第三章「ふたりのマリア」1-2

 真里は仕事を終え自宅に戻ると部屋着に着替え帰りにコンビニで買ってきた缶のウーロンハイを手にiPhoneのカメラで自分の姿を写真に収めそれをツイッターに上げる。真里のツイッターのフォロワー数は25048人、自撮り写真を上げれば一瞬にして三桁のいいねが付く。芸能人というわけではなく普通にOLとして働く真里であるが大学生時代からこのような事を続けていてその積み重ねの成果である。時にはバズると言われる現象も2、3度、経験している。もちろん飛び切りの美人であるが故、気持ちよくできることである。インターネットが欠かせない今のご時世、個人が容易に情報発信できるようになったので様々な人の目に止まる、真里も男であれば見とれてしまうような写真をネット上に上げ続けた結果、今ではプロカメラマンから撮影の依頼があったり、1年前はとある雑誌のモデルも努めて、その気になれば副業としても成立する可能性がある。

 突如、真里の頭にの激痛が走った。それは張っていたくだのようなものが引き千切ちぎれるれるような痛みで、続けて何か勢い良く頭を突き破ったかのような痛みが襲う。頭の中では液体が漏れるているような気持ち悪さも残る。

「くっ、いったーなに、今の?」

 その痛みは数分で消えたが今まで感じたこともない痛みにやや不安が過ぎる、そして間もなく頭の中で得体の知れない何かが巨大津波のように押し寄せてきた。

 走馬灯のように次々と少し色褪せた映像? 写真が脳裏に映し出される、それはとても懐かしい気がした。それが十秒続いた、最後にサングラスをかけた若い男の姿が鮮明に、遠くからものすごいスピードで迫り来るように真里の眼前に押し付けられた。

「……きょ、恭ちゃん?」

 真里は思い出した、全てを、大事な記憶を。

「えっ、待って、恭ちゃんは? 恭ちゃんはどこに居るの?」

 激しく混乱する真里、なぜ恭ちゃん、磯村恭一郎が私の目の前に居ないのか。今、私の年齢は28歳、しかし真里にはどう見積もっても約10年前の記憶までしかないと脳が訴えている。

 10年前? そう認識した時にとてもそんな長い期間、経ったとは思えない新鮮さがあった。まるでこの記憶だけ冷凍保存されて鮮度を保ち続けたかのようにすぐ昨日の事のように次々と思い出す事ができる。逆に2、3日前に何を食べたかと聞かれた方が答えに詰まる。それでも、10年の月日が経っていた。

 それからの日々は? それがない。もう訳が分からなかった。急いで磯村と連絡を取ろうとiPhoneを手に取るが磯村の連絡先が見つからない、これはどういうことだ、私達二人はのに。

「LINEも交換した記憶がないよ」

 無邪気に、涙ながらそう呟く。まだ事の重大さを完全に受け止め切れていない様子だ。一旦、深呼吸して落ち着いてみることにした。

 先ずは、磯村を知っている人物はと探して聞いてみる事にした。が、高校時代の友達で今でも有効な連絡先を知っていて、連絡を取り合っている人は少なかった。原口えみ、こいつはよく知らないであろうと一蹴。

 そこに大学時代からの友達、西田麻里の名前を見るとこれだとパァと笑顔になる。西田なら磯村と会ったことがある、とりあえずは覚えていた。

 夜8時過ぎ、早速、LINEを使い電話をする。現在、西田は写真家、ウェブデザイナーとして働いており確かモデルとして磯村を今後も使っていきたいと言っていた覚えがあり近況を知っている可能性は高かった。だんだんと記憶の欠片が浮かび上がってくるかのように次々と細かいところまで思い出してきていた。

「あっ、麻里、私。あのさぁ、急に変な質問するけど、恭ちゃんって今、どこにいるの?」

「きょうちゃん? 誰それ」

「あっ、ごめん。ほら、磯村恭一郎っていう、私と付き合っている……」

「……ま、まさかっ! 真里っ、思い出したのっ?」

「えっ?」

 西田の声は電話越しからでも圧なるものを感じ、それに押されて後退りしてしまいそうになる。

「本当に、磯村さんの事を、思い出したの?」

「うん、そう……思い出したんだと、思う」

 念を押して確認する西田。そう、私は恭ちゃんの事を今まで忘れていた、ようやく他人から言われて明確に自覚するようになった。西田は深い落胆のため息をしている、それがはっきりと伝わった。

「何から話していいか分からないけど、とりあえず一番大事なことを言う。磯村さんはもう亡くなった、ちょうど去年の今頃にね」

 少し強い風で窓が揺れる音がガタガタと鳴り響いた、真里も西田もその後は一言も喋らない。

「えっ? なくなった……」

 ようやく真里かたら出た言葉がこれだった。なくなった、の意味もいまいち理解していなかった。西田は何と返していいか上手い返しが思いつかなかった、また暫く沈黙が続くが、力を振り絞り今度は西田が沈黙を破る。

「気持ちは分かるけどもう一度、言う、磯村さんはもうこの世にはいない。これは揺るぎない事実」

「いないってそんな事、私、今まで知らなかったよ」

「そりゃあ、そうだよね。さっきも言ったけど真里は、もう10年前になるのか。ある日、突然、磯村さんだけの、記憶を失くしてやむなく別れたっていう経緯があるの。もちろんなんで磯村さんだけの記憶が失くなったかなんて原因は分からない」

 それを聞いて、なんだか頭の中の記憶が再び整理してくれているのか、外れていたパズルのピースをはめるように再び構築され始めた、順を追って思い出される感覚になる。

「あっ」

 右手を側頭部に付け髪の毛を掴んだりと、せわしなく動き取り乱す真里。怯えた、冷たい目で磯村に向かって、別れる事を同意したあの日。「なんであんな事を言ったの?」頭に浮ぶ自分を急いで制止したい衝動に駆られる。

「わたし、恭ちゃんに、なんてひどい事を……」

 泣いているのが分かる。前にもこんな事があった気がする。それをまた繰り返す日がくるとは。しかも真里が負っているダメージはあの時の比ではないだろう。

「うん、気持ちはすごいよく分かるよ。でも真里はなにも悪くない。悪いのは磯村さんの記憶を奪った神様だよ」

 やがてしばらくおさまりそうにないくらいに泣き叫んだ。それを電話越しから聴く、じっと黙っている西田。もっと早く、なんでもっと早く、記憶が戻るなら、なんでもっと早く戻ってくれなかったのか。磯村がこの世にいない今、もうこのままでいてくれた方が真里も平穏に暮らせていたはず。この運命の悪戯を西田は心底、恨んだ。誰にこの怒りをぶつければいいのか分からないからよりたちが悪い。

「磯村さんは、皆から愛される存在だったんだよ」

「えぇ……」

「真里が知らない事を話すと、磯村さんはあの後、音楽活動を始めたの。それが思った以上に人気が出て、それで多くの人を魅了していた。だから悲しんでいるのは真里だけじゃないの。全国の、私は顔も名前も知らない多くの人達が今の真里のように泣いていた」

 西田から磯村のここまで歩んだ人生を教えてもらった。ネットで調べてみると真里は見たこともない衣装でステージに立っている様子の写真やミュージックビデオがある。

「真里も磯村さんが書いた詞の曲、聴いてごらん。私でも初めて聴いた時、泣きそうになったんだから、きっと真里なら大変なことになると思うよ」

 その言葉通りにYouTubeで公開されている曲を聴いてみた。最初に作ったとされる曲。再生数は30万以上の数字であった。

 ドラムのタム回しのような音から始まり、甲高いギターの音が鳴り響く。イントロが20秒ほど続き磯村の歌声が聴こえてきた。

 思えば一緒にカラオケをした事がない。磯村の歌声は聞くことはなかったので一瞬、真里の記憶にある声と雰囲気が違ったので違和感を感じたが、1番の歌詞を聴けばもうこれは磯村の声だと納得できるまで慣れた。もうこの世にいない人だけど、声だけでも聞けるのはそれだけで心を落ち着かせる。そして西田の言葉の意味が分かった。この歌の作詞は磯村。その一節。

 

 叶うのなら時を飛び越え 抱きしめたいとただ願う 記憶の中に居る君を――


 なんでこんな詞を書くのか。間違いなく真里、私の事が未だに忘れられないと歌っている。

 一つの曲として素晴らしいのは再生数を見れば分かる。だがこの曲を生むために負った傷は計り知れない。磯村は見事にそれを音楽として昇華させたのだ。

 こんなに彼氏が傷ついていたのになんで今から傍に行ってあげられないのだろう。それで今度は再会できた喜びの歌を作ってほしかった。

 真里はここまで辿った磯村の軌跡を隈なく追っていた。まだ残されているツイッター、インスタグラムのアカウントの投稿も全て。

 その過程でもう一つある意味、ショッキングな事実が分かった。磯村は別の女性と交際をしており、2年前に婚約までしたらしい。お相手は同じミュージシャンで『あおい』という名前で活動している。写真を見るとボブヘアーで年齢のわりに大人っぽい綺麗な女性という印象を持つ。真里の方が実際は3つ歳は上だがこのあおいの方が年上と思われても不思議ではない。

 人気女優の朝倉あおい、婚約を発表——そんなタイトルのニュース記事もある。どうやらそれなりに有名な人物らしい。タイトルの通り最初は女優として名が知られており途中から音楽活動にシフトチェンジした、そんな経歴がみて取れる。

 磯村はこんなにも綺麗な女性に寄り添ってもらっていたのか。本来であれば彼の隣には自分が居るはずなのに。強烈な嫉妬心が芽生える。

 その真里はというと誰とも付き合う気にはなれなかった。そう、それはあの一件をずっと引きずっていたからだ。

 覚えていないのにキスをした、服を脱ぎ散らかして喘ぎ声も上げた。同意した記憶がないのはレイプされた気分と同等であった。この体にはきっとその跡がある、そう思うと当初は発狂しそうにもなったと覚えている。

 もう男の人を素直に愛せなくなっていた、もしかしたら記憶を失くした自分は磯村を恨みもしたかもしれない。本当はなにも悪くなくてもこの怒りを誰かにぶつけたかったがために。

 真里の人生はあの日、壊された。そして再び記憶が戻ってもその粉々になった心はさらに踏みにじられて修復は不可能であろう。

「もう私も消えて、いなくなりたいよ」

 そう枯れた声で吐いた刹那、この感情は前にもどこかで抱いた事がある。また一つ埋もれていた日が蘇る。

 暗闇の中、小さな神社で——

「凛」

 真里は磯村を救うため過去へ遡った。そんな事ができたのは結城凛という未来人と遭遇できたからだ。

 記憶が失くなっていたのは磯村だけではなかった。もう一人の、大事な記憶も失われていた。それが意味する事とは……。

「凛、そうだよ、凛がいればまた恭ちゃんを救うことができる。ねぇ、見ているんでしょう? 言ったよね、未来人が過去を監視しているって、なら」

 まさに時を飛び越えてへやって来た真里は取り憑かれたように、また磯村を助けると躍起になる。が、凛が再び現れる事はない。

「ねぇ凛、どうしてきてくれないのっ!」

 椅子から立ち上がり部屋の天井を見上げながら、叫んだ。

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