第36話

 夏の暑さも本格化してきた。政務室も日中は窓を開け、たまに吹く風を待つ。

「はあ……」

「お疲れのようですね」

 補佐官のクリムトは苦笑しつつ、アイスティーを淹れてくれた。しかしモニカはそれに口をつけず、重々しい溜息を繰り返す。

「疲れるに決まってるでしょ。何もいいことがないんだもの」

 サジタリオ帝国による侵攻、人質となったセニア、王国騎士団の再編成。それだけでも頭が痛いのに、レオン王の拉致も発覚し、ソール王国は窮地に立たされている。

 おまけにセリアスはあれから行方知れずとなっていた。忍者とともに城下を出ていったのが最後で、その後の顛末は誰も知らない。

 あのひとなら無事だとは、思うんだけど……。

 また最近になって、城では反帝国の感情が高まりつつあった。遊技場の一件で騎士団長のブリジットが激怒したことも、要因のひとつとなったらしい。帝国軍と王国騎士団の間では緊張が続いている。

 肝心のジェラールはソール城を離れ、帝国との国境付近まで出張っていた。セリアスのことも相談できず、無為に時間だけが過ぎている。

「例の刺客のことは何か掴めたの?」

「それが、まだ……貴族の誰かが雇い入れたものとは思いますが」

 セリアスとともにあの忍者の消息も掴めなかった。だが彼のようなアサシンの存在は、ある重大な事実を指し示している。

 帝国ではなくソール王国の身内の中にこそ、敵がいるのだ。

 王家の血の秘密を知る者が、帝国の介入に焦り、白昼堂々とモニカを狙った。この事実だけで、黒幕は王族に近しいうえ、帝国の動向を逐一監視できる立場にある。

 本当に狙われてるんだわ、あたし……早くジェラールに相談しないと。

 あれだけ辱められたにもかかわらず、いつしかモニカは彼を頼りにしていた。身体ごと心までこじ開けられたかのようで、前ほどには拒絶できない。

 どうして、あのひとは……?

ジェラールがモニカを強引に奪える機会は、いくらでもあったはず。なのに彼は一線を超えようとせず、ぎりぎりのところでモニカの純潔を尊重した。アンナやブリジットにも露出は強要したものの、その肌には一切触れていない。

「手が止まってますよ、モニカ様」

「あ、ごめんなさい」

 心配事を大量に抱えつつ、モニカは今日の政務をこなしていった。能率があがらないために残業となり、夏の陽も暮れてしまったが、クリムトは嫌な顔をしない。

 やがて今日の仕事を終え、政務室をあとにする。

「お疲れ様、クリムト」

「いえ。モニカ様のお役に立てるなら、僕は何だって……」

 廊下に出たところで、不意にクリムトが後ろから覆い被さってきた。幼馴染みの突然の行動にモニカは驚き、顔を赤らめる。

「ち、ちょっと? あなた……」

「少しだけお許しください。少しだけ」

 背中に初めて『彼』の感触があった。クリムトも男の子だと、今さらのように認識するとともに、モニカは彼の一途な想いにはっとする。

「あなたまで帝国に奪われるなんて……僕は悔しいんです」

 モニカとジェラールの関係には薄々、勘付いていたらしい。クリムトは『今だけ』と念を押しながら、後ろからの抱擁を深めた。

「どうか元気を出してくださいね、モニカ様」

「ありがとう。クリム……」

 ところが、それを通りかかったジェラールに目撃されてしまう。

「ジェ、ジェラール? あなた、いつ帰って……」

 ジェラールは眉を顰め、強引にモニカの腕を引いた。

「来い」

「ま、待ってったら!」

 クリムトを置き去りにして、モニカは離宮の一室、彼の部屋へと連れ込まれる。

 彼が『力ずく』でモニカを従わせようとするのは、初めてのこと。モニカの細い腕を掴みあげ、ベッドへと連れ込む。

 ポーカーフェイスで気取る余裕もない様子だった。

「きみというやつは! おれ以外の男にも『ああ』なのかい?」

「ご、誤解よ……話を聞い、ひあぅ?」

 首筋に乱暴なキスを押しつけられ、モニカはいやいやと悶絶する。

「やめて! 変よ、あなた……いつもはもっと、優しいのに……んっ、んぁ?」

「おれが優しい、だって? それだって我慢してるんだよ」

 頬を舐められ、耳たぶを食まれた。ジェラールはモニカの身体からクリムトの感触をかき消そうと、躍起になる。

 けれどもモニカはキスに応じず、力いっぱいに顔を背けた。

「い、嫌って言ってるでしょ!」

奴隷の件も忘れて、いつになく彼を頑なに拒む。

嫌悪感はなかった。触られて、鳥肌が立つこともない。それでも『今の彼』を受け入れることはできなかった。

 心がすれ違ってしまっているのを痛感し、モニカは切に涙ぐむ。

「あたしの気持ちも考えてったら、ばか! あなただってアンナやブリジットと……」

 ようやく彼の手が止まった。

「……すまない」

 その表情は悔恨に満ち、許しを乞うようでもある。

「みっともなかったね。おれとしたことが、目の前が真っ赤になって……」

 嫉妬だった。ジェラールはモニカとクリムトの睦まじさを目の当たりにして、独占欲を剥き出しにしたらしい。

 そっぽを向いたままモニカは頬を染める。

「す、少しはわかったでしょ? あたしの気持ちが」

「ああ」

 遠まわしに伝えたつもりなのに、即答されてしまった。

 困ったことに、自分はこの意地悪な王子様に心を奪われている。彼の期待に応えるとともに、彼にも応えてもらえたら――そんな想いが胸を満たしつつあった。

「どうかしてたよ。本当にごめん」

 モニカから身体を剥がし、ジェラールは自嘲の笑みを浮かべる。

 その優しい微笑みひとつで、やっとモニカはすべてを悟った。彼が下卑た欲望のために女性を辱めるはずがない。今までの調教も『モニカへの拘り』は一貫している。

「ジェラール……あなたはソールに何をしに来たの?」

 自然とモニカは彼の頬に触れていた。

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