第13話 僕は、何者だ?

 花屋からの帰路、僕はおぼつかない足取りで商店街を歩いていた。


『あんたもようやく、孫の……オリバーのこと、乗り越えられたみたいで良かったよ』


 オリバー。

 記憶喪失の振りをして、その名を借りようと思った時には、まさかこんなことになるとは思いもしなかった。まさか実祖母がまだ存命だったとは。よく考えれば、リリーはこれまで、自らの親族を失ったことは語ってくれたが、オリバーの親族がどうなったかまでは明言していなかった。まあ、僕は気にも止めなかったから、言う必要がなかっただけだろうが。

 しかし、おかげでいくつか合点がいった。どうしてリリーがアーニャの面倒を一人で請け負ったのか。どうしてあの二人が、親しい仲なのか。

 親しくて当然だ。将来あの二人は、家族になる間柄だったのだから。疫病なんて無ければ、きっと世界一素敵な一家としてこの街中に知れ渡ったことだろう。

 そう思うと、疫病に対して、これまで感じたことも無いほどの怒りが湧き上がった。大切な人を奪い、悲しみと絶望を届ける疫病の存在が許せない。


 そしてもう一つ。形容しがたい感情が胸中で浮かんでいることに、僕は気付いていた。それはオリバーに対する感情。死してなお、リリーやアーニャに思われているオリバーへの、嫉妬にも似た激情だった。

 今更、思う。前の世界で、僕は今どのような扱いになっているのだろうか。行方不明? そもそも捜索すらされていないのだろうか。少なくとも、誰かが愛を持って行方を捜してくれている姿は浮かばない。事務処理のように、デスクの脇に積まれた書類のように、淡々と捜索され、時期は経てば中止となる。その程度の扱いなのではないだろうか。

 今更確認する術はないが、一度思うと、そうとしか考えられないのは、僕が今このドス黒い感情に支配されている証拠だ。しかし、それ以外の結論を導くのは、今の僕には不可能だった。

 事務処理のように片付けられる僕の存在は何なのだろう。


 僕は一体、何者なのだろう?


 僕とオリバーは、顔も声もそっくりなのだろう。恋仲だったリリーが間違える程に、今日まで誤魔化し通せる程に。

 でも僕は、自分をオリバーだと思ったことは一度だってない。それは僕がオリバーでないことの証明。


 僕はオリバーではないのだ。どうして、僕はオリバーではないのだ。


 舌打ちをすると、隣に立っていた男が驚いた様子を見せた。接客だろうか? 商売熱心なことだ。僕はそれが酷くイラついた。


「何か?」


「何かとはつれねえな」


 苛立ちを隠さず言ったのに、男は飄々としていた。見れば、いつかの魚屋の店員だ。


「何にそんなイラついてたんだ。女か?」


 馴れ馴れしい店員に、苛立ちを隠せなかった。「違う。関係ないだろう」


「いいや。あるね」


「何?」


「あんた、今日は金持ってるのかい」


「金?」


 持ち合わせはある。夕食の材料調達をリリーに指示されていた。財布の紐は彼女が握っているので、いくらか小遣いを頂戴していた。


「あるけど、それが?」


「今度は金を持ってくるって言ってたよな。なんか買ってけ」


 なんだそれは。横暴すぎる。反論しようとしたが、力強く肩を掴まれて、反論の言葉を胸にしまった。長いものには巻かれろ。


「買ってけよ、な?」


「わかった、わかったよ。肩を離せ。痛いから」


「これは失礼」そう言って男は、自らの店の前に僕を促した。


 少しの生臭さと新鮮そうな魚が並んでいる。どれも焼けば美味しそうだ。今日は焼き魚でも作ってもらおうか。

 そこまで決めて、僕は何を買うか決めあぐねた。一体、焼いてうまい魚はどれだ。

 店主に話を聞こうと横を向くと、店主は僕の顔を覗き込むように見ていた。驚いて、僕は飛びのく。


「な、なんだよ」


「いやあ、お前どっかで見たことあるなって思ってさ。どこだったかなあ」


 まずい。そう思った僕は、被っていたベレー帽を目深に被った。もう足元しか見えない。


「なあ、その帽子取ってくれよ」


「無理だ。薄いんだよ。察しろ」


 何がとは言わなかったが、店主は察したようだ。


「それはすまんことをお願いした」


 今まで一番真面目な謝罪だった。腹立たしい。本当に薄かったらもっと腹が立ったのだろう。


「で、どうかしたか?」


「ああ、焼き魚にするのに一番いい魚はどれだい」


「おお。それなら--」


 ……この店主とのやり取りで、察する。多分店主が僕の顔を見て思い出したのは、オリバーのことだろう。本当に、悔しい。どうして僕はオリバーのようになれなかったのだろうか、と。

 いっそ帽子を取って、高らかに宣言しようか。

 僕はオリバーだ、と。


 そこまで開き直って、僕は何も行動を起こすことは出来なかった。だって僕はオリバーではないのだから。そんな嘘を無闇について、何になる。


「これとかいいぞ。って聞いてたのか?」


「ん? ああ、聞いてなかった。じゃあそれにするよ」


「何? 聞いてなかったのか。まあ、買うならいいけどよ」

 

 店主は不満そうに金を受け取った。魚を袋に入れてくれて、僕はそれを受け取った。


「ん? あれ、アーニャばあちゃんじゃないか」


 魚を受け取り、ホッと一息ついた時、店主が街路でアーニャを見つけて呼び止めた。

 やばい。僕はもう一度、ベレー帽を深く被った。


「おお、ランディー。元気かい」


「それはこっちの台詞だ。あとどれくらいだ?」


「七日くらいだよ。今まで世話になったね」


「いいや、こっちこそ贔屓にしてくれてありがとうな」


 爽やかに最後の挨拶を交わす二人に対して、僕は背中の汗が止まらなくなっていた。ベレー帽を握る手にも、汗が伝う。


「ん? あんた、リリーの男じゃないかい?」


 隣でベレー帽を掴む僕に、あろうことかアーニャは気付いてしまった。


「え、お前が噂の?」


 魚屋の店主こと、ランディーの声が騒がしくてしょうがない。しかし、僕は何も言葉を発しなかった。声色でオリバーに似ていることがこの老婆に気付かれたらたまったもんじゃない。


「ふん、愛想が悪いね」


 何も言わない僕に、老婆は不機嫌そうだった。


「帽子もそんなに深く被って、そんなにやましい頭なのかい」


「おい、ばあちゃん。それだけは止めてやってくれ」


「え……。すまなかったね。言い過ぎちまったよ」


 この街の住民、ハゲに対しての扱いが優しい。だから余計に腹が立つのは気のせいだろうか。


「にしても、本当に愛想がないね。何でリリーもこんな男を選んだんだか」


 そりゃ、オリバーに似ていたからだよ、とは言えなかった。


「私だったらこんなつまんない男選びやしないんだがねえ」


 こっちもそんなものに興味はない。と言ってやりたかったが、出来なかった。

 反論することが出来ない僕は、老婆の口を遮れず、老婆は留まることなく矢継ぎ早に世間話を始めた。この辺は前の世界の主婦と変わらないのか、中々に話の終わりは見えない。

 見れば、終わることのない世間話にランディーも苦笑している。何とかしれくれと視線で懇願するが、彼は首を横に振って無理だと告げた。

 

「あれ、アーニャおばちゃん」


 そこへ助け舟が舞い降りた。リリーだ。花屋の戸締りを終えて、追いついてきたみたいだ。


「何だか賑やかだね」


 暢気なこと言ってないで、助けてくれ。視線を送るが、意図は通じなかったらしい。

 可愛らしく小首をかしげていた。


「おいリリー。こんな男止めといたほうがいいんじゃないかい?」


 アーニャは余計なお世話をリリーに言った。


「無愛想だし面白くもないじゃないかい」


 言いすぎ、と強く言えないことが情けない。

 まあ、終われば何でもいいや。諦めたようなため息を僕は吐いた。

 リリーは僕とアーニャの顔を交互に眺めた。


「ううん。私はこの人がいいの」


 リリーは微笑みながら言った。

 心臓が高鳴る。何故、そんな笑顔でそんなことが言えるのか。僕には到底真似できない。

 

「ほら、そろそろ家に戻ろう? アーニャおばあちゃん」


 リリーは話題をぶつ切りにして、アーニャの背中を押した。そして、僕の手を握る。


「傍まで送ってって」


「え?」


「女の子二人で夜道を歩かせる気?」


「気が利かない男だね」


 やれやれ、とアーニャは肩を竦めた。

 一発殴ってやりたい気持ちだった。


 僕達は商店街を歩いた。先頭に老婆が歩き、後ろを僕達が追っている。

 商店街は、やはりどこか活気がない。昔は違ったのだろうなと思った。


「へえ、魚買ったんだ」


「え。ああ。焼き魚食べたいと思って」


「そっか。うん。いいね」


 どうやらお気に召してもらえたらしい。何だか嬉しくなる。


「あんた達、私がいることも忘れないでおくれよ」


 老婆から悪態を頂く。何だか嬉しくなくなる。


「勿論覚えているよ。おばあちゃん、夕飯は?」


「キャロルのレストランで頂いたよ。後七日って言ったら、タダになった」


「がめつい」


 思わず声に出ていた。


「煩い男は嫌われるよ」


 へいへい。

 それにしても、声色だけだと意外とばれないようだ。まあ、一年以上は聞いていないはずの声だし、すぐに認識出来ないだけかもしれない。


「ま、あんたはこれから大丈夫そうだね」


 老婆の言葉に、僕達は顔を見合わせた。どちらの向けた言葉だろうか、と。僕はリリーを指差した。リリーは驚いた顔をしていたが、驚くことは何もない。僕と老婆は、今日が初対面だ。


「あんた、リリーを幸せにしないと、怒るからね。孫のオリバーの分まで」


 僕は何も答えない。はい、と手放しに言えるほど、僕達の関係は純情ではない。

 リリーは不服そうな顔をしなかった。記憶喪失の僕が、突然の言葉に戸惑うのも無理はないと思ってくれたのだろう。


「本当、幸せになることが難しい世の中なんだから。一分一秒を大切にしなよ」


 老婆の金言と思って聞いておこう。


「ま、長く時を過ごせばいいってこともないけどね」


「え?」


「ずっと思ってたんだ。どうして私が一番じゃないんだって。娘の旦那に、娘に、孫……。先立たれて思ったよ。どうして疫病は、真っ先に私の命を奪わなかったんだって。老い先短い私を何故生かして、未来溢れる娘達の命を先に奪うんだって」


『残される側って、それだけで辛いから、かな』


 いつか、リリーも言っていた。残される側の辛さ。確かに、腹を痛めて産んだ子やその孫の死は、老婆にとってとても深い傷となっただろう。哀愁漂う老婆の言葉に、今更僕はそのことに気がついた。


「でもね、ようやく逝ける」


 老婆の本性は、今の姿。世間話好きで下世話好きな、まさしくその辺にいる主婦のような人間だ。その老婆を変貌させてしまうほどの絶望。考えるだけで胸が痛む。

 そして今、その絶望から開放される老婆の声は、先ほどと打って変わって清清しそうだった。


「まあ一つだけ残念なのは、リリー。あんたの晴れ姿を見れないことかな」


「おばあちゃん……」


「幸せになるんだよ」


 しんみりとした空気の中、老婆の家にたどり着いた。

 僕はやりもしない夕飯の仕込をするからと言って、上がっていけとうるさい老婆を振り切って、一足先に家に帰った。

 

『残される側って、それだけで辛いから、かな』


 いつかリリーが言っていた言葉が、脳で何度も反芻された。その通りだ。あの老婆も、元は優しい人だったのだろう。毒祖母、と思うほどに変貌したのは、疫病により家族を失ったから。

 悔やんでも悔やみきれなかったのだろう。誰かに当たらねば生きていくことすら辛かったのだろう。


「リリーも。あのばあちゃんもそうだ」


 いつの間にか呟いていた。

 リリーも、アーニャも。優しい人ほど、この疫病で心を病む。優しい人ほど、この疫病で不幸になる。

 

「何かしてあげられないかな」


 もうすぐこの世を去るあの老婆に。

 苦しみ、絶望し、心を病んだこともあったあの老婆に。

 僕は何かをしてあげることは出来ないのだろうか。

 最後に何か救いを差し伸べてやることは出来ないのだろうか。


 ……あるでは、ないか。


「僕は、何者だ?」


 家で、鏡に向かい問うた。


「……僕は、何者だ?」


 決意は、固まった。

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