5 三十路の飲んだくれ

「ただいまぁ~」


 後ろ手で鍵を閉めながら理央は異変に気付いた。いつもならスリッパをパタパタさせながら紗綾子がやってくるものだが、今日はお帰りのひと言も返って来ない。


 ――紗綾子さん、露骨に機嫌悪いな。


 機嫌が悪い理由はひとつしかない。ヤナと楽しげにしていた。これだけである。だが、機嫌が悪い割にはいつものように、玄関マットの上にタオルとクーラボックスが置いてある。中にはスポーツドリンクと経口ゼリーと、理央の好きな個包装の紀州の南高梅が2粒入っていた。その横には洗濯かごがあり、洗濯ネットもご丁寧にフチに引っかけてある。

 用意周到な抗議に、理央は笑ってしまいそうになった。


 ――日本一かわいい三十路だなぁ。


 いつものように荷物を降ろし、玄関先で脱衣し始める。急な来客を気にかけつつ下着姿になると、500ミリリットルのスポーツドリンクを、ペットボトルがベコベコになる勢いで飲み干し、梅干しも食べつつ経口ゼリーも一気に吸いきった。

 タオルを首にかけ、ジャージやら何やら詰めた洗濯かごとリュックを手に、まずは脱衣所に洗濯かごを置き、自室のベッドへ向かって廊下からリュックを投げ入れた。このまま風呂に直行してもよかったのだが、少し紗綾子の様子が気になってリビングのドアを開けた。


「紗綾子さん、それはダメだよ!」


 理央は条件反射的に注意を飛ばしていた。透明のタッパーに赤くて丸い粒がぎっしり詰まっている。そこに紗綾子はスプーンを突っ込み、ひと口食べるごとにウォッカをショットグラスであおっていた。


「なんでぇ~? どー飲もーと私の勝手でしょ~?」


 呂律がなかなか怪しい。理央もちゃんと確認したわけじゃないが、球場だけでビールを20杯以上は飲み、帰宅してからもウォッカの空き瓶が1本転がっている。

 このことから普段はザルに近い紗綾子が、今はだいぶ酔っ払っている。ヤナと親しくしていただけでこうなってしまう。それだけで嫉妬の炎が燃え盛り、普段の優しい紗綾子は炎に焼かれていた。そして、他人にはまったく見せない負の面が剥き出しになってしまうのだ。

 理央は苛立ちを覚えた。いくら言っても同居人の悪癖が直らず、しかも直そうともしないことに。


「あたし言ったよね? 今度、ネットに転がってるロシアのおじさんみたいな飲み方をしたら怒るよって。嫌なことがあったら、イクラとウォッカに逃げるのはやめようよ。食べ過ぎ飲み過ぎは体によくないから。あとさ、言いたいことはシラフで言おうって、約束したよね?」

「あれ~? そうだったっけ~? 逆に前に言ったかもしれないけど~、ロシアの血が入ってるから~、悲しいときはウォッカに限るのよ~」

「高血圧、高脂血症、肥満、脂肪肝、膵炎(すいえん)、痛風、糖尿病!」

「大丈夫~。女性は痛風にならないってゆーから~」

「なるリスクが低いってだけで、なるときはなるよ」

「あら~、そーなの~」

「それとね、食べた物の栄養が胸にばっかり肉が行くと思ったら、大間違いだからね! 紗綾子さんの場合、お腹にもつきやすいんだから!」


 紗綾子が自分の腹をつまみながら動揺した。


「で、でも、理央ちゃんはお腹をよくイジるじゃない~。胸より揉んでるよ~?」

「あれは少しでも痩せるように揉んでるの。愛撫とかそういうのは一切ないから。ある程度メリハリつけないと、お気に入りの服も着れなくなるよ! まだ三十路になったばかりだってのに、おばちゃんみたいな服だけを着て残りの人生を生きたいの!?」


 紗綾子は首を横にブンブン振った。


「絶対イヤっ」

「そうだよね。嫌だよね」


 ようやく理央は口元を緩めた。責められ続けて泣きそうな紗綾子の頬とのどにキスをし、頭を撫でた。


「あたし、お風呂に入ってくるから。お酒はもう今日はこの辺にして、早くシラフモードになってね」




 * * *




「いただきます」

「どうぞ、召し上がれ。今日は魚介三昧にしてみました♪」


 海鮮丼、ブイヤベース、タコのカルパッチョ、シーザーサラダなどが食卓に並んでいる。


「おいしい……幸せ……」


 誇張抜きで頬が落ちそうな理央に、紗綾子が我が子を見るような目で見守っている。


「どんどん食べて。食べて体の疲れを吹き飛ばそうね♡」

「たびたび思うんだけど、酔ってたのって演技?」

「違う違う。あれも本当の私。代々伝わる酔い覚ましがあるのよ」

「大劇薬だよね、絶対」

「ご所望であれば、いつでも作ってあげるわよ♡」

「いや、酔い潰れるまで飲まないし」

「えぇー、たまには介抱してあげたいよ」


 おかしくなってふたりとも声を上げて笑う。ひとしきり笑ったのち、理央は優し気なまなざしで紗綾子を見つめた。


「ね、話は変わるけどさ、紗綾子さんのえらい……いや、すごいのは、ケンカしても機嫌が悪くても料理を作っておいてくれるところだよ。普通の人ならカップ麺やレトルトでも食べてろ! って感じによほどのことがない限り、作らないって」


 紗綾子もまた慈愛に満ちた表情を浮かべた。


「ケンカや諍(いさか)いなんかの個人的な争いはともかく、一生懸命働いたり勉強して帰ってきてるもの。家に帰って来て食べる物がなんにもなかったら嫌でしょ? 作らない、用意しないのはその人を大事な人と捉えてないようなもの。感情を抜きにして考えなきゃいけない部分ね。

 私たちはお互いが支え合って暮らしてるんだからね。まあ、これは私の持論だから、理央ちゃんがぷっつんしたら、作らなかったり、用意しなくてもいいのよ?」

「いやいや、そんな話を聞いたら用意しなきゃダメじゃん。あたしももっと大人になります」

「理央ちゃんは充分大人よ。私が精神的にまだまだ子どもな部分が強いだけ」

「そうかなー?」

「そうよ~。だから今日はゆっくりまったり過ごしましょ。ねっ、理央お嬢様♡」


 紗綾子がお願いするように手を合わせウィンクし、小首をかしげる。


「紗綾子さん、それ反則……」


 理央は顔を赤くして顔を両手で覆うのだった。




 終

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真夏の野球観戦とふたりの日々 ふり @tekitouabout

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