第2話

「最近はまゆの夢見てなかったんだけどなぁ」

 今朝の夢を思い出して扉の前で呟く。ネクタイをきっちり締め直して深呼吸。

 よし、と小さく気合いを入れて教室に1歩。

「おはようございます」

 3年1組の教室をぐるりと見回す。

「はじめまして、担任の秋田葉太です。今年1年よろしくお願いします!」

 黒板に名前を書きながら自己紹介をする。担当教科は現代文、文芸部の顧問になったこと、前任校であったこと、この学校に来ることを楽しみにしていたこと……。多分そんな事を話していた。

 どこの担任もやるつまらない自己紹介。まともに聞くヤツなんてほとんど居ない自己紹介。……なのに1人の少女だけは真っ直ぐにずっと俺の目を見ていた。最初は珍しい子だな、と思っていた。どこかで会ったことがあった気がする。でも、誰かは覚えていない。そんな女の子。クラス全員の自己紹介をきいて彼女の名前が“春川桜子”であることが分かった。聞き覚えは無かった。

 ロングホームルームの余った時間で学級の係を決めた。彼女は学級委員になった。クラス投票で選ばれたんだからとても人望があるみたいだ。

 放課後。俺は1日目の学級日誌を書いていた。

 楽しい1年になりますように、早くクラス全員の顔と名前が覚えられるように頑張りたい、みたいな国語教師のクセに文章力に乏しいコメントを書いていた。

 教室で1人だと思っていたら背中をつつかれた。振り向くと少女が立っていた。春川桜子、俺が初めて覚えた3年1組の生徒だ。

「学級委員になりました。春川です。秋田先生、よろしくお願いします」

 にこりと微笑んだ。桜色に頬を染めて。

 ──誰かに似てるんだけどなぁ。誰に似てるかが思い出せないや。

「よろしく、春川さん」

 握っていたボールペンを教卓の上に置き、右手を差し出す。

 彼女は寂しげに眉を下げ、俺の手を握った。よろしくお願いします、と。

 何も覚えていないんですね、と心の中で言われた気分だった。

授業や放課後、何度か彼女と話して気付いたことだ。

 彼女は勉強熱心だ。放課後よく質問に来る。

「先生、ここの記述問題見てもらっていいですか?」

「ああ、いいよ」

 問題文を読んで解答欄の文字と照らし合わせる。

 右肩上がりの綺麗な字。ハネの部分に特徴のある字だ。まゆと同じ書き方をする子だ。

 解答内容を確認しながら頭では毎度別のことを考えてしまう。

「あの……。先生?」

 呼ばれてハッとする。

「あ、はい。全体的に悪くないよ。でも、最後の1文は直した方がいいかな」

 赤ペンでサイドラインを書き込む。

「ここの文章引っ張って来こいばいいですか?」

 問題の文章をシャープペンシルで囲む。確認するようにこちらを向いて小首を傾げる。

「そう……だね」

 ──やっぱり彼女はまゆに似ているんだ。ちょっと訛った言葉遣い、ふとした所作も。

 彼女は俺の動揺なんて他所に黙々と新しい解答を書いてる。

「できました! これでどうですか?」

 自慢げにプリントを見せる。

「ばっちり」

 ──このくらいなら許されるよな。

 頭をポンポンと2回撫でる。

「えへへっ。先生によしよしされました」

 春川さんは桜色の頬をさらに赤く染めた。

「よく頑張りましたのご褒美」

「もう子供じゃないもん」

 ぷくりと頬を膨らませる。

 ──この顔もまゆに似てる。おれと喧嘩してムキになった時の表情と一緒なんだ。

「……先生はわたしといる時、たまに、ほんのちょっとだけ寂しそうに笑いますよね」

 バレないように隠してきたつもりなのに顔に出てしまっていたか……。

「気の所為だよ」

 ほら、もう遅いから、と急かして下校を促す。

 不満げな顔で彼女は「さよなら」と言って帰っていった。

 廊下の奥で彼女の姿が見えなくなるのを確認して、教務室前のパイプ椅子にドカりと腰を下ろした。

「……寂しそう、か」

 無意識にポツリと呟いた。

 あるわけないと心の奥では分かっているけど、1人の生徒に縋ってはダメだと分かっているけど。

「会いに行くから……、なんて」

 廊下の向こうの彼女を想像し溜息をついた。

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