番外「夢を見つけた者」

 去年の夏、磯村が言った。

「皆、何しに大学へ行くんだろうね、その目的がはっきりしている人をあまり見たことがないよ」

 久しぶりに中学生時代からの友達、磯村恭一郎と会った永井裕太郎ながいゆうたろうはこの言葉に深く共感した。そしてそっと胸に手を当て自分のやりたいことを確認したのであった。


 年が明け4月下旬。磯村に去年、夏休み中に借りたゲームソフトを返したいということで裕太郎は磯村の住むマンションを訪れる。

「久しぶり、といっても去年の夏に会ったか。珍しいね、1年以内に借りたゲームソフトを返したいって言ってくるなんて」

「4月から進学して本当にこれから忙しくなりそうだから、今のうちに返そうと思ったんだよね」

 玄関から磯村の部屋へ移動する。両者、床に座るとそこにはいつも陽気な雰囲気を崩さない裕太郎が真剣な面持ちで話を始めた。


 時は少し遡り3月初旬。専門学校への進学が決まった裕太郎は学校から提示された課題に取り組む。その一つに30秒以内の自己アピールを録音して提出するというものがある。このためだけにパソコンに繋いで録音できるマイクを買いその課題に取り組む。

 言いたいことであればたくさんある、最初に考えた内容を文字に起こし試しに録音してみると時間が30秒もオーバーしていた。これで駄目なら何も言いたいことを言うことができないに等しいと頭を抱えた。

 自分の録音した声を初めて聴いてみた。第一声が発せられた瞬間にイヤホンを勢いよく取り外した。信じられない顔でイヤホンを凝視する。これが自分の声なのか、祐太郎は絶望した。

 何の根拠もなく自分はそれなりに良い声だという幻想を抱いていた、まさかこんなに粘っこく、濁っているような声で、聴いていて気持ち良い声ではなかった。

 言いたいことも大事だがせめて自分が聴いていられる声に近づける、そこから取り組むべきだと個別の課題に先ずは挑んだ。

 改善点その一。音程があまりにも低すぎた。いつもバイトしている時の声で、「いらっしゃいませ」と言ったのを録音して聞いてみるとやる気あるのかと自分で自分に喝を入れたくなった。まだ入りたての頃ドレミの、ミかファの高さでとアドバスされた意図がようやく分かったと感心した。

 改善点その二。透き通るような声を、そんな理想も掲げた。発声する時に喉から言っているようだった。よく聞く腹式呼吸で、お腹から声を出す。マイク越しからでも声を出す時、意識を下へもっていった。

 その二つを意識してもう一度、録音すると「おぉ」と思わず声を上げたくなるくらいに改善されていた。やっぱり音の高低は大事だった、ここを変えるだけでだいぶ違う。

 気がつけば課題を始めてから2時間は経っていた。30秒の自己アピール、直ぐに終わると思っていた。もうこの時点で自分は大変な道を選んだと痛感した。もう少し時間はかかりそうだった。早くも甘く見ていた祐太郎は気が沈みそうになった。


「初めまして永井裕太郎と申します。僕のことを簡単にお話しますと何をするにしても中途半端だったと思います。そんな僕にも胸を張って誇れるものができました。それは夢があることです。この夢に対する想いなら誰にも負けません、これからこの夢に向かって突き進んで参りますので、どうぞこれから宜しくお願いします」

 録音停止ボタンを押した。時間は28秒、なんとかギリギリ収まった。これで良いのかどうしても首を傾げる内容だったが30秒という制限を考えるとこれしかなかった、先ず自分が言いたいことがこれなのだから。

 夢がある、なんて素晴らしい響きなのだろう。キング牧師の名言、私には夢があるも連想させた。間違いなく今が一番、人生の中で活力に満ちている。親から、学校から言われるがままに勉強、部活、それに委員会までやってきたここまでの事を思えば。

 そんな親には、今は自分のやりたい事を聞き入れてくれてスタートラインに立たせてくれたことに感謝をしている。部活内にも同じ夢を抱いていた人はいた、しかし親の許可が得られず学費を出してくれずに今は諦めざるを得ない人も見てきた。

 自分は恵まれていると胸に沁みつつ、聞き取りにくい所はないかの滑舌チェック、次の言葉へ移るまでの間は大丈夫か、録音された音声を何度も聴き直した。


「えっ、俳優を目指すの?」

「そうなんだ。磯村が言ってたじゃん。何の目的も持たない人生ってどうなんだって。俺にとってその目的は俳優になることだって気がついたんだ」

「あぁ、そんな事言ってたかもね。そうか、ちゃんと真剣に受け止めてくれたんだ。こんなこと言っても困った顔されるだけだから意外だったよ」

「俺の胸には響いたよ。やっぱり一度きりの人生、後悔したくないって」

「親は許してくれたんだ」

「うん、やっぱ最初は戸惑っていたけど俺が熱心に説得したら」

「そっか、でも裕太郎が高校に入って演劇部に入ってたとは」

「最初はあんた面白そうだからお芝居やってみない? とか言われて足りない人数を埋めただけなんだけど思いのほか楽しくなってね」

「応援しているよ、頑張って」

 やっぱり演劇に興味がなくても磯村は素直に応援してくれると言ってくれた。教えて良かったと心から思う。磯村の言葉が背中を押してくれて決心したことなので言うべきだと思っていたが、もしかしたらそんな厳しい世界を目指すのは止めた方がいいとか言われる可能性も頭に入っていた、そんなとはなく安心した裕太郎。今でもたまに会って付き合いを続けている理由はこういう人だからだと思う。

 そういえば磯村の卒業後を聞いていなかったことに玄関の扉を開けた時に気がついた。後ろを振り向き何か、言葉を言おうとした時には扉は閉まってしまう。仕方がない、それはまた今度会う時でいいかとマンションを後にした。今は親に、演劇部の皆に、磯村に俳優になった自分の姿を見せると誓い、その実現に向けて集中することにした。

 すっかり暗くなった空を見上げた。そこには満月が浮かび上がる。あの月を目指すかの如く、祐太郎はこれから長い旅に出る。本当に届くのか? 祐太郎は空に、月に向かって手を伸ばしたくなった。

 限界まで手を伸ばしてみて脇がピンと張っているのが分かる。顔を少し歪めた。

「はぁっ」

 そう息を吐きながらストンと腕を落とした。そして前を見る。祐太郎は早歩きでマンション敷地内を出て行く。目の前にある公園内に入ったところで地面を蹴り走る。

 その眼に迷いはなく自信と掴んでみせるという気持ちで体は充満していた。

「やったるぜっ!」

 ハードルを飛び越えるように、でも気持ちは空高く、ジャンプしながら恥かしげもなくそう言い放った。



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