第8話

 梅の花が咲き、桜のつぼみが色付き始めた3月。

 卒業生は紺色のセーラー服の襟元、黒い詰襟の胸元にそれぞれ桜の花を模したコサージュを付けていた。

「秋田先生ー、クラスでもう1枚写真撮ろー!」

 教え子たちに両腕を掴まれて強制連行。写真に応じる。

「あきちゃーん! 陸部にも顔出してくださいよー」

「俺、文芸部の顧問なんだけど」

 文句も聞かずに強制連行。写真に応じる。

「先生ー! チトセとツーショット撮ってよ」

 腕を絡ませ強制連行。写真に応じる。

「瑠奈ちゃん! こっち来てよ、先生と撮ろ!」

 仲間が増えた。スリーショット。写真に応じる。

「秋田先生! 6組ウィズ秋田で撮りましょう!」

 何を言っているんだ。このメガネは。写真に応じる。

「先生ー! カナメ呼んで来るからちょっとここで待ってて!!」

「今まで逃げた覚えはないよ!?」

 束の間の休息。長い黒髪の少女を探す。

 今日が最後のチャンスだから。一言だけでいい。2人で話せる時間をください。お願い、まだ帰っていないで。

 キョロキョロと辺りを見回す。彼女が見つかる前に先程の少年が、姿を現した。

「待たせてわりぃ! カナメ連れてきた!」

 全然大丈夫と不安を顔に出さない様に取り繕った笑顔で写真に応じる。

「ありがと! 2組の女子があきちゃん探してたぜ」

 少年らに手を振って見送る。

 時計の針が進むほどに校門付近の人は疎らになっていた。俺はただ焦ることしかできなかった。


 式が終わって1時間がたった頃。

 お祭り騒ぎで興奮していた生徒たちは残すところ20人程に減っていた。──春川桜子はいなかった。

「帰っちゃったか……」

 これで今度こそ会えることはないだろう。1度ならず2度も同じように離れ離れになってしまうなんて。

「不甲斐ないなぁ」

 誰かに伝わることなく呟いた言葉は春の空気に飲まれた。

 意味もなく足は教室に向かった。

 全ての生徒が巣立った教室には誰もおらず、ただ黒板だけが陽気な寄せ書きに変わっていた。

「お前ら本当にこういう所……大っ好きだからな」

 在校生が書いてくれた“卒業おめでとう”の文字のまわりには教え子たちが俺に向けてサプライズメッセージを書いていた。

 40名のクラス全員分。先程の落胆を頭の隅に追いやるほどの衝撃だった。思わず1人ずつ読んでいってしまう。黒板の右上から順に読み進める。

 ありがとう、楽しい一年だった、また会いに来ます……

 どれも嬉しい言葉に溢れていた。

 左下の隅っこ。最後の言葉はあの見慣れた字で書かれていた。

「学級日誌 春川桜子」

 小首を傾げ、教卓から日誌を取り出す。

「3月3日、春川桜子

 こうていのさくらはさいていなかったけど、みんな

 うれしそうなかおでした。

 えがおいっぱいのそつぎょうしきでした。あきたせ

 んせいのおかげです。これからもげんき

 でいてくださいね。

 またあいにくるよていですから。

 つらいことも、しあわせなこともすべ

 てみんながいてくれたからできたおもいで。つぎあつま

 るときはせいじんしきかな?」

 2ページに渡って書き記された学級日誌。

「……わかりやすすぎるだろ」

 片付けにおわれる職員らに体調が優れないから、みたいな取ってつけたような理由で帰宅の意思を述べる。嘘八百? どうとでも言いやがれ。

 玄関で栗色の髪を綺麗に結い上げた後ろ姿に声をかける。

「夏木、ありがとう。行ってくるよ」

「おせぇよ、バカ。行ってらっしゃい」

 悔しいとも嬉しいとも言えないような顔で見送られる。

 どこが体調不良と見えるのか、走りにくい革靴で駅まで一直線に猛ダッシュ。

 あの日、君に言えなかった言葉を伝えたい。間違ってしまった言葉を取り消したいんだ。


 生徒達の帰宅ラッシュは過ぎたようで、電車はガラガラに空いていた。ちょうど彼女とそこで会った日に似ている。

 なんて伝えよう? ごめんなさいが言いたい。もう二度と君と離れるようなことは嫌だ。会いに来てくれてありがとうって、今更だけど伝えなくちゃ。俺が好きだったのは“まゆ”だけど、俺が今好きな人は“春川桜子”、君だから。今まで言えなかった想いを全て伝えたい。


 最寄り駅で降りて、そのまま走る。そろそろ身体が悲鳴を上げ始めていたが、鞭を打ってひたすらに走る。

 いつまでも待たせてばっかじゃ悪いでしょ?

 呼吸が荒いのは年甲斐もなく緊張しているからだろうか。体力の衰えなんて言葉は見て見ぬふりをしよう。

 公園脇の自販機では今日は何も買わなかった。

 キーコ、キーコ、キーコ

 閑静な住宅街に錆びたブランコを漕ぐ音が響く。


 春風が鼻腔をくすぐる。

 セーラ服の襟だけでなく、たおやかな黒髪までも揺れた。乱れた長い髪の隙間から白い肌が覗く。伏し目がちに閉ざされた瞳がこちらに向く。

「待たせてごめん」

「来ないかと思ってたよ」

「会いに来ちゃった」

 彼女は困ったような笑顔で頬を緩めた。

 もう間違えてはいけない。

 次こそこの手を離してはいけない。

 逸る鼓動を鎮めるように深呼吸を2回。目の前に座る彼女の目を真っ直ぐに見る。

「まゆ、いや、春川桜子さん。今度こそ貴女の手で俺の初恋を終わらせてください。貴女と幸せになりたいって思ってもいいですか」

 もともと大きな目が更に大きく見開かれる。

「ようちゃん、貴方となら喜んで」

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