第5話 死神

 私は私の中に死神を飼い続けている。こうして受付の椅子に座る今も。

 私の居場所はいつも通りの静寂に包まれている。カチカチと静かな時計の針の音だけが、そこかしこに反響して響く。静けさは私を救ってくれる。

 喧騒は私の全てを殺していく。…

「麗。次は何時にクライアントが来んだっけ。一眠りしたいんだが」

 診察室から顔を出した真理先生が眠そうな目で中空を眺めながら、ぼんやりと言葉を発する。目の隈が酷く、整った鋭い瞳の形を朧げにさせている。

「十四時に篠崎様がお見えです。眠る時間はありませんよ」

「あぁ…彼か。眠る時間がないのは惜しいが楽しい時間を過ごせそうだ」

 そう言いながらも真里先生の表情は至って眠そうなままだ。昨夜も遅かったのだろう。

「日中、過度に仮眠をとるのはよくありません。また昨日も深夜に読書ですか」

「ボードレールにまたハマっていてね。彼の本は太陽の日差しには似つかわしくない。あれは一人で深夜に読むものだよ」

「惡の華ですか、それとも巴里の憂鬱?」

「巴里だ」

 そう言い残すと、真里先生は一度欠伸をし、診察室へと戻っていった。

 待合はまた静寂に包まれる。時計の音だけが世界が動いていることを示し続けている。それすらなければ、この空間は世界から置き去りにされてしまうのではないか、と錯覚するほどだ。人間は完全な静寂に苦痛を感じると言うが、はたしてそれは本当なのだろうか。私にとっては…それは救いなのではなかろうか。

「聞き忘れた」

 診察室の扉が少しだけ開き、声だけがこちらへ届いてきた。静寂は薄れ、ゆったりとした声音が揺蕩う。私は、真里先生の声が好きだ。柔らかく気怠げで、刺のない美しさは、どこか落ちる間際の椿を連想させる。

「麗。君の死神は、まだ健在かな」

「…ええ。いつも通りここに」

 私は言葉と共に、自らの痩せた胸を指し示した。

「ふふ、それは結構」

 死神。その言葉を私はもはや憎悪の念を持って想うことはない。昔とは違う。真里先生と出会う前の、私とは。私の死神は、私自身の一部だ。だがそれは、一部に過ぎない。彼は敵ではない。ただ、彼は彼なりに私を…私の心を守ろうとしているだけだ。私が危機に陥れば、また彼はその鎌を働かせるだろう。それでいい。

 ともかく、今は、平和だ。

 時計が十三時五十五分を指している。静寂の待合には、クリニックの前を歩く靴音が静かに響いてくる。数秒の後、扉がゆっくりと開くと、私はいつも通りの調子で声を発した。

「篠崎様。お時間通りのご来院、感謝いたします。おかけになって少々お待ち下さいませ」

……

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