悩んだら? 夜は短いわ


 外はすっかり暗くなっていました。深い色をした空に、明るく丸い月がぽっかりと浮かんでいます。雲はあまりなく、星たちがまばらに光っています。私は普段から意識して夜空を眺めているわけではないので、その光景を比較的新鮮に感じました。

 私は視線を次第に落とし、頰が彼女の肩に触れるところで停止させました。あたりは住宅街で時々自動車が通過するほかは、しんとしていて何の音もしませんでした。私は彼女と腕を組みながら、街灯に照らされる地面をぼんやりと見ていました。

 彼女は制服の上に黒い上着を着ていました。長い髪を下ろしていて、その香りが穏やかな風に乗ってやってきました。私の頬のすぐ先には彼女の横顔がありました。横顔があり、彼女の細い首筋がありました。私は何も言わずに彼女の腕を抱きしめました。

 その時、彼女が何か言葉を発しようとしているのがわかりました。そのような動きがあったので、私は彼女の横顔を見つめました。

「まだ七時前なのに、もうこんなに暗くなるのね」

 彼女はいつもの落ち着いた声で言いました。

 私は少し考えてから「そうだね。もうすぐ十月だもんね」と答えました。

「時が流れるのは早いわ。一日はすぐ終わるし、一年もすぐ過ぎ去っていく」

「うん……確かに。みゆきちゃんといると、時間が経つのが特に早い気がする」

 彼女が口を閉じたので、私は再びさっきの位置に視線を戻しました。もうすぐ住宅街を抜け、ここよりは人通りの多い道に出ます。彼女の家に来るときは亀池公園を通ってきましたが、暗くなったときは、明るくて安全な道を通るようにしています。この辺りの治安はかなりよく、不審者情報などもまず聞きませんが、そのくらいの警戒は必要です。

 誰かの家のニュース番組の音楽が、外に漏れ出てくるのを聞いたとき、彼女の体が、些細に動くのを感じました。

「ねえこだま、何か悩んでない?」

 私は驚いて、反射的に彼女の顔を見ました。彼女は少し複雑そうな顔をして、そして前を向きました。

「私にだってわかるのよ――この半年間、ずっと見てきたからね」

 私は頬が熱くなりながら、言葉を整理しました。

「……たぶんね、普通の人だったら悩みって呼ばないことなんだと思う。あるいは、多かれ少なかれ、みんなが抱えている共通の悩みなんだと思う」 

「それでもいいわ。……もしよかったら、私に聞かせてくれる?」

 私は頷き、住宅街を抜けたところで、腕を組むのをやめ、その代わりに手をつなぎました。

「十一月二十二日は、私の誕生日であると同時に、お父さんとお母さんの結婚記念日なの――二人が結婚して、そのちょうど二年後の『いい夫婦の日』に私は生まれたの」

 信号が赤なので私たちは立ち止まりました。とくとくと、心臓がなるのが聞こえます。

「お父さんお母さんの初めての子供だったし、親戚の中でも私が一番年上のいとこだったから、私は小さい頃相当可愛がられていたと思う――自分で言うのは変だけどね。でも、おばあちゃんもおじいちゃんも優しくしてくれたし、おじさんやおばさんにも、色々なところに連れて行ってもらったり、色々遊びにも付き合ってもらった。私はそういう人たちに囲まれて、かなり幸せに育てられたと思う。そして私の後に生まれた弟やいとこ達も、私と同じくらい幸せに育てられていると思う」

 信号が青に変わり、渡り終えてから、私は話の続きをしました。

「お父さんとお母さんは――本当に仲が良くてね、今でも二人だけで旅行に行ったりしてるの。もうすぐ結婚して二十年だから、今度は海外に行くみたいで、時々その話をしてる――ほんと、笑っちゃうよね。『いい夫婦の日』に結婚した夫婦が本当に『いい夫婦』なんだもん。近くにいる私でもわかるくらい、『いい夫婦』なんだもん」

 みゆきちゃんは頷いたりこっちを見たりしながら、静かに私の話を聞いていてくれました。

 そこで私は少しの勇気を持って言いました。

「……その二人を見たり、優しい親戚とかを見ているとね……私はなんとなく、プレッシャーをかけられているような気がするの。こんな言い方は変かもしれないけど、私は『これだけ恵まれた環境で育ててもらったんだから、お前は幸せになって当然だ』みたいな圧力を感じてしまうの。……変だよね。やっぱり変だと思う。それはわかっているんだよ。でも……そういう思考に陥っちゃうの」

「なんとなく、わかるわ」

 私は少し混乱しながら、彼女の手を確かめました。

「だからね、中学の時、いじめられて学校に行けなかった時――私はほんの少しだけ、安心しちゃったの。学校に行けば物がなくなって、何かにつけて嫌がらせをされる日々は辛かったけど……家に閉じこもりながら、私は少しだけ安心してた。このまま、私はずるずると落ちていって、不幸のどん底まで辿りつけるんじゃないかと思った。そしてもう二度と幸せにはなれないし、幸せになる期待もされないでいいと思っていた。私以外の人間が全て、確実に私よりも幸せになったら、私は逆に安心して生きていけるんじゃないかって……今考えればおかしな発想だけどね」

 少し遠くに高校が見えました。まだ明かりがついているところがあります。

「結局私はどん底まで辿り着くことなく、中途半端な位置で止まって、中学生活を終え、この高校に来たの。そしてみゆきちゃんと出会って、みゆきちゃんの恋人になった」

 私は彼女の顔を見ました。

「私は今、とっても幸せだよ。みゆきちゃんの恋人になれて、本当に幸せ。だってこれは人から与えられるだけじゃなくて、人に与えられる幸せでもあるんだもん。……そして私が自分で決められた幸せでもある。だけど……だからこそ、かな。私はそれを失うのが怖い――みゆきちゃんと別れる時が来るのが、怖い」

「こだま……そんなこと考えてたの」

 彼女は目を少し丸くして言いました。

「うん……ごめんね、まだ付き合い始めて一ヶ月も経ってないのに、別れた時の話をするなんて。……ひどいよね。ごめんね」

「いいのよ……そのことは」と彼女は小さく言いました。

 彼女はそれから無言になりました。彼女は相変わらず車道側を歩き、相変わらず静かな横顔を私に見せました。私は何も言わず、あるいは何も言えずに、彼女と手をつなぎながら歩きました。時々彼女の手を握り直し、彼女も私の手を握り直しました。

 私はこのことを彼女に話してよかったのか、話すべきだったのか、考えました。私の不安は彼女に話し終わった今でも胸の中に残っていました。これはこれからも残り続ける不安であり、これからも背負っていかなくてはならない不安でした。私のしたことは、その不安を共有したこと――というよりはむしろ――不安を広げたことにならないかと思いました。私はただ、余計な不安を彼女に伝染させてしまったのではないかと思いました。そして、どうして私はこの不安を一人で背負えなかったのか、どうして彼女と同じように、一人で考え抜けなかったのか、若干の後悔を感じました。

「幸せというのは――」と彼女は静かな声で言いました。「永遠に続くものではないのよ。始まったものはいつか終わる。それは誰にも止められない――だからある意味、そんなことを考えていても仕方がないのよ。考えていればいい対策が見つかって、その不安が解消できるとか、そういう類のことではないの。……そんなことわざわざ言わなくても、こだまはわかっているだろうけれど」

 私は小さく頷きました。

「私だってもちろん、こだまと別れるのは怖いわ。だけどその時はきっといつか訪れるとも思う。その時までに私も覚悟をしなくちゃいけないとも――思う。こだまにはこだまの人生があるし、私がいつまでもくっついているわけにはいかないものね」

 私はそのことについて、それは違うと思ったのですが、私がそれを言葉にする前に、彼女の話は先に進んでいました。

「でも、だからと言ってこだまと付き合わない理由にはならなかったの。別れることの辛さと、こだまの恋人になれない辛さを比較したら、別れることなんて全然大した辛さではないからね。だってそうでしょう? 一度でも付き合えるのとそうじゃないのとでは、全然違うもの。一度でも好きな人に振り向いてもらうのと、そうじゃないのとでは、全然違う――」

 彼女は右手でこめかみの辺りを押さえました。

「みゆきちゃん……」

「ねえこだま。私は約束するわ。『私からは絶対に別れを切り出さない』ってね。もし別れたくなったり、前みたいに友達に戻りたいと思ったら、こだまから切り出してちょうだい。それか、二人で話し合って、二人で納得して決めましょう。私はきっと抵抗するし、取り乱すとも思うけれど、こだまが自分で考えて決めたことなら、その意見は尊重したいと思ってるから」

 私はしばらくの間、言葉を失っていました。その間にみゆきちゃんは言いました。

「……私は、こだまと別れることよりも、振り回しすぎてしまうことの方がよっぽど怖いの。こだまが私と付き合うことで――その関係を維持することだけに終始して、私以外の幸せを逃してしまうことの方がよっぽど恐ろしい。……本当よ。私は本当に、こだまに幸せになって欲しいと思ってる。こだまの家族も、親戚も、絶対にそう思っているわ。それは時にプレッシャーのように感じることもあるけれど、『本当に』こだまが幸せになることを願っているのよ。……確かにそれは押し付けなのかもしれないわね。『幸せになれ』なんてね。……でも、そう願わずにはいられないの。だって、こんなに優しい子が、ちょっと『気が弱い』というだけで『幸せになれない』なんて、信じたくないもの――」

 彼女は右手で顔を押さえ、視線を道路の方に向けていました。

 私の頭の中は混乱していました。あらゆる感情が同時に、周期的に強くなったり弱くなったりして、私の頭の中を駆け巡りました。そこには私の感情があり、警告があり、そして彼女の限りない愛情がありました。私は何が大事で、何を優先すべきなのか、わからなくなっていました。私の中の警告が何かを発しているのに、それは時々弱くなり、それが何なのか、見当がつかなくなっていました。私は冷静になろうとしました。彼女の手を何度も確かめました。彼女の手は確かにありました。確かにあるのに、それはとても脆いものに思えました。そして私の混乱は深い泥沼にはまっていきそうな、そんな恐ろしさがありました。

 私は無言でゆっくり歩き、彼女も同じペースで歩きました。彼女の頭の中もまた、私と同じように混乱しているように思えました。一方で、彼女は混乱していない、彼女は自分の頭で、気持ちを正確に表現しようとしているだけなのだとも思いました。彼女は私の前で、できる限り正確に考えを伝えようとしているだけである気もしました。その二つは表裏一体であり、彼女は混乱の中で、正解を探そうともがいているようにも感じました。

 彼女は口を開きました。

「ごめんなさい。結局私も、こだまに圧力をかける一人になってるだけね」

「そんなことないよ」と私は言いました。「それは絶対違うよ、絶対、絶対違う」

 私は彼女の方を見ました。




 すると――彼女の顔を見たとき、私の頭の中で言葉が繋がり出していくのを感じました。私が主体的に言葉を組み立てていくのではなく、自然に、勝手に、言葉が紡がれていくのがわかりました。私は何もしていません。頭の中は混乱しているのに、彼女の顔を見ただけで――

 そして私は彼女のアドバイスを思い出しました。

『頭の中で解決しようとするのではなく、周りに目を向けることで解決する』

 彼女はある特定の問題の解決の仕方としてこの助言をしたのではありませんでした。彼女のアドバイス自体は抽象的で、具体的ではありませんでした。だから私は『周りに目を向ける』ということが具体的にどういうことなのか、わかっていませんでした。そして混乱の中、私は頭の中が整理されるのを待っていました。頭の中での解決に、時間をかけようとしていました。彼女が言っていたのは、そういうことではないのに――

 私は周りを見ていました。

 すぐ隣に、困り顔の「彼女」がいました。

「……ごめんね、みゆきちゃん。私間違ってたよ」

 私はそう言いながら彼女を抱きしめました。

 ガードレールの先の道路を、何台かの車が走り去っていきました。

「――そもそもの前提が間違ってた。『いつか別れる時が来るのが怖い』って、そんなこと心配して、相談して、『今』のみゆきちゃんを困らせるなんて――本末転倒だよね」

 彼女はそっと、腕を私の背中に回しました。

「……みゆきちゃんの幸せは、私の幸せでもあるんだよ。みゆきちゃんが嬉しい時は、私も嬉しいし、みゆきちゃんが喜んでいる時は私も喜ぶ。みゆきちゃんの幸せなしで私の幸せはあり得ないの。……だって言ったでしょ? 私の幸せは人に与えることができる幸せでもあるって――だから私がみゆきちゃんを幸せにできるなら、私にとってそれ以上嬉しいことはないの。

 同時にね、みゆきちゃんが悲しい時は、私も悲しいんだよ。みゆきちゃんの辛いこと、苦しいことは、一緒に分かち合いたいし、それができない時は、隣にいて寄り添いたいと思ってる。今までみゆきちゃんが、私にしてくれたみたいにね、私もそうしたい。本当に、心からそう思ってるよ」

 私は彼女の頬を見て、耳を見ました。そして目を閉じ、全身で彼女の存在を感じました。

「だから、そういうのは違うと思う。私からだったら、別れを切り出してもいいなんてね。全然フェアじゃないと思う。……ねえみゆきちゃん。もし、そういうのが必要になった時は、どちらかが一方的に言い出すんじゃなくて、二人でちゃんと話し合って決めようよ。私はちゃんと、お互いが納得できるまで話し合いたい。それはきっととても難しいことなんだろうけど、私たちなら、できると思うから」

 彼女は頷きました。

 私が彼女の顔を見つめると、彼女は恥ずかしそうに、でも嬉しそうに微笑みました。それを見て私も笑ってしましました。

 私は何事もなかったかのように歩くのを再開し、彼女と再び手をつなぎました。トラックが一台道路を通り、歩道の横を自転車に乗った外国人の若い女の人が鼻歌を熱唱しながら走っていきました。もうしばらく歩くと駅に着きそうなところまで私たちは歩いてきていました。

「こだま。私はこの感情をどこにぶつければいいのかしら」と彼女は言いました。

「そうだねえ。……やっぱり、明日のハンバーグにぶつけるべきじゃない? とっても想いのこもったハンバーグが完成するよ。うう、お腹減ったねえ」

「ねえこだま、キスしたい」と彼女は私のハンバーグの話を無視して言いました。

「ここは駅にも近いし、学校にも近いからだめ。また今度ね」

「でも私が辛い時、苦しい時はこだま、分かち合ってくれるんでしょう? 私は今この行き場のない想いがとっても苦しいわ」

「それができない時は隣にいて寄り添うって言ったでしょ。今隣で寄り添ってるよ。寄り添ってる上に手まで繋いでるよ」

「それはそうだけれど」と彼女は不満げに言いました。「もう、本当に困ってるのよ。困ってるし、嬉しいの。こういうのってどうすればいいのかしら」

「そういう時はハンバーグだよ、ハンバーグ。明日が楽しみだねえ」

「……こだま、もう半分くらいハンバーグ星人になっているのね。『ハンバーグ』しか言えなくなるのも時間の問題ね。明日の朝にはそうなっていてもおかしくないわ」

「でもみゆきちゃん、ハンバーグ星人になってもハンバーグを食べれば元に戻るんだよ」

「全然深刻じゃないじゃない……」

 じゃないじゃない……ジャナイジャナイ……。私がその独特のリズムに夢中になっていると、彼女は何か色々と諦めたらしく、「心配して損した」と言って、考えるモードに入りました。きっとロマンチックなことか、良からぬこと、あるいはロマンチックで良からぬことを考えているのでしょう。彼女の頭の中を覗くことができるなら、私はぜひとも彼女の考えるモードの全容を明らかにしたいものです。

 人通りが少し多くなってきました。亀池駅の南口は住宅街と言えど、駅周辺になるとそれなりに人が多くなります。何人かの人たちとすれ違いましたが私は気にせず彼女と手を繋いで歩きました。彼女も私と手を繋ぐのをやめることはありませんでした。

 私の中の混乱は緩やかに収束していきました。それは次第に小さくなっていき、小さな点になり、やがて見えなくなりました。

 一時的に、見えなくなりました。

 きっとそれは明日になったらまた復活するのでしょう。私の中の不安は完全になくなることはないのでしょう。

 でも、それでもいいと思うのです。私が思うに、不安の伴わない幸せなどないのです。私たちが生きている限り、幸せというものは不安と切り離せないのです。幸せがある限りそこには不安があり、私はそれから逃れることはできないのです。

 そう、私は私の中で結論づけました。そのことが理解できた時、私の心がすっと軽くなるのを感じました。

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