08.幼馴染み、勝負

まだ少し見慣れない階段を上って、その先のドアに手をかける。


ドアノブを捻って中に入り、テーブルに向かっている人影に声をかけた。


「走りに行こうぜ」


と俺の提案に、空が呆れた顔をする。


「とりあえず、ノック無しで入ってくるのはやめなさいよ」


なんてやり取りはもしかしたら初めてのものかもしれない。


もうずっと前。


そんなことを気にするようになる前に、俺がこの部屋に来ることはなくなったから。


だからそんな空の反応もちょっとだけ面白い。


「まあまあ、早く行こうぜ」


「わかったわよ」


諦めたように返事をしてあまり文句を言わないのは、空が逆の立場で俺の部屋に何度も襲来してたからだろうか。


少なくとも急に自分の部屋のドアを開けられても動じないくらいには予告なしで訪問されたし。


おかげでエロいものを見る時は随分と気をつけるようになった、なんて話はまあ今はいいか。


「着替えたいんだけど?」


私服の空がタンスに手をかけてから振り返ってこちらを見る。


「今さらそんなこと気にする関係でもないだろ」


「たしかに、ってそんなわけないでしょっ」


投げられたクッションをキャッチして、しょうがなく部屋を出る。


この前言われたことを返しただけなのにひどい。


まあ本当にそのまま着替えられたら俺も困るけど。


そしてやっぱり看病したときはやっぱりぼーっとしてたんだな。


というか、あの時の無防備な格好を思い出して顔が赤くなってきた。


あの時のことを覚えてないならそのまま見とけばよかった、なんて思ってもやっぱりまた同じことがあっても実行はできないんだろうけど。


「お待たせ」


「うわっ!」


「うわってなによ、失礼ね」


不満そうな顔をされるけど、空の服を脱ぎかけた姿を思い出していたなんて話すわけにはもちろんいかない。


「なんでもねえよ。それより九時からのドラマ見たいから早く行こうぜ」


「なんだか露骨に誤魔化された気がする」


気のせいだよ気のせい。




外に出ると外はもう真っ暗で、だけれど空気はまだ昼の熱が残っているように感じる。


「んー」っと体を伸ばしてストレッチすると空も同じように腕を天に伸ばして体をほぐして、引っ張られたスポーツウェアの下から中のシャツがチラリと見える。


シャツ一枚の姿なら普段から見ているのに、それが上着の隙間からチラ見えするとなぜかエロく感じるから不思議だ。


「なに?」


「いや、なんでもない」


見ていた俺に空が気付いたいけど、考えていたことは幸い伝わらなかったらしい。


「それじゃあ行きましょうか」


「はいよ」


二人一緒に足を踏み出し、最初はゆっくり走っていく。


段々と体が温まってきて少しずつおでこに汗が浮いてくるが、それでもまだ息を整える余裕がある。


これが帰りの終盤になると息もあがって死にそうになるんだけど、あの自分の限界を進んでいる感じもちょっとだけ好き。


「そういえば翔、土曜日暇?」


隣を走る空が、リズムよく息を弾ませながら聞いてくる。


「あー、土曜日は用事がある」


「翔に……、用事……?」


「自分から聞いてきたのに失礼なやつだなオイ」


抗議をしつつ、まあ空にどこかに連れて行かれる以外で週末に用事が入ることはほぼなかったので納得の反応だなと自分でも思う。


「どっか出掛けるの?」


「まあちょっとな」


「そっか、まあ翔にも用事くらいあるわよね」


言葉を濁した俺に、空がそう呟いて納得して話題を変える。


「そういえば英語の宿題終わった?」


「あー、もちろん。出された当日に終わらしたぞ」


「嘘でしょ」


「よくわかったな」


俺も本気で騙せるとは思ってなかったけどさ。


「あとでそっち行くからちゃんとやりなさいよ」


「いや、俺がそっち行くわ」


「どうして?」


「別に理由は無いが」


「じゃあ翔の部屋でいいじゃない」


本音を言えば俺の部屋に来られるよりも、空の部屋に行ってゆっくりしたいんだけど、それを本人に言うのはちょっと気恥ずかしい。


まあ頑なに主張してその気持を悟られても困るし、今日は俺の部屋でいいか。




家を出てから三十分ほどの時間を走り、いつもの休憩地点に到着してお互いに飲み物を買って小休憩。


そして来た道を戻る前に、ペットボトルをゴミ箱に捨てている空に声をかける。


「なあ空」


「なに?」


「どっちが先にゴールできるか勝負しようぜ」


言った俺に、空が少し困惑した表情を見せる。


「いいけど、あんた一度もあたしより先に着いたこと無いわよね」


というのは本当のことで、記憶にある限り家に着くタイミングで俺が空の前を走っていることはなかった。


「そうだな。でも今日は勝てる、気がする」


ドヤ顔でキメた俺に、空が呆れたように言葉を吐く。


「またそんなテキトー言って」


「じゃあ賭けるか?」


「いいわよ。あたしが負けたらご飯奢ってあげる」


「じゃあ俺が負けたらジュース奢ってやるよ」


「なんか釣り合ってなくない?」


「倍率で配当は変動するもんだろ」


実績皆無の馬は100円の配当が1万円になったりするのと同じこと。


「なるほど、なるほど?」


若干混乱してる空に、丁度いいので先制攻撃。


「それじゃあスタート!」


「あっ、ちょっと待ちなさいよ! フライング!」


空の抗議の声を背後に聞いて、俺は先を走り始めた。




最初は前に出た俺も、すぐに空に抜き返されてそのまま二十分以上。


普段よりも更にハイペースで進んでいる俺と空は、あと五分もすれば家に到着するだろう。


すでに息が上がっている俺は体中から汗が吹き出してシャツが肌に貼り付く。


合間に顔を拭った右手は汗でびっしょり濡れていて、それをシャツで拭って再び握り走り続ける。


おそらく空も普段よりもハイペースで走っていて、俺と同じくらい疲労しているだろう。


そんな空の様子を後ろから観察して、走るペースが緩んだ一瞬にスパートをかけた。


「なっ」


ずっと後ろを走っていた俺にまだそんな体力が残っているとは思っていなかっただろう空が困惑の声を上げる。


実際呼吸は苦しいし心臓はバクバクいってるし体は熱湯風呂に入ったように熱いし限界寸前なんだけど。


それでもペースは緩めずに、心肺機能を全力で酷使して、空との距離を維持する。


まるで肺を握りしめられているように息が苦しい。


寿命が縮んでるんじゃないかと現在進行形で錯覚するくらい体が熱い。


脚が鉛になったように重い。


脇腹の辺りが締め付けられる。


スピードを落としたい誘惑に毎秒かられながら、それを振り払って脚を踏み出し、必死に追う空に背中を見せたまま、ついに家の門柱に先にタッチする。


「勝った~~~!」


両腕を掲げてゴールテープを切った気分で声を上げる。


「エイドリアーン!」


「それは違うでしょ……」


後ろで息を切らしながら、それでも息を絞り出すように突っ込む空。


確かにおかしいけど、それくらい嬉しいのは事実だった。


その喜びを噛み締めながら振り返って、空に一歩踏み出すと限界を迎えた膝がカクンと折れる。


「疲れた……」


もう立っているのも限界で空にもたれかかると、汗の匂いに混じったレモンの香りと、熱くなった体の柔らかい感触に包まれた。


「ちょっと、どこ触ってるのよ!」


どこって言っても正面から抱きついているだけだが。


そして抗議をする空も俺を引き剥がす体力は残っていないようで、空の肩の上に顎をのせると無理をした反動が訪れる。


「つーか気持ち悪い……」


「!?」


「おえっ、吐きそう……」


「ちょっと! このまま吐いたら殴るわよっ!」


なんて焦る様子がなんだかおかしくて笑う俺を、空が引きずるように家に引っ張っていく。


締まらないオチだけど、勝ちは勝ち。


今の所はこれで十分な結果、かな。

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