【ダイジェスト版】風が伝えた愛の歌

鬼無里 涼

前編

 ――まるで海だ――


 青年は高い山の斜面から地上を見下ろした。樹海とはよく言ったものである。昼までに峠を越えられたはいいが、この深い樹海を夜に彷徨さまようのは避けたほうが良いだろう。しかし日が落ちる前に、この山だけは下っておきたい。青年は急ぎ足で山を降りていった。


 だいぶ山を下ったところで、青年は不意に斜面から風を感じた。よく見ると木々の向こうに、小さな洞穴の入り口が口を開けている。小さいといっても、人が一人立って通れるくらいの大きさは充分にある。

 青年はその洞穴に近づいた。入り口付近に生き物の気配は感じない。内部をのぞいてみると、割と広そうだ。

 念のため彼は近くにあった針葉樹の枯葉や皮や枝を集めて即席の松明を作り、手早く火をつけて洞穴の中に入っていった。


 洞穴の中は適度に広い。一見奥行きはそれほどなさそうだが、奥からそよぐ風を感じる。そして足下は乾いている。これならば中で火を焚いても窒息することもないだろうし、突然の風雨に見舞われたとしても問題なくしのぐことができるだろう。

 日もだいぶ傾いてきた。青年はここを今夜のねぐらと定め、松明を入り口の光が届く辺りで岩の隙間に差し込むと、たきぎを集めるため外へと出ていった。


 一晩細々と火を灯せるだけの薪を集めると、青年は洞穴に戻ってきた。すると、洞穴の中から微かに聞こえてくる音がある。耳を澄ますと、何か旋律を口ずさむような、人の声だ。青年は薪をいったん足下に置くと、剣のつかに手をかけた。


「そこに誰かいるのか?」


 青年の誰何すいかの声に、歌うような声が止んだ。小さな足音が入り口にパタパタと近づいてくる。青年は身構えた。


「あ、よかった、人だぁ!」


 小さな人影が駆け出してくる。まだ幼い、少女だ。


「あたしメラニーっていうの。おにいちゃんは?」


 呆気にとられて固まっていた青年は、少女の問いかけで我に返った。構えを解き、剣の柄から手を放す。


「俺はショーンという。君はどうしてこんなところに? 一人か?」

「うん、ひとりだよ。おひるねしてたらいつの間にかここにいたの」

「親は? 仲間はいないのか?」

「おとうさまもおかあさまも、おともだちも天にいるよ」


 少女はにっこりと答えた。


「でね、あたしはあたしをかえしてくれる人をさがしてるんだ」


 青年はひざまずき、少女に視線を合わせた。


「帰るあてはあるのか?」

「うん、あるよ」

「そうか。ならば俺がここから一番近い人里まで送ってやろう」


 少女は少し怪訝けげんそうな顔をした。


「うーん、そうじゃなくて⋯⋯」

「俺の旅には危険が伴う。悪いが、俺はそこまでしか送ってやれない。今日はもうすぐ日も暮れる。夜は危険だ。明日の朝、日が昇るまでは動けない。今宵はここで一緒に休んでもらうが、いいか?」

「うん、わかった!」


 少女はにっこりと微笑んだ。


 二人は洞穴に入った。ショーンは手近にあった石で手早くかまどを作り、置いていった松明を種火にして火を起こした。メラニーがそれを見ながらそばではしゃいでいる。

 作業の手を休めずに、ショーンはぽつりと言った。


「さっきは、すまなかった」


 メラニーがきょとんとしてショーンの背中をみつめた。


「ん? なんのこと?」

「いや⋯⋯不用意なことをいた」


 メラニーが首をかしげる。


「なんかあったっけ?」

「いや、覚えていないならいい」


 メラニーはしばらくうーんと唸りながら歩いていたが、吹っ切れたようにポンと手を叩いた。


「うん、だいじょうぶ。あたしはなにも悪く思わなかったよ!」


 メラニーはくるりと回ってショーンに笑顔を向けた。と、そのとき。


 ぐ~きゅるるぅ~⋯⋯


 メラニーのおなかの虫が鳴いた。まるでそれを見計らったかのように、ショーンは椀を差し出した。


「干し肉とこの山の野草で作ったスープだ。味は保証しないが、腹の足しにはなるだろう」


 メラニーの瞳が輝いた。


「ありがとう。いただきまーす!」


 椀を受け取った少女は、一口食べるなり感動の声を上げた。


「おいしい! おにいちゃんはなんでもじょうずなんだね。すごーい!」

「焦って食べると火傷する。気をつけろ。」


 ショーンはそう言いながら、顔が火照るのを感じた。平静を装いながら、彼は夢中で食べ続ける少女から視線を外した。


「それを食べたら、今夜はしっかり休め。明日は早い。決して短くはない旅になる」


「はーおいしかった! ごちそうさまでした」


 満足気なメラニーから椀を受け取ると、ショーンは残りのスープを椀に注ぎ、飲み干した。滋味が全身に染み渡る。そういえば、朝から何も食べていなかった。


「ねぇおにいちゃん、おにいちゃんはなんで旅をしているの?」


 メラニーは無邪気に訊いた。その瞬間、ショーンの顔から表情が消えた。


「考えたことがなかった⋯⋯俺は⋯⋯答えを探しているのか⋯⋯」


 しばしの沈黙のあと、彼はぽつりと言った。


「こたえ?」


 メラニーは首をかしげてショーンを見た。何かを考え込んでいるような彼を見て、触れてはいけないことに触れてしまったかと少女が後悔しだしたとき、ショーンは静かに語り始めた。



「俺は精霊たちの村に生まれ育った。父は人間、母は精霊。つまり混血だ。しかし村の者たちは、分け隔てなく俺を育ててくれた」


 蘇る遠い記憶。


「俺はよく、村の子ども達と神殿に遊びに行った。神殿と言っても小さな社を神官が二・三人で守っている、ささやかなものだ。そこには小さな女神像がまつられていて、その腕には美しい腕輪がはまっていた」


 メラニーは引き込まれるように話を聞いている。ショーンは訥々とつとつと話を続けた。


「ある日、いつものように神殿に行くと、誰かに呼ばれたような気がした。最初は気のせいかと思ったが、女神像の前を通りかかった時、今度ははっきりと名を呼ばれた。だが周りには誰もいない。おかしいと思って周りを見回すと、急に女神像が眩く光り輝いて⋯⋯気づいたらこの腕に腕輪が嵌っていた」


 そう言いながらショーンは左腕に視線を落とした。メラニーもつられてその腕輪を見た。


「きれい⋯⋯」


 その優美さにメラニーは思わず感嘆の声を上げた。


「しかし、それがすべての始まりだった。突然村に黒いローブの男が現れ、腕輪を探して神殿にやってきた。俺は神官達に連れられて神殿の奥にかくまわれた。神官達は、この腕輪は世が乱れるとき、女神が相応しい者を選んで授けるもので、世界を救う力を秘めていると話してくれた。神官長が男と何か話をしていたが、突然火の球が上空に現れたと思うと、村に無数の炎の雨を降らせた。村が、人が、次々と焼かれていく。俺は動けなかった。とうとう男に見つかったときも、心がすくんで動けない俺を、精霊達が命がけで守り、安全な場所まで飛ばしてくれた。目の前でたくさんの者が傷つき死んでいったのに、あの時俺は何もできなかった。できなかったんだ⋯⋯」


 ショーンはあくまでも静かに語り続ける。


「あてもなく旅をしながら、俺は探している。何故女神は俺を選んだのか。事故や災害、それに戦……もしそれらが神々によって選ばれて起こされたものならば、何故神々はそれを選んだのか。そして、救うとは何か。人が人を救うなんてことが出来るのか。ましてや世界なんて大きなものを、この手でどうやって救えというのか⋯⋯」


 穏やかな声の中に垣間見える熱さ。メラニーは何も言えず、ただ青年を見つめ続けた。


「答えはまだ見つからない。焦ったところで見つかるものでもない。だから今は、ただ強くなりたい。もうこれ以上、目の前で大切なものを失わずに済むように、強く⋯⋯」

「もういい、もういいよ!」


 メラニーは目に涙を浮かべながらさえぎった。そしてショーンに駆け寄ると、背中をぎゅっと抱きしめた。


「ごめんなさい。おにいちゃんの心がこんなに泣いてる」


 ショーンは驚いたように一瞬目を見開いた。ふっと体の力を抜くと、少女の手にそっと自分の手を重ねた。

「すまない。こんなこと、今まで誰にも話したことがなかったのに⋯⋯つい語りすぎた。ありがとう。もう乗り越えた。俺なら大丈夫だ。だから⋯⋯もう泣くな」


 少女の手がゆるむ。


「さあ、もう日が暮れた。そろそろ休め。明日は早いぞ」

「うん」


 メラニーはショーンの背中から離れると、平らな岩の傍らに座った。そこにショーンは外したマントをふわりと掛けてやる。


「毛布は持ち歩いていないからな。これで我慢してくれ」


 少女はそれにくるまるとにっこり微笑んだ。


「ありがとう、とってもあったかいよ。おやすみなさい」


 ものの数分で、小さな寝息が聞こえてきた。青年は安堵したようにひとつ息をつくと、薪を一本火にくべた。



 どのくらいの時間が経ったであろう。突然、洞穴を吹く風の色が変わった。ショーンは外していた剣を手に取ると、メラニーを起こさないよう静かに洞穴の入り口に向かった。

 洞穴の外を窺うと、月明かりに仄かに照らされた人影がひとつ。黒いローブを身にまとった、男の姿だ。ショーンはゆっくりと洞穴の外に出た。


「お久しぶりです。すっかりいい青年になられましたね」


 ショーンの姿に気づくと、男が先に声をかけてきた。


「お前は、まさかあの時の⋯⋯」

「おや、覚えていてくださるとは光栄です。あの時あなたはまだ少年でしたね。探すのにこんなに時間がかかってしまった」


 ショーンは全身の血がたぎるのを感じた。はやる心を必死に抑え、静かに問う。


「お前は何者だ。俺に何の用がある」


 ローブの男はフードを脱いで、うやうやしく一礼した。


「わが名はキース。主の命を受け、あなたをお迎えに参上いたしました。」

「お前が欲しいのは、この腕輪だろう?」


 キースと名乗った男は、微笑みで返した。


「ええ。でも私には、その腕輪の力は使えない。だからあなたに同行していただきたいのですよ、ショーンさん」

「嫌だと言ったら?」


 ショーンの言葉にキースは小さくかぶりを振った。


「やれやれ、できれば手荒な真似はしたくなかったのですが⋯⋯」


 ――ズキン!


 突然ショーンの頭を激しい痛みが襲った。反射的にショーンの右手がこめかみ辺りを押さえる。


「くっ⋯⋯貴⋯⋯様、何をっ!」


 キースはふわりと微笑んだ。


「あなたの意志で来ていただけないのなら、あなたの意志を消すまで。ほら、あまり抵抗すると廃人になってしまいますよ」


 ショーンは立ち続けることが出来ず、ガクリと地面に膝を突いた。頭痛はどんどん激しさを増す。キースは不敵な笑みでショーンを見ている。


――頭が、割れる――


 ショーンは左手で地面を、右手で額をそれぞれ鷲掴わしづかみにするように掴んでもだえた。だんだん何も考えられなくなってくる。更に激しさを増す痛みに、意識が朦朧もうろうとしてくる。


――これは、まずい――


「ぐ⋯⋯う⋯⋯あぁっ!」


 必死にこらえていた苦悶くもんの声がショーンの喉の奥かられる。両手で頭を抱えて仰け反ったかと思うと、ショーンはとうとう倒れ込んだ。倒れてもなお必死に抗い、もがき続ける。


「さあ、私にその意思を委ねなさい。すぐ楽になれますよ」


 薄れてゆく意識の中で、ショーンは風を感じていた。広い草原を渡る風が、何かを運んでくる。それは少女の歌声。あれは⋯⋯

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