10.主の居ない部屋

授業終了のチャイムが鳴って、教室の空気が弛緩する。


机の上の教科書とノート、筆記用具を鞄にしまい、忘れ物がないか机の中を確認。


雑談するクラスをよそに担任が入ってきてホームルームを始める。


もうすぐ始まる期末テストとそれに伴う部活動禁止期間の注意を伝えて、今日の当番が起立を促す。


帰りの挨拶に揃って頭を下げて、そのままクラスを出ようとする何人かに続こうとして声をかけられる。


「空、遊びいこー」


現れたのはクラスメイトののぞみ


その好意にあたしは申し訳ない気持ちで答える。


「ごめん、今日は用事」


なんて本当は、約束しているわけじゃないんだけど。


「また旦那と一緒?」


「あいつとはそんなんじゃないってば」


そんな定型句を、少しだけ嬉しいと思っている自分の気持ちに自己嫌悪。


それでも会いに行くのを止めるなんて選択肢はなかったけど。


「それじゃ、また今度ね」


望に手を振って、あたしは教室を出た。




廊下を歩いてたった数秒。


翔の教室に入る前。


手櫛で髪を撫でて乱れていないか確認する。


うん、大丈夫。


すっと息を吸い、小さく吐いて教室に入った。


「翔、帰りましょ」


後ろから声をかけられて、振り向いた翔が申し訳無さそうな顔をする。


「あー、悪い。今日は用事」


「また? 最近多いわね」


こうやって断られるのは何度目だろう。


その数はここ一ヶ月ほどでかなり増えていた。


少なくとも二ヶ月前より昔なら翔が用事なんて言うことは一度もなかったのに。


「人と会う用事があるんだよ」


あえて濁した言葉が胸に刺さる。


相手は誰なのか、もちろん気になるけど、それを聞く資格はあたしには無い。


翔が女の子と仲良くなるなら、それはあたしが望んだことなんだから。


「じゃあな」


「ええ」


廊下で翔を見送ってその背中を見つめる。


教室の中に入って、下を覗けば正門まで続く道がある。


もしそこを、数十秒か数分見ていれば、翔が一緒に帰る相手はわかるかもしれない。


だけど今のあたしに、それを確認する勇気がない。


結局あたしがその場を動けたのは、翔の姿が階段に完全に消えてから、たっぷり数十秒経ったあとだった。




家に帰ってきてから夕ご飯を食べて自分の部屋。


勉強道具を開いても、どうにも集中できない理由はわかってる。


外に視線を向けると、確かにそこには部屋の明かりのついた窓が見えた。


「よし」


勢いと、少しの不安を胸に乗せて、机に広げた勉強道具をまとめて抱えて立ち上がる。


自分の家を出て、隣の家に入り、おばさんに挨拶をして、階段を上る。


胸に手を当てて心を落ち着ける。


「翔、いるー?」


普段通りの声を意識しながら呼び掛けて、部屋のドアをノックして中を覗く。


しかし予想に反して、そこには翔の姿はなかった。


「空さん」


翔の隣の自分の部屋から顔を覗かせたかなちゃんに声をかけられる。


「こんばんは、かなちゃん」


「こんばんは」


ペコリとお辞儀をして、彼女があたしの顔を見上げる。


「おにいちゃんなら、さっき出掛けました」


部屋に居ないのも予想外だったけど、まさか出掛けているとは思わなかった。


それにしてもこんな時間にどうしたんだろう。


外はもう真っ暗で、これから遊びに行くなんて時間じゃない。


もしかして、誰かと会っているのだろうか。


「空さん……?」


黙ったあたしを不思議そうに見つけるかなちゃんに微笑んで頭を撫でる。


彼女とは当然お隣さん同士よく話して、翔と三人でよく遊んだ仲だけれど、翔のことで少しだけ負い目があった。


「教えてくれてありがとね」


「はい」


そして階段を下りていく彼女を見ながら、あたしは翔の部屋の中に入る。


「まったく、出掛けるなら電気は消していきなさいよ」


ひとりごとを言いながらパチンと電気を消し、勉強をしに来たんだったと思い出して動きが止まる。


まったく、あたしは何をやっているんだろう。


暗くなった部屋の中、別にここで待つ必要もないんだけど、なんて言い訳をしてみても自分の迂闊さの慰めにはならない。


もう一度電気をつけるか、下に降りてリビングにお邪魔するか、どっちにしようと考えて、窓から入ってくる薄い明かりに映るベッドが目に留まる。


そのまま後ろ手にドアを閉めて、暗くなった部屋を進み、床に荷物を下ろして、あたしはベッドに倒れ込んだ。


翔がこの前、ここで寝ていた時のことを思い出す。


一緒にこの部屋で映画を見た日のこと。


あの時溢れそうになった気持ちは今でも残っていて、でもその気持ちは胸の奥を締め付けるような痛みを伴って苦しくなる。


翔があたしの部屋で看病してくれた時のことを思い出す。


あの時の翔の優しさに涙が溢れそうになった。


それにあたしを意識してくれていることが嬉しくて、同時にちょっとだけ恥ずかしくて、あたしの中の自制心が揺らいだ。


枕に鼻をつけると、翔の匂いがして、身体を丸めると、意識が微睡んでいく。


本当はこんなことするべきじゃない、やめた方がいいのに、あたしは自分の弱い心に抗いきれなかった。

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