり聞き返した。勉強不足だなぁ、といかにももったいぶった声を出した。大変機嫌がよかったに違いない。いつもだったら聞き返しただけで、君はむすっとした顔をしていただろう。私の問いに、にこやかに答えてくれた。こちらを振り返りもしなかったが。

「夕方の夕に、涼しいと書く。ゆうりょうとも読むね」

 左手の人差し指で宙に文字を書いた。いかにも神経質そうな、細くて長い指に見惚れてしまう。

「夏の季語でね。涼しの傍題でもある」

 あたしは夕涼のほうが好きなんだけど、と指を振りながらつけ加えた。

「せっかく講義をさぼったというのに、ここでも講義を聞くことになるのか」

 私は立ち止まって首を振る。

「いいじゃない。あたしがあなたに何かを自発的に教えるなんて、滅多にないんだから」

「つまらない講義なんて抜け出そうと言ったのは、そっちだろう」

「そうだったっけ?」

 君はふざけて首を傾ける。それから、笑い出した。そんな君を見ていると、顔の筋肉が緩んで微笑んでしまう。これは私の悪い癖だったかもしれない。普段は憂鬱そうな顔をしている君が、ときおり見せてくれる笑顔に魅力を感じていた。同時に独占したいとも思っていた。君が離れてしまうことが恐ろしかったのだ。君の笑顔が見たい一心で、君に言うべきことも言えなかったような気がする。

「テストのための勉強なんかより、もっと面白いことを教えてあげる」

 君は私のことなど気にかける様子もなく、歩を進め、俳句について話をはじめた。私は足を滑らせないように慎重に、君のあとを追った。

 君と私は五限目の講義をさぼって、大学の目の前にある千川上水遊歩道を歩いていた。

 その日の君は午前中の講義には顔を出さなかった。四限目の途中から教室にやってきた。いつもと変わらず、不機嫌そうな顔をしていた。君のこういう行動に、私はいつもどきどきしていた。周りから視線を向けられても、君は澄ました顔で見返すだけだ。講義に顔を出しても、結局のところ、鞄から文庫本を取り出して、鐘が鳴るまで読書に励む君であった。敵が増えるばかりだ。君のことを悪く言う奴はクラスにたくさんいた。しかし、直接何か言える奴はいなかった。たしかに連中の言うとおり、君は大学を馬鹿にしている節があった。だが、君ほど文学に熱心な学生もいなかった。私が講義に対して疑問を抱くことがなかったのは、そこまでの知識がなかったからだ。さらには熱意もなかった。教授の言うことは全て正しいと信じ込んでいたのだ。教授を批判できる君のことを羨ましく思い、尊敬すらした。

 私を含めて大半の学生が、大学は卒業さえできればいいと考えていたなかで、君は異質だった。

 千川上水遊歩道に入るための階段を下りているとき、ねえ、と君は口を開いた。

「この川はどこにつながっているのかしら?」

 当時の私はそんなこと知る由もなかった。この道が千川上水遊歩道であることさえ、知らなかったのだ。さあ、と肩を竦めることしかできなかった。君は私の目を、遠くのものでも見るかのように、目を細めて眺めた。私は君の視線に、あたかも責められているかのような気分を味わった。君は目を逸らして、何も言わずに階段を下りていってしまった。私はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 いまの私なら答えることができる。玉川上水である、と。そして、玉川上水は太宰治が入水自殺をした場所でもある。君が知らなかったはずがない。君が求めていたのは、そういう答えなのだろうから。

 大学の入試試験に受かってから入学式までの間に、課題が出された。太宰治の『東京八景』を読んで評論を書くというものだ。私は文字を読むのも書くのも苦手だった。太宰の作品は、中学校のときに『走れメロス』を読んだくらいだ。初めて『東京八景』を読んだときの印象は、とにかく読みにくい、くらいしかなかった。どんな評論に仕上がったか、覚えていない。規定の文字数に達することに必死だった。ろくな評論ではないことだけはたしかだ。君は入学式のあとに行われた学部ごとのガイダンスで、みんなの前に出て表彰された。素晴らしい評論だったらしい。教授たちが褒めていた。壇上に上がったときの君の顔は忘れられない。睨みつけるような目さえしていなければ、相当な美人だと思った。壇上から学生一人一人を品定めでもするように、君の視線は動いていた。壇上で名前を呼ばれたときは、さもつまらないものをもらったという顔をしていた。

 君と付き合うようになってから、何度か太宰の話を聞かされた。評論の話もしたと思う。私は君の隣にいられるだけで浮かれていた。太宰の話など、ろくに聞いてはいなかった。大学に在籍していたときは、文学に興味がなかった。大学を卒業して企業に勤めるようになってから、小説を好んで読むようになった。疲れ切った心を小説に救われたこともある。武蔵野という土地が文学と深い関係にあるのを知ったのも、武蔵野という土地から離れてのことだ。不思議なものだ。文字を読むことも書くことも苦痛だった私が、いまでは文章を書くことを生き甲斐としている。文章を書いていると、どうしても君のことを思い出してしまうのだ。

 俳句について語る君は声に熱が籠っていた。川沿いの遊歩道を歩き、目に入る季語を説明してくれた。

 ところで、君は機嫌が悪いときは文句ばかり並べて、私もおろおろするばかりだったが、機嫌がよいときはよいときで困ったものだった。一人で何時間でも喋りつづけるのだ。こちらが話を聴いていようがいまいがお構いなしに。私は口を挟むことができなかった。一人で話し、理解し、納得する。見守っているのがせいぜいだ。見守っていないと、どこかに消えてしまうような危うさを持っていた。

 夏の日は長い。時刻は夕方だったが、まだまだ明るかった。日が暮れる気配もない。木々の間から、太陽がぎらぎらと輝いていた。見えるもの全てが銀色に輝いていた。君は突然、私に投げかけた。喋り疲れたのか、飽きたのか。

「夕涼で一句詠んでよ」

「無茶ぶりがすぎるな」

「いままでのあたしの話、聴いてたの? それに文学部でしょう」

「話は聴いてたよ。だけど、すぐには作れないよ」

 君が黙って見つめてくる。私は俳句なんてまともに詠んだことがなかった。それでも、君の期待に応えたかった。私にもそれなりの意地もあったのだ。周囲の風景に意識を向ける。

 川のせせらぎ。透き通った水。鯉の姿が見える。人が近づくと、水面に顔を出して口をぱくぱくさせる。木の背は高く、葉と葉が重なり合って遊歩道は薄暗い。夏の日差しを遮っていた。水中の深いところにでもいる気分だ。見上げれば、葉や枝の間から、小さくなった空が顔を覗かせている。ときおり通り抜ける風が気持ちいい。東京という都市から時間と空間が切り離されたような場所だ。すぐ隣の大通りを走る車の音だけがうるさかった。私は頭を捻って考えたが、何も思い浮かばなかった。集中しすぎて、腕時計の秒針の音が聞こえるような気がした。時間だけが過ぎていく。ゆっくりとだが、徐々に空が赤く染まっていった。

 結局、私は夕涼で一句詠むことはできなかった。

 三年生になって就職活動がはじまると、君はだんだん大学に来なくなった。連絡も取れなくなり、私たちの関係は自然消滅した。君のことだから、いまも文学と真剣に向き合っていることだろう。そんな君にいまさらながら、一句贈るとしよう。


「夕涼や葉の裏に葉の青さあり」

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夕涼 Lugh @Lughtio

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