第3話

「でっかい溜息」

 振り返るとショートカットの保健医が立っていた。

「夏木か」

「何が『夏木か』だ。アホ」

 人差し指を眉間にグリグリされる。

「痛い痛い痛い!」

「せっかく美人で優しい夏木先生が、(同じ大学の同期だから仕方なく)心配してやってるのに! 秋田はバカだね」

 心配とか言っておきながら夏木は人差し指に尚も力を込める。

「おいコラ養護教諭、カッコの中身聞こえてるから」

「きゃあこわーい! ぱわはらよー」

「こっちのセリフだよ!?」

 眉間に押し当てられた右手を払い除ける。

 ……腕細くね? どこからあんな力でてくるの??

「放課後とはいえ生徒も通りますよ」

 俺たちの様子を横目に1人の老人が通る。

「校長……!」

「ほほほ。若いっていいですなぁ」

 白髪の老人は俺たちを(生)温かい目で見ながら重厚な校長室の扉の向こうへ消えていった。

「……書類整理しよ」

「そだネ」


 先程の1件は校長のせいで記憶の奥底に。変な気の迷いを起こしかけていたから、これで良かったのかもしれない。

 久しぶりに明日は土曜日なのに休みだー、みたいな謎テンションで来週配布するプリントを作成。

 いつもより早く片付いた。

 パソコンをシャットダウン。デスクの上はお粗末じゃない程度に整理する。

「お疲れ様でしたー、お先に失礼いたします」

 まばらになった教務室の入口付近で挨拶。ついでに時計を確認。

 ──1本早い電車で帰れるな。

「秋田先生、帰り保健室寄ってもらえる?」

 バスケ部の顧問から茶封筒を受け取る。因みに名前は覚えていない。


 玄関脇の保健室は優しい光が灯っていた。

 ノックを3回。

「どうぞー」

 やる気のなさそうな返事がした。

「お届け物でーす」

 顔の前で茶封筒をヒラヒラさせてみた。

「秋田じゃん。今帰り?」

 受け取ってそのままカッターで封を切る。

「そんなとこ」

 夏木女医は中の紙をほぉ、とか言いながら折り畳み、ファイルに挟めた。

「ちょっと待っててよ。飲み行こ?」

「何処? 駅前?」

「もち」

「奢ってくれんの?」

 夏木は3秒ほど目を閉じて迷った挙句「1件目までは」と返事をした。──何件行く予定なんだコイツ。

「いいよ割り勘で」

「秋田は直ぐに潰れるもんねぇ」

 言うほど俺は弱く無い。夏木が飲兵衛なだけである。


 結局俺は潰された。

 駅前の飲み屋街の一角。俺は焼き鳥を食べながらビールのジョッキを煽っていた。

「だからぁ、何で俺は結婚できないんだぁ!」

「今こうやって叫んでるからでしょうね」

 夏木はケラケラと笑う。

「彼女はいないの?」

「いたらお前と飲まねぇよ。みんなさぁ、俺が好きなのは私じゃないって別れるんだよ」

「へぇ」

 相槌を打ちながら、夏木は追加のハイボールを注文した。何杯目か数えるのは随分前に諦めた。

「秋田って浮気性なの?」

「ちゃんと好きだったよ。なのにさぁ、酷いと思うんだよ俺は! お前以外見てねかったさぁ」

 勢いよく焼き鳥を頬張る。ネギまじゃない。皮だぁ。

「あれじゃない? 元カノが忘れられない的な」

「元カノねぇ……」

「毎晩夢に出てくるの、みたいな」

「夢に出てくる子なんて……。いた」

 冬野真雪。最後に会ったのは17年前。

「未練タラタラだね。キモ」

 口悪く詰りながらニヤニヤとした笑みを浮かべる。

「未練って言ってもさ」

「酷い別れ方だったんだろ? お?」

 お代わりのネギまでつつかれる。受け取って食べる。

 瞼の奥で微笑む姿を想像する。何年待っても会うことは叶わない──多分おれの最愛の人。

「死んじゃったんだ」

 夏木のさっきまでのヘラヘラした態度が迷子になる。

「会えないって分かっていても、思い出すのは未練なのかねぇ」

 ジョッキの底数センチのビールを飲む。

「面影を重ねてしまうのは未練なのかねぇ」

 春川桜子。まゆが亡くなった年に生まれた少女。

「今更シアワセになりたいなんて……思っちゃだめなんだろうなぁ、きっと俺は」

 ──なぁ? まゆ。

 ここで記憶は途切れた。

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