まだ僕は息をしている
湊賀藁友
まだ僕は息をしている
今年も夏が来た。
視界に映る通学途中らしい学生の服はいつの間にか夏服に変わっていて、僕は季節の移り変わりの早さを痛感させられていた。
学校では、教室の一番廊下側の一番後ろの席が僕の居場所だ。
せっかく廊下に近いと言うのに、移動教室以外ではほとんど教室から出ないのでこの席の良さを最大限に活かせず少し勿体ないような気がしないでもないが、僕はこの席が好きだった。
ここからは、色々な物が見える。
授業中真面目にノートをとる男子。いつもはふざけているけれど、実は真面目だ。
少し離れた席にはこっそり手紙を交換している男女。そう言えば付き合ってるって聞いたな。
更にその少し後ろの方には、珍しく船を漕いでいるいつも真面目なクラス委員。先生に見つからないようにね。
そして僕の隣の席には__こちらを見つめる、君。
数秒間まばたきもせずにただじっとこちらを見つめていた君は、先生のチョークが黒板を叩く音で我に返ったように前を向く。
……何だか顔が赤くなったような気がして、誰も見ていないと知りながらも僕は片手の甲で頬のあたりを隠した。
__一瞬だけ、蝉の声を忘れていた。
昼食の時間になっても、僕は一人で教室の中をただ眺めていた。今年で高校二年生になったけれど一緒に食べる相手はいなかったし、特にお腹が空いているわけでもなかったから何か食べたいとも思わなかった。
ふと、クラスの女友達と昼食を摂っている君が視界に映る。
……つい三ヶ月くらい前までは、君の隣は僕の場所だったのになぁ。
僕たちは、付き合っていた。
過去形になってしまったけれど、一度でもそうあれたことが僕にとっては心の支えで、同時に人生を彩った全てだった。
その思い出だけで充分。そう、言えたらどれだけ良かっただろう。
未練たらしくすがり付きたくはなかった。君を縛りたくはなかった。それでも、まだ僕は君が誰かと結ばれるようにとは祈れなかった。
いっそ、醜いと笑ってくれれば良かったのに。
一日の授業が終わった後、帰り際に君の姿を見たから声をかけようとしてやっぱりやめた。
友達と笑い合う君の目はもう、僕の方を見てはいなかった。
……あぁ。蝉の声が、うるさい。
帰ってから
今日あったことを話す母に僕は返事をしない。相槌すらも打たない。
それをまるで気にしていないように、母は柔らかな微笑みを絶やさず僕に語り続けている。
母さん、一週間前よりも顔色が良くなったなぁ。
少しだけ安心しながらそっと目を閉じる。
母の声と蝉の声だけが、世界に響き続けていた。
……夕食を作らなければいけないからだろう、母はそれから二時間程で部屋を出ていった。
その後特にやることもなく退屈になってしまった僕が散歩にでも出かけようかとぼんやり考えていると、軽いノックの音が聞こえてきて、その数秒後に君が部屋へと入ってきた。
__なんで。
そう
「久しぶり。……一度も会いに来なくて、ごめんね」
そうだ、そうだよ。あれから一度だって、君が僕に会いに来ることはなかったのに。
「………………この前、期末考査が終わったよ。点数はそこそこだったかな。皆あんまり良くなかったみたいで結構返却を嫌がってた。
クラスの皆とも馴染んできて、一緒にお昼ご飯を食べる友達も出来たんだ。
それと、クラス委員の山口さんが実は隣のクラスの加藤くんと付き合ってるらしくて皆びっくりしてたなぁ。まぁ、私もびっくりしたけどね。
あ、そう言えば今年の夏は暑いね。日焼けとか嫌だからギリギリまで春用の長袖制服でいようと思ってたのに、耐えられなくてもう半袖着てきちゃった」
「……これだけじゃなくて、まだ沢山話したいことがあるんだよ」
…………。
「お昼だって、本当は貴方と一緒に食べたい」
僕もだよ。
「授業中、こっそり話したりしたい」
一年生の時はよくそうしたもんね。
「
そうだね。
「…………ねぇ、起きてよ……」
……ごめんね。
高校二年生になってすぐ、とある事情で手術を受けることになった。決して成功率の低い手術ではなかった。
全身麻酔をかけられて手術は難なく成功。…………だというのに、それから僕は目覚めなかった。
いつの間にか透けた身体になった僕がはじめに見たものは、泣いている母親だ。
いくら声をかけても返事なんてしてくれなくて、その上『僕』は既に二日間目覚めていないなんて聞いて途方もない絶望感に襲われたことをよく覚えている。
分からないことは苦しかったけれど、人間は慣れるものだ。ただそればかり考えて病室にいることが何となく嫌で、僕は学校に通いはじめた。
__でも、そんな三ヶ月間のただ一度だって君は
「どうして急に」なんて聞こえていない筈の僕の疑問に答えるように、苦しげに君が口を開く。
「いつだって寝て起きて学校に行ったらそこに貴方がいる気がして。
病院に来たら、貴方を見てしまったら、もう自分を誤魔化せないと思って、三ヶ月もここに来られなかったんだよ。……馬鹿、でしょ」
自嘲気味に笑う君に、あぁそういうことだったのかと納得して、同時に少し泣きたくなった。
「何度も、何度も貴方が目覚める夢を見たの。電話がかかってきて、私が病院に走って、扉を開けたら『おはよう』って。こうなる前のまま、ぽやっとした笑い方でこっちを見てるの。
……っ、でも、三ヶ月間起きている貴方に現実で会うことはなくて、もう……誤魔化せないんだなって……!」
溢れる涙を、僕は拭えない。
涙を流す君に、慰めの一つも伝えられない。
あぁ、僕の呼吸は何のために続いているのだろうか。今の僕は何のために存在しているのだろうか。
「……ほんと、馬鹿みたい。泣いたって貴方は起きたりしないのに……」
そう呟いて、君は涙を堪えるように下を向いた。
…………蝉の声は、
前まではそうでもなかったけれど、こうなってからは蝉の声が嫌いになった。
僕がこんな透けた身体じゃなかった時からの季節の変化を伝えてくるというのもあるけれど、一番の理由はそれじゃない。
たった七日間。いつ終わるかも分からない命で足掻くように自らの命を主張し続けるそれが、明日には心臓が止まっているかもしれない、明日には誰かの記憶から消えるのかもしれないと僕に知らせ続けるその声が、目を逸らしたい現実を突き付けてくるようで痛かったのだ。
__僕は残酷だろうか。
目の前で涙を堪える君を見て、ずっとその涙が枯れなければ良いと思ってしまうのだ。
でも、忘れないでほしかった。『思い出』にしないでほしかった。生を意識していてほしかった。
君の中で、死にたくなかった。
と、
「蝉の寿命って、七日じゃないんだって」
タイミングの良すぎる話題に、「え」と出したつもりの声はただの空気として病室に溶ける。
「本当は、一ヶ月以上生きる個体もいるんだってさ。この間新聞で読んでびっくりしちゃった。
いつ死ぬか分からないけど、思ったより長生きすることもあるってことだもんね」
そう言って君は微笑んだ。
気付けば溢れていたそれは、頬を伝って床へと落ちても水滴を残したりはしない。けれど、確かに涙だった。
■
あれから一年が経った。
季節は移り変わり、僕の学年は変わらないまま周りは三年生へと進級した。来年には、君はもうあの学校を卒業していることだろう。
学生が着ていた制服は気付けば冬用から春用に、そして夏用へと変わっていて、いつの間にかまた蝉が鳴き始めていた。けれど、世間の人々はまるで蝉の声を忘れたかのように、聞こえていないかのように生き続けている。
でもきっと、それでいいのだろう。
明日僕は死んでしまうのかもしれない。
もう僕は目覚めないのかもしれない。
入院費を払い続けているであろう家族はいつか僕の目覚めを諦めてしまうかもしれない。
今日ここにいる君は、いつか僕を忘れるのかもしれない。
それでも、今の僕はまだ息をしている。
まだ息をし続けているのだ。
蝉の声が、耳に優しく響き続けている。
まだ僕は息をしている 湊賀藁友 @Ichougayowai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。