風のゆくえ
※
大学の友達と日付けが変わるまで飲んでいた帰りだった。電車の中で気分が悪くなった俺はたまらず電車を降りてトイレに向かう。吐き気はするものの実際に戻すことはなかった。トイレの出入り口前でしゃがみ込んで10分、幾分か落ち着いたがまた車内で気持ち悪くなって電車を降りることになるのも嫌なので俺はこの駅から歩いて帰る事にした。おそらくここからだと歩いて30分程、決して歩いて帰れない距離ではない。出発する前に自動販売機で気分がスッキリしそうな飲料を飲もうと、缶ジュースを買って一人、寂しく夜道を歩き始める。まだ足取りは重い、これはどこか座れそうな場所を見つけては適度に休む必要がありそうだ。
今まで電車の中からしか見た事のない街を実際に歩いてみて、電車であればどれだけ早く着いた事か、そう何度も連呼する。線路と同じように必ずしも真っ直ぐ進めるわけではない。つまりこれは失敗したかという言葉が頭を過ぎった。今更、引き返す気力もない俺は途方に暮れるように歩き続ける。明日は午後からバイトだが、学校が休みであるのが救いだ。
時々、道路の標識を見つつ間違った道を進んでいない事を確認する。いよいよ一番見慣れた景色が見えてきた。辺りは繁華街を通り過ぎてすっかり住宅が立ち並ぶ場所に移っている。
嫌々、歩いてもこうして目的地の駅に辿り着くと達成感というものが生まれる。悪くない気分だった。同時にあの気持ち悪さもどこへやら、ここからは軽快に自宅であるアパートに向かう。ただまだ季節が秋だったから良かったけど、これが真冬だったら30分も外を歩きたくないかもな。
あと5分ほどでアパートに着く時であった。公園の周りを囲むように生えている奥の木の下に誰かが座り込んでいるのが目に入ってきた。酔っ払いが力尽きてしまったのか、いずれにせよ俺は見なかった事にしようと思った矢先、そこに居るのは女性、しかもここから見ても若い人である事が分かる外見だった。
そう分かってしまった途端、俺は足を止めた。おっさんとかであればさっさと行ってしまうがこれは仕方がない。女子供はやはりこんな真夜中に外にいたら駄目なんだ。
公園内に入りその女性の下へ歩み寄る。もしかしたら事故か事件かもしれないとも思ったら走ってしまっていた。
立ち止まった時に秋らしい涼しい風が吹いた。女性はなぜだか裸足だった。しかも思ったよりも若かった。未成年であるのは間違いない。これは無視しなくて正解だった。俺は足を曲げて女性の顔を見ながら声をかける。
「ねぇ、君。大丈夫」
こんな小さな声では起きそうにもなかったので、肩を揺すりながら同じように声を発した。何度か、小刻みに揺すっているうちに彼女はゆっくりと目を開けた。
「よかった。大丈夫、なんでこんな夜中にここに居るの? 早く家に帰った方がいいよ」
「あっ、いた」
彼女は視線を左右に移しながら足を動かそうとしたのだろうが、左の足首をおさえて痛みを訴えた。よく見れば膝と踝の辺りに真新しい擦り傷ができていた。
「怪我しているのか。とりあえず……家が近いから来る? そこなら電話もあるし。それに君なぜだか裸足だし、なんならサイズ合わないだろうけどサンダルとか貸してあげても」
赤の他人、しかも未成年の女性を家に誘うなんて夢にも思わなかったがこの状況であればそれも仕方なしと言い聞かせた。それで、胸が高鳴るのはこれも仕方なしか。女性は無言を貫くので俺はなんとか言葉を探す。
「どうしようか、ここから俺の家、近いんだけど裸足で歩くわけにはいかないし、だからといって……」
俺がおぶってもいいと言おうとしたが、彼女はちょっと丈が短めのワンピースを着ていた。この格好でおぶるのは……抱っこでも駄目だと思ったので。
「わかった。やっぱり今から急いで戻ってサンダル持って来るからちょっと待っていて」
いつまでも決めないわけにはいかないと焦りながら無難な選択をした。そうと決まれば疲れなど気にしている場合ではないと言わんばかりに俺は全力で走った。使命感に燃えていた気もする。男というのは可愛い女性を前にすると急に力が湧いてくるんだろうな。そう彼女は、あまりにも綺麗だった。とても日本人には思えないと言っていいかもしれない。今時の若者というにはあまりにも印象が異なる。
これが俺と彼女との不思議な、束の間の、出会いの始まり。まだ誰にも話したことのない。
地面を見ながら歩く彼女。歩きにくいというのもあるのだろうが、やはり見知らぬ男と一緒に歩くのは気まずいか。部屋に着くまで俺達は無言だった。
「まさか来客が来るとは思わなかったから汚いけど、そこは勘弁してね」
衣類、下着も平然と床に落ちていて本当に汚かった。こういう緊急時にも見られて恥ずかしくないように整理整頓されているのができる男なのだろう。掌で両目を覆いたくなった。
とりあえず座るスペースを確保しようと雑誌や衣類を脇に退ける。折りたたみ式のテーブルを出して何か飲み物でも出す用意をした。
「ところで君はなんであんな場所に居たの、しかも裸足で。もしかして何か事件でも巻き込まれたの?」
女性は戸惑いの表情を見せながら横向きで俯いている。何と話そうか迷っているようには見えた。
「わからないのです。なんで私があそこに居たのか」
「えっ? そんな。本当に思い出せないの」
こくりと頷く。これはすんなり解決しなさそうな予感がした。
「これは警察に電話した方がいいな。とても俺一人でどうにかなるような事じゃない さっき電話があるっていったけど共同の電話だから出入り口前にあるの。ちょっと行って来る」
「待ってくださいっ……もう少しだけ待って。もう少ししたら何か思い出せるような気がするのです」
「どういうこと」
「上手く話せないのですけど、あまり
「いや、とは言っても君のご両親が心配しているでしょう。家の連絡先も分からないんだよね?」
「分からないのですけど、警察と聞くともの凄く怖くなって。きっと何か嫌な思い出があるのでしょうね」
確かに彼女は本当に怯えていた。とても警察にお世話になるような人には見えないが記憶はなくても、体に染み付いた恐怖が訴えているのか。もしかしたら何か犯罪に関わっている? 攫われてしまい、警察を呼ぶなとひどく脅されて完全に塞ぎこんでしまったか。だったらなおのこと警察を呼んだ方がいいわけだが。
「……分かった。とりあえず今日はもう休もう。俺、けっこう疲れているの」
それも本心だった。こんな可愛い子が嫌がっている事を無理やりする体力はもう残されていない。なにより好みの女性と家で二人っきり。どうして拒む事ができようか。
現実的に考えてこんな事は長続きしないとはもちろん分かっている。いずれはやはり然るべき手続きを踏む必要があるだろう。それでも、少しだけ夢を見させてくれと願った。ほんの少しだけ。
特にお腹は空いていないという事だったが傷の手当はした方がいいと俺は近くの深夜まで営業している商店へ行き絆創膏、消毒液を買いに行く。珍しいと思いつつ、最初は深夜まで営業しなくてもいいのでは? なんて思ったけど、こういう俺みたいな緊急事態に見舞われた人のために夜遅くまで営業してくれているのか、確かに助かる。
とりあえず最低限の事はして、彼女には普段、使っている布団を貸し俺は玄関の廊下で寝る。彼女のためだと思えば全然、苦にはならなかった。そうか人間、恋をするとその人のためならなんでもできるのかもな。今まで経験した好き、とは訳が違うと俺は察していた。
起きたのは午前11時過ぎ。今日はバイトだという意識があったからこの時間に目が覚めたのだろう。何もなかったら昼過ぎまで寝ていた自信がある。しかしそれはいつもと変わらなければの話である。物音がした。そうか、あれは夢ではなく現実なのかと改めて突きつけられた。それには妙に嬉しくなる。
居間に入ると彼女は台所にある食器を洗っていてくれた。そして、「あっ、おはようございます」
そう朝の挨拶をしてくれた。胸が高揚した。自分のアパートで、女性と「おはよう」と言い合う。それだけなのになんてとても特別な瞬間に思えるのだろう。
「随分、気が利くんだね」
「泊めさせてもらっている身ですし、このくらいはと思って」
つい彼女が身元不明の人物である事を忘れてしまう。本当は友達、いや恋人で同棲生活を始めたばかりという事だったら良いのに。
「そうだ。申し遅れたけど俺、吉田幸樹って言うんだけど君は、名前は覚えているのかな?」
「名前……名前はリン、そう、リンかもしれない。そう聞かれて真っ先に思い浮んだの」
名前がすんなり出てきたのは意外だった。しかしこれは思いの外、助かる。やっぱり名前が分からないというのは一番困るからな。こうして一緒の空間に居る以上は。
「リンか。綺麗な名前だね。他に何か覚えている事はある? あっ、年齢とか」
「歳は、分からないけど多分、大学生あたりの年齢なんじゃいかな」
「う〜ん、大学生……高校生のような気もするけど、いや、待てよ、もしかして……まぁ、いいか。それと、その格好ちょっとこの時期にしては寒いんじゃない? 昼間はまだいいかもしれないけど夜になるとさすがに。どうしてそんな薄手の服なの」
「なんでなんでしょうね」
困った顔をしつつも誤魔化すように笑うリン。なんだかリンはそこまで今の状況を深刻に捉えていない気がした。
「よし、今日は午後からバイトだから無理だけど明日、何か服を買いに行こうか」
「えっ、そんな悪いですよ」
そんな返事も聞かずもう決まった事のように振る舞った。不謹慎ながらも楽しくなってきた自分がいる。彼女が何者なのかそんなのどうでもよい気がしてきた。ただ望むのは俺の傍にいてほしい、それだけだった。ただ、歳の事を考えたら若すぎるかもしれないという懸念が……。なんという贅沢な悩みなのだろう。
けど俺は少し早めに家を出てできる事もやった。バイト先である喫茶店へ早めに行きそこに置いてある新聞を読ませてもらうが若い女性の行方が分からなくなっているという記事は見当たらなかった。しかしこの店にはスポーツ新聞はたくさん置いてあるのに、一般紙は一つだけ。他の新聞も念のため目を通しておこうと俺は駅前の売店へ行き販売員の目も憚らず立ち読みした。今のところ関連性が疑われる事件もない事には一応の安堵をする。
1時間ある休憩時間。俺は少々、思い切った事をする。明日、リンの服を買いに行くにしても靴もないではないか。さすがにまた男性用の、サイズが合わないサンダルを履かせるわけにはいかない。ちょうど俺の働く喫茶店は大きなスーパーの中に店を構えている。買い物は気軽にできる。
勢い良く行動に移したのはいいものの、やはり戸惑った。商品を目の前にして先ず普段、女性がどうのような履物をしているのか全く見当がつかない。高校生だと制服に革靴って事になるんだろうけど、プライベートではどんな靴を履いているのか……。
いや、待てよ。今、彼女は白いワンピースを着ている。あの服に似合う靴は、間違いなくスニーカーではない。これだけでもある程度、絞れてきた。ハイヒールが並ぶ所に目がついた。これかもしれない。
黒は違うだろう、赤やピンク、いやここは白に合わせるか。
「おっ」
そう思った時にいい物を見つけた。白いリボンが爪先部分あたりに飾り付けられている真珠色と思わせるハイヒール。これだと思った。これならまだ子供っぽさが強い学生が履いても違和感ない。値段も、まぁいいだろう。
それですんなり終わるわけもなく、次の関門はサイズだった。商品を手に取る瞬間、ようやくそこに頭が回った。何もかもが行き当たりばったりだったが幸いしたのがその靴の在庫が二つしかなく、選択肢は多くなかった。
一方のサイズは24cm、そしてもう一方は23.5cm。24cmは女性にしては大きいのではないか、ただそれだけの理由で俺は小さい方を選んだ。いや確か女性の平均サイズは23cmあたりと聞いたことがある。大丈夫、そう言い聞かせた。
もしかしたら未成年購入禁止の本を買うより恥ずかしい事をしているとレジの前に立ってから気がついた。もちろん店員は何の詮索もしない。普通に考えればプレゼントだと思うだろう。それでも男が女性しか買わない商品を買うというのは勇気がいる。そんな事を直前まで思う暇もなく俺はとにかくリンのために何かしてあげたいその一心だったのだ。
バイトが終わった解放感とは別の充実感があった。午後9時半頃にあの公園の前を通るとそこには。
一人の女性が砂場の横にある外灯の真下に立っていた。リンだ。
何やら空をじっと見ている。つられて俺も見てみると今日は満月がはっきりと浮び上がっていた。
「なにしているの」
「あっ……、えっと、月が綺麗だったから外に出てみたくなっちゃったの」
「確かに今日は見事なまでの満月だな。そうだ」
タイミング的には悪くないと思った。どうせまたあのサンダルでここまで来たのだろう。帰りぐらいは。
「えぇ、そんな。ありがとう」
「どうせ明日、出かけるなら靴が必要だろう。履いてみて。実はサイズが合うのか不安なところがあるんだけど……23・5cmで平気かな?」
「うん、大丈夫。ちょうどいつもそのサイズの靴を履いているからピッタリだよ」
「それはよかった」
想像以上に似合っていた。やっぱり俺の感性は間違っていなかった。月の光も彼女を照らすためにいると思わせるくらい綺麗だ。俺はある事を思いついた。
「そうだ。写真撮ってもいい? 俺、新しいカメラ買ったんだよね」
リンはきょとんとしたいたが、拒否もしていなかったので急いでアパートまで戻る。世界初のオートフォーカスっていう言葉に惹かれて真面目にためておいたバイト代を叩いて買ったカメラ。これでいつか彼女と一緒にと思っても、なかなかその出番はなかった。今、使わずしていつ使う。
幸い夜でも公園内の灯りが助けてくれて良い感じに撮れていた気がする。リンも慣れているかのように表情を作るのが上手かった。
「次は座ってみようか」
快諾してくれたものの、丈が短いというのもあってかちょっとドキっとした。そんなところに意識がいっている事も知らずリンはこちらに可愛らしい笑顔を向けてくれた。ピースサインのおまけ付きで。
※
「ということは写真はこれ一枚だけではないのですね?」
「そうなんだけど正直、他のやつは誰が写っているのかさえ分からないようなものが多くてね。唯一この写真だけは外灯の真下で撮ったのが良かったのか当時の私にしてはもの凄くよく撮れていて。これだけ今でも手元に残しているといったところかな。それに実はフィルムの残数がそんな残っていなくて、そんな多く撮れてもいなかったんだよ」
※
「あっ、今ので終わっちゃった」
「どういうこと?」
「もうフィルムが残っていないってこと。ということでこれでお終い。帰ろうか」
楽しかったひと時の後は急に現実に引き戻された。裸足で木の下に倒れていた女性。もう一度、昨日の光景が蘇る。明らかに普通の状態では発見されていない。
そして記憶が失われている……うん? まてよ。確かリンは靴を渡した時、靴のサイズをすんなり答えられていた。しかも「ちょうどいつもそのサイズの靴を履いている」そう言っていた。
「ねぇ、リン、そういえばさっき」考え事をしていた俺はリンより前を歩いていた。
後ろを振り返った時に、リンの姿はなかった。
また頭を撫でるように涼しい心地よい風が吹いた。しかしこの時の俺はその風に乗ってリンがどこかへ行ってしまったのではないかという予感しかなかった。
「リン……?」
俺は探し回った。そんな、ついさっきまで後ろを歩いていたのだから追いつけないほど遠くになんか行っていないはずだ。しかもあのハイヒールで。
2時間、いや3時間は探したかもしれない。こんなに必死になって探したのにリンを見つける事はできなかった。
リンと出会ってまだたったの1日なのに……でも、現実はそう上手くいかないのだよ、と見知らぬ誰かに耳元で言われているような感覚に陥った。
そんな、幸せなひと時はそう長くは続かないとしても、これはあまりにも早すぎやしないかい?
あぁ、もう少しだけ夢を見させてくれよ……あの何気ない日常でも、俺にとっては濃密で、幸せに満ちた時間をもう少しだけ……。
せめて「楽しかった」「ありがとう」「さよなら」この言葉だけでも伝えて別れたかった。それさえもない別れなんて……こんな結末なら出会わない方が良かったかもしれない。
それから数ヶ月は報じられたニュースを隈なくチェックした。おかげで知識がたくさん身についた。世の中の動き、流れを掴む事ができた。それでもリンが関わっていそうな事件、事故は報じられなかった。それは決して悪い事ではない。
リンは本当に存在したのだろうか? いよいよそこに疑問を持ち始めてしまった。リンはそう、まるで妖精のような存在でたまに人の前に姿を現す。そしていつの間にかどこかへ消えてしまう。おとぎ話でよく聞くパターンだ。
そうだとしてもなんで俺みたいな人間の前に? こういうのって無邪気な子供の前に現れるのが定番なんじゃないのか。俺みたいなあわよくばリンと、そういう関係にならないだろうかと真っ先に期待してしまうような大人の前になぜ現れた?
現像した写真を眺める。これが確かな物的証拠だ。人の記憶より間違いないもの。リンは存在するはずなんだ。
リン、君は今どこにいるんだ。急にいなくなった事は怒ってないからまた出てきてくれ。せめてあの時は泊めていただきありがとうございました、と礼を言いに来てもいいじゃないか。気がつけば彼女がどんな声だったのかも曖昧になってきている。もっと話しておくべきだった。
窓を開けた時、外に出た時、秋の訪れを感じる風が吹く度に俺は彼女の事をいつも思い出す。またこの風に乗ってやってきてはくれないだろうかと。
そんな一陣の風のようにあっという間に過ぎ去った不思議な人との出会い。これから俺は彼女の影を追って生きる事になる。
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