ピアノ、蛍光灯、午後六時の
帰り道は行きほど小学生とすれ違いませんでした。知香ちゃんとまた道路で会うこともありませんでした。どちらかといえば静かな帰り道でした。
私は再びみゆきちゃんの家に入りました。みゆきちゃんの家は共働きなので、この時間は家の中には誰もいません。彼女は鍵を開け、部屋の電気をつけました。私はリビングのソファの前に腰を下ろし、置いてあったリュックから財布を取り出します。みゆきちゃんは買ってきたものを冷蔵庫にしまい、炊飯の準備をしました。彼女は夕飯を作ることも多いそうです。
私がみゆきちゃんから受け取ったスーパーのレシートを机の上に置き、ちょうど半分の金額を財布から取り出したとき、彼女はお盆の上にティーカップを二つ乗せてやってきました。
「みゆきちゃん。合計金額が偶数になっててよかった。はい」
「そんなこと気にしなくても。だいたいでいいわよ」と彼女は優しく言いました。
「いや、駄目だよ。理系の私たちとしては一円の誤差は無視できないよ。私は二千円以内のすべての金額に対応できて、なおかつ最も効率的になるようにお金を持ってきたんだから」
「ふふ。そうなの。じゃあもし合計が奇数だったらどうしてた?」
彼女は机の上のコースターに、紅茶の入ったティーカップを置きながら聞きました。
私は少し考えてから言います。
「そうだねえ……一円分、みゆきちゃんにいいことしてもらうかも」
「一円分のいいことってなんなのかしら」と彼女は笑いながら言います。
「私もちょっとわからないかな」と私も笑いながら答えます。
笑い声が収まると、時計の針の音が聞こえてきます。
みゆきちゃんの家にお邪魔するのは、彼女の告白を聞いた時を最初としてもう何度かになるのですが、このように、彼女の家はとても静かなのです。私たちの声やみゆきちゃんが料理をする音を別にすれば、この時計の針の音くらいしか聞こえません。それ以外は全くの静寂です。
私はありがとうと言って机の上の紅茶を飲み、それを見てから彼女も口をつけました。
私はこの静かな空間に一人でいるのはどんな気持ちだろうと考えました。平日はほとんど家に一人でいて、料理を自分で作り、部屋の中で一人で勉強をする。人の声は聞こえず、ただ時計の針の音が響く空間。
私の家には生意気な弟がいて、お節介なお母さんがいて、心配性なお父さんがいます。私は一人で本を読む時間が好きですが、それは家族に囲まれているからこそなのかもしれません。みゆきちゃんのように、本当に一人でいる時間が多くなったら、私は一人で本を読むことができないのかもしれません。
私だったら彼女のような生活は耐えられないかもしれません。
でも、みゆきちゃんは違います。
みゆきちゃんは一人でいることにそれほど苦痛を感じません。彼女は私に「寂しい」とも言いません。私は以前、彼女は『心の底』では寂しいと感じているのに、長年の生活によってその寂しさに慣れてしまったのではないか、と思っていました。ただその寂しさをうまく表現できないだけではないか、と思っていました。ですがそれはどうやら違うみたいです。彼女は孤独を恐れません。人に頼ることもしません。彼女は一人で問題を抱え込み、この静かな空間で一人じっくり考えるのです。そして彼女なりの答えを出すのです。
私は再び紅茶を飲みました。口の中でその香りを味わいます。
風は窓の外の木を揺らし、落ち着き、また揺らして落ち着きます。時計の針が変わらず動きます。
みゆきちゃんは顔を少し赤くして、再びティーカップに口をつけました。彼女は私の顔を窺うような目つきで私を見ます。
私は彼女の求めていることを察した上で、こう言いました。
「みゆきちゃんのピアノ、聴いてもいい?」
彼女は少し驚いた顔をしました。
「こだま、よくそんなこと覚えていたわね。もう忘れたのかと思ってたわ」
「うん……実はちょっと忘れかけてたけど、さっきみゆきちゃんの話を聞いて思い出したの」
私がそう言うと、彼女は口元を手で押さえました。
これはみゆきちゃんが何かを考えている、あるいは何かを考えようとしている時の癖です。
ねえこだま、と彼女は小さく言いました。
「本当に聴きたい?」
「本当に、聴きたい」と私が答えると、彼女は頷いて、立ち上がりました。
「こっちよ」
私が案内されたのはみゆきちゃんの部屋の正面にある部屋でした。広さはみゆきちゃんの部屋よりも少し広く、入って左手にピアノがあり、向かいに勉強机があり、右手にベッドがあります。ピアノの周りにはCDやら楽譜やらがあり、アーティストのポスターなどが貼ってあります。私は音楽にはあまり詳しくありませんが、それが少なくともアイドルのポスターではないことはわかりました。勉強机には難しそうな本から漫画、ファッション誌までが乱雑と並んでおり、某キャラクターの鏡や化粧道具、空のお菓子の箱が置かれています。ベッドの上のお布団はきっちりと整っていて枕の横に二匹のぬいぐるみが仲良く寝転がっています。
私は少々の混乱を覚えました。
みゆきちゃんの部屋はベッドと机と本棚があるだけの、物が少なくてとてもシンプルな部屋だったのです。彼女の部屋の机には最低限の教科書があるほかは何も置かれておらず、彼女の部屋の本棚には参考書と少しの新書、そして私が貸した推理小説のシリーズ物くらいしか並んでいません。ベッドの枕元には、これまたシンプルなデジタルの目覚まし時計があるくらいでした。そういう意味で、この部屋はみゆきちゃんの部屋と対照的でした。
「姉の部屋なの」と彼女はこの空間全体を見渡すようにして言いました。
「今は上京してる、みゆきちゃんのお姉さん?」
「そう。私が小さい頃は姉と私の二人部屋だった。ここには二段ベッドがあって、上を姉が使って、下を私が使った。ここに小さな丸い机があって、そこで宿題をしたわ。人形遊びとかもしたかもしれない――別々の部屋になったのは……そうね、姉さんが小学校高学年の頃だったかしら。たぶんそのくらいだったわ。私はまだ小さかった」
みゆきちゃんは昔を懐かしむように言いました。
「みゆきちゃん、普段は『姉さん』って呼ぶんだね」
「そう……ええ、そうよ」と彼女は照れくさそうに言いました。
「こう見えても私はお姉ちゃんっ子だったの。遊ぶときはいつも姉さんと一緒だった。私には友達と呼べる友達がいなくて、姉さんには友達が多かったから、私は学校から帰ってきたら宿題をしたり本を読んだりして、友達と遊んでいる姉さんの帰りを待っていたわ。習い事があったり、母さんが家にいるときは違ったけれど、そういう日が一番多かった――姉さんは、私と遊ぶことを嫌がらなかったの。普通、年の離れた妹と遊ぶのは姉にとっては面倒なことなのだろうけれど、姉さんは私の遊びに付き合ってくれた。毎日毎日、来る日も来る日も――だから、私が大きくなって姉さんが家を出て行く時には本当に悲しかったの。私の唯一の理解者だったからね。辛かった。それから私は自分の部屋の整理をして、姉さんにもらったものを処分した。どうしても捨てられないものは押入れに入れるか物置に入れるかした。どうしてそんなことをしたかというと……実をいうとよくわからない。ただ、漠然と、姉さんのいない私はどういう存在なのか、一度部屋を空っぽにして確かめようとしてたのかもしれない。きっと私も姉さんと同じように、色々なことに興味をもって色々なものを欲しがるはずだと思ったからなのかもしれない――まあその結果はこだまも知っての通りよ。私の部屋は中学の時からそれほど変わっていない。変わったのはカーテンの色とベッドのシーツと目覚まし時計、こだまおすすめの小説が本棚に加わったことくらいだもの。結局私は姉さんとは違ったの、根本的にね」
私は静かに彼女の話を聞きました。そして彼女の過去が、少しずつ立体的に把握できそうな感覚が残りました。誰が彼女の周りにいて、何が彼女に起こったのか――彼女が何を考え、どういう風に今の彼女ができたのか――
「私の小さい頃の話をこんなに詳しくするのはこだまが初めてよ」
みゆきちゃんは頬を少し赤く染めて言いました。
「うん。私はみゆきちゃんのことなら、なんでも知りたい」
そして彼女の反応を見てから言いました。
「みゆきちゃんのお兄さんは……お兄さんとは、遊んだりしなかったの?」
「兄さんの話?」とみゆきちゃん。「そうね……正直言ってね、兄さんのことはあまり記憶にないの」
「記憶にない? 兄妹なのに?」
「ええ。おかしな話かもしれないけれど……私は兄さんのことをあまり覚えていないの。もちろん、家族として一緒に過ごしていたこと自体は覚えているけれど。でもほとんどと言っていいくらい口はきかなかったわ。兄さんが話しかけてくることはなかったし、私から話しかけることもなかった。兄さんは父さんや母さん、そして時々姉さんと話すけれど、私とはあまり話さなかった。それは姉さんが上京して家を出ていった後も変わらない。高校生になると、兄さんは兄さんなりに勉強をして、上京していった。本当に、驚くくらいすんなりと合格していった。母さんに言わせれば兄さんは本当に手のかからない子だったらしいわ。そして同時に、何を考えているかわかりにくい人だった。年齢を重ねるごとに、感情が読みにくい人になっていった――」
みゆきちゃんは微笑みました。
「兄さんは今、日本のどこかにいるわ。家にはもう二年くらい帰ってきていないけれど、たまに短い手紙が届く。何枚かの写真を添えてね」
私は彼女のお兄さんがどんな人なのか、想像しました。それから彼女のお姉さんのことを考え、最後に彼女のことを考えました。
蛍光灯の光が一瞬点滅しました。開けた窓から風が入り、カーテンを揺らしました。
彼女はピアノを見つめています。
「こだま。ベッドの前に座ってて」
私は彼女に言われた通りに座り、彼女はピアノの蓋を開け、椅子に座りました。そしてそっと鍵盤の上に手を置き、その細い指先で演奏を始めました。時々彼女の黒く長い髪が揺れ、細い背中がピアノの音に合わせてゆっくりと動きました。
小さな音は、次第に大きくなっていきました。
私は目を閉じて、メロディーを聴きました。それは切ない曲でした。専門的なことはわかりません。切ない曲に、私は聞こえました。
私は目を瞑りながら、彼女は何を考えてこの曲を演奏していたのか、考えました。
片思いをしていた彼女。そのことを言い出せなかった彼女。
彼女の苦しさに気づくことができなかった私。
そして、一枚のラブレターですれ違う私たち。
そんな状況の中、彼女は何を思い、この曲を演奏していたのか、私は考えていました。
彼女はこの部屋で一人でピアノを弾きました。そして一人でその余韻を味わい、一人でその悲しみを背負いました。近くにいるのに言い出せず、ラブレターを受け取るのを、目の前で目撃してしまう。そうした彼女の感情は、この部屋の中だけに響く、ピアノの音になって、消えていきました。
――誰にも気づかれることなく、永遠に。
本当に、もしそうなっていたかもしれないと思うと、私は背筋が凍るような気持ちになります。彼女の告白がなかったら、私は永遠に、彼女の気持ちに気づくことができなかったかもしれないのです。それはなんて残酷なことでしょう。そして、それは現実と紙一重だったのです。
私の頭がぐらりと揺れます。現実の落とし穴はとても身近に潜んでいるという事実に、私は強い恐れを感じます。
それでも私は、今彼女の演奏を、ちゃんと聴かなければならないと思いました。そしてこれからは、恋人として、彼女の孤独に寄り添っていきたいと思いました。彼女は孤独を恐れませんが、『真の孤独』を望んでいるわけではないのです。
私はゆっくりと目を開けました。蛍光灯が点滅を繰り返し、彼女の演奏は佳境に入りました。
彼女の背中を見ながら、私は私自身の孤独について考えました。
彼女の孤独とは違う、私自身の孤独について。
演奏を聴きながら、確実に感じる、不安、恐れ。胸をえぐるような恐怖。
私はそのようなことを考えていました。
彼女の演奏が終わりました。蛍光灯が不定期に点滅する中、私は拍手をしました。彼女はしばらく動かず、ある程度時間が経ってから振り向いて言いました。
「こだまに聴かせられてよかった」
その目は潤んでいました。
彼女はそのまま何も言わずに私の隣に来て、何も言わずに顔を寄せました。私も何も言わずにそれを受け入れました。彼女の吐息と小さな声が漏れるのが聞こえました。
蛍光灯の点滅はついに止まり、半分になった光が淡くなって見えました。
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