◆Episode.8 終わり、そして始まり◆


 私立鈴蘭高等学校に改めて平穏が訪れてから、数日が経とうとしていた。

 筒香は補導対象となったのか、教室に姿を見せることはなくなった。市村も、第二書庫で理宮の前で泣き崩れたのを見たのが最後だ。

 あのあと筒香は、何も言わずに第二書庫から走り去った。市村は筒香が自死でもするのではないかと思ったが、理宮にそう伝えると。

「なぁに、そんなことするほどの度胸はないさ。次の女を見つけるくらいはするかもしれないけどね」

 などと言うのだった。

 そして今日も、市村は通常通りの授業を受けている。

 しかし、頭がぼんやりして授業の内容がうまく頭に入ってこない。このところ、ずっとそのような状態だった。このままでは成績が下がるのではないかとびくびくしていたが、実際はそんなことはなく、成績もテストの点数も横ばいだった。

(理宮さんって、本当に何者なんだろう)

 ノートに適当な落書きをしながら、市村は考える。

(そもそも『第二書庫の魔女』って何なんだ? あの人があそこにいる意味は? どうして俺のことを知っていた?)

 何度も、理宮のことについて考察する。だがこれといった結論は出ず、全ては市村の推論にすぎない。

「おし、じゃあ授業を終わるぞー。次の時間は自習だったな。勉学に励めよ」

 教師の顔を、市村はよく覚えていない。

 もしくは、うまく認識できない。

 誰かの顔を思い出そうとすると、一部の生徒を除いて、ほとんど全員の顔が判を押したかのように同じに見えてしまう。

 それが異常なことであり、市村の記憶の忘失と混濁によるものだということに、市村自身、なんとなく察しはついていた。

(いいや、理宮さんとこ行こう)

 自習時間はどこにいても良いことになっている。教室で大人しく過ごす生徒もいれば図書室に足を延ばす生徒もいる。市村は、こういった空き時間にはできるだけ理宮のもとを訪れることにしている。

 今日も御多分に漏れず、スクールバックを肩にかけて教室を出た。

 市村が第二書庫に行くと、理宮は必ずそこにいる。どの時間でも、いつ訪れても、必ずいつもの場所にいる。

 第二書庫の窓際、背の低い本棚の上に脚を組んで座り、市村やその他の客人か来るのを今か今かと待ち構えているのだ。

 今日もいつもと同じく、市村は第二書庫の扉を二回ノックしてから開ける。

「失礼しまーす」

「ああ、市村くんか。よかったよかった、ちょうど退屈をしていたのだよ。君が来なければ間もなく退屈で死んでしまうところだった」

「はぁ、退屈で死んでたら俺なんか何回、死んでてもおかしくないと思いますけど」

「うん? 君はそんなに毎日、退屈な日々を過ごしているのかい。それは大変だねえ。そういうときは僕のもとへ来たまえよ。面白おかしく実に楽しく会話でもしようじゃないか」

「……はぁ」

 理宮の言葉にどう返したものかわからなくなった市村は、適当に返事をしながらスクールバッグを東側の机に置く。

「ていうか、理宮さんって本当にこの部屋から出ないんですね。いつ寮に帰ってるんですか」

「寮ねえ、寮か。あそこも嫌いじゃないよ。僕という人間を受け入れてくれる貴重な場所のひとつだからね。もちろん帰っているとも。学校の完全下校時間ぎりぎりの、ほんの直前にね。その時間が一番、人通りが少ないのさ」

「そういや対人恐怖だのパニック障害だの持っていましたね……って、それもしかして朝もめちゃくちゃ早いんじゃありませんよね」

「無論、早いに決まってるだろう。朝早く、部活で朝練を始める連中が来る前に登校さ」

「六時半くらいじゃないですか、それ」

「そうだね。そのくらいになるかな」

「そいつはまた殊勝なことで」

 言って、市村は椅子に腰かける。何をしてこの時間を過ごそうか、と考えていると、理宮が先に口を開いた。

「この間の思考実験なのだけれどね」

「思考実験……ああ、あのひよこの、ですね」

「そう。あれには正解があるのだ」

「え」

 耳を疑うような言葉に、市村は驚きを隠せない。思考実験といっているのに、もしかしたら本当にひよこをすりつぶした人間がいるのかもしれない。そうだとしてもおかしくないか、と結論を出したものの、思考実験に正解があるとは思っていなかった。

「何だい、何だい。思い切り驚いているようじゃないか。そんな風な顔をしなくても実験に結果はつきものだろう? この思考実験もその例にならっただけさ」

「はぁ、そうだとしても」

 市村はつい昨日の寮での食事を思い出す。ちょうど、鶏そぼろと卵そぼろのどんぶりが食卓に上ったばかりだ。寮での食事と思考実験が市村の頭の中で結びつき、胸のあたりがむかむかした。

「あんまり思い出したくなかったです……で、正解って何なんです?」

「ふむ、君もやはり人間。疑問の向こう側が知りたくなるというわけか。良いね、良いよ。その姿は素晴らしい。称賛に値するよ」

「そりゃどうも。で、話を進めてくださいよ」

「ああ、そうだったそうだった。この実験を考えた残虐な人物はポール・ワイスというのだがね。彼はこの実験で失われるものは倫理でも何でもない。〈生きているための機能〉が失われた。それだけなのさ」

「それだけ、って……命、ってことですか?」

「命なんて重いものじゃあないよ。生き返れなくなっただけだ。何をもってしても二度と動くことはなくなった。その液体だかひき肉だかわからない得体のしれないひよこのなれの果てに、意思や魂があったとしても、もとの形に戻ることは出来ない。不可逆変化だ。それをポール・ワイスは示してみせたのだ」

 流暢に理宮は語る。

「そこに倫理や感情は必要ない。そこに慈悲や哀情は要らない。あるのは結果だけだ。実験を挟むことで結論付けられた正解というのは、そんな風情のないものなのだ」

 理宮は、ひよこの命のことを風情と表現した。それを、市村はどこかで嫌悪した。どうしてこの人はこんなことを言えるのか、まして、感情は要らないなどと言い放つことができるのか。

 市村は理宮にひとつ説教でもしてやろうと、椅子から立ち上がった。

「あのねえ、理宮さん」

 一歩、理宮に近づいたときだった。

 理宮の表情が、酷く悲しそうなものであることに気が付いた。

 あんなに流暢に倫理も感情も必要がないとのたまいながら、言った当人が一番、悲しそうな表情をしている。

 矛盾、なのか。

 市村は考えたが、相反するふたつの理宮の神経の末、こんな表情をする原因がわからない。


またひとり


 理宮の唇が、そう動いたような気がした。

「理宮、さん?」

 唇から漏れた理宮の言葉はまるで吐息のようで、声というにはあまりにもか細すぎた。

 瞳を潤ませる理宮に、もう一歩、市村は近づく。何か声を掛けなければいけない、と思った。どうにか理宮を笑顔にしなくてはならないと思った。それしか思えなかった。

 どう行動したらよいかはわからない。だが、理宮のことを助けてあげないといけない。そんな使命感が市村の中にあった。

「理宮さん、あの」

 そっと、市村が理宮の表情を覗き込んだ。次の瞬間。

「いってっ!」

 市村は理宮から攻撃をくらった。思わず目をつぶった。何が起こったのか、と市村は状況を把握する。

 理宮の細く白い、美しいとさえいえる真っ直ぐな指が、市村の額を突き飛ばしたのだった。

「何するんすか!? 俺なんか悪いことしました!?」

「何とは何だね。急に立ち上がってこっちに来たからセクハラでもするんじゃないかと思って撃退しただけだ」

「とんだ濡れ衣だ!」

 理宮の困惑する市村を見る瞳は――にやにやと、おとぎ話に出てくる意地悪な猫のようだ。

 ああ、〈いつも〉の表情だ。市村は、その顔に安心する。

(理宮さんは、笑顔でいなくちゃ。俺が、そうさせていなくちゃ――あれ)

 そこで、市村は気づく。どうして市村がは理宮の笑顔を保たなくてはならないのか。

(どうして、だっけ)

 ずきん。それを思うと、頭痛がする。二種類の痛みに市村が顔を歪めていると、理宮が笑った。

「あははっ、市村くん。おでこが赤くなってるぜ」

「そりゃあんたが攻撃したからでしょっ」

 楽しそうに、理宮は笑う。その笑顔を壊したくなかった。記憶が無いはずなのに、どこか懐かしくさえ感じる理宮の笑顔を失うのが怖かった。

 もし、何が起ころうとも。市村は理宮のことを守るのだ。

 そう考えらえることが幸せなのだと、市村はまだ、気づかない。



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