第21話 声

 4階のガラス戸の向こうには、9階にあったのと同じような事務机がふたつと、空っぽの棚がひとつ置かれていた。隠れ場所になりそうなものが残されていることに、僕は少なからずほっとした。

「誰もいないかな」

 大友さんが呟いた。まるで、誰かいてほしいみたいな言い方だなと僕は思った。

「さぁ、一応見てみないとわかんないけど……」

 僕が大友さんの方を振り返ってそう言ったとき、アキが「あっ!」と声をあげた。

「おいおいおい、今いただろ!」

「しーっ!」

 僕は慌ててアキを止めた。アキはバチッと音を立てて両手で口をふさいだ。

「いたって、何がいたんだ?」

 ナルが尋ねると、アキは2回ほど深呼吸をしてから口を開いた。

「6階で見たみたいなやつだよ。影みたいなものが、机の影に隠れたんだ。下の方に、ヒュッて沈むみたいにさ」

 そう言って指さしたのは、並んだ机のうち向かって右にある方だった。

 ナルが「フーッ」と音を立てて息を吐いた。

「よし、見て来る」

「ぼ、僕も」

 何があるのかわからない方がいやだ。そこに何がいるにせよ、少なくとも「門の花嫁」よりは怖くないものだろう、と僕は勝手に思い込んだ。

 僕とナルは、両側から机の裏に回り込んだ。思い切って飛び出すと、ナルとぶつかりそうになった。

「うわっ」

 僕たちはお互い頭を打つ寸前で踏みとどまった。そこには誰の姿もなかった。

 ナルが机の下を覗き込む。

「誰もいねーんだけど……」

 その声に、アキが「ほんとにいたんだって」と悲鳴のような声をあげた。

「また消えたのかもしんねーな。何せよくわかんねー……」

 ナルの言葉を遮るように、突然バタン! という音がした。

「何だ!?」

「トイレ!」

 大友さんがつい大声を出して、慌てて口を手で覆った。

「ごめん、トイレのドアが勝手に開いて、閉まったの」

 僕たちはトイレの方を向き、それから互いに顔を見合わせた。

「……い、行くよな」

 ナルが行きたくなさそうに言った。

「うん……」

 僕も行きたくなかったが、そう答えた。今こうして追いかけている「何か」が、さっきアレックス・アーヴィングの服を残していった何者かと同じものだとすれば、また何か異界に関するものを置いていったのかもしれない。それが何かしらの手がかりになるかもしれないと思うと、確認せずに3階に進むことはできなかった。

 僕たちは一塊になって、トイレのドアの前にやってきた。

「なんか聞こえる」

 桜ちゃんが泣きそうな声をしぼり出した。

「中からなんか、声みたいなのが聞こえるのぉ」

 僕も耳を澄ませてみた。確かにドアの向こうから何か音が聞こえる。でもそれは、さながら尖ったもので黒板をこするような、キーキーという耳障りな音にしか聞こえなかった。

「しゃべってるように聞こえるの?」

 僕が聞くと、桜ちゃんは唇をぎゅっと結んで強くうなずいた。ナルとアキは首をひねっている。

「ねぇ、その声が何を言ってるのかわかる? 桜、耳がいいからさ」

 大友さんがなだめながら尋ねると、桜ちゃんはぎゅっと目を閉じた。

「……ゆーがいずって言った。あとなんかまだ言ってる……」

 ゆーがいず。

 僕はふと思いついて、床にしゃがむとナップザックからペンを取り出した。亮ちゃんのプリントもポケットから引っ張り出すと、裏面を広げて床に置いた。

「桜ちゃん、聞き取れる言葉があったら教えてくれる?」

 桜ちゃんは「う、うん」と言いながら、何度も細かくうなずいた。

 皆、僕の意図を察してくれたのか、一言も口をきかなかった。僕たちはまるで巫女の託宣を聞くように、桜ちゃんが話すのを待っていた。

「ふー……でぃーど……」

 桜ちゃんは何度か同じ言葉を繰り返していた。僕は彼女の口から出た言葉を、なるべく知っている英単語に落とし込もうとした。もしもトイレの中にいる誰かがさっき言った言葉が「you guys」だとしたら、そいつは英語で僕たちに呼びかけたのかもしれない。異界の公用語が英語とは思わないけど、向こうには英語圏の住人が行ったままになっているじゃないか。言葉が通じる可能性はある。あってほしい。

 僕はペンを動かした。

「you who wish did in you one of you who did you guys did who you in wish did」

 語順がめちゃくちゃだ。聞き取りにくいところもあるのだろうが、てんで文章になっていない。でも、単語をならべていくうちに、なんとなく相手の言いたいことがわかってくるような気がした。

「君たち……誰が願った……?」

 僕の頭の中に、「who did wish ……」と文章が形を結び始める。

「おいおいタツノ、こいつ何か意味のあることしゃべってんのか?」

 僕の肩越しにナルが紙を覗き込んだ。「全然わかんねーんだけど」

「僕も英語ができるわけじゃないから、たぶん、で聞いてほしいんだけど」と言い訳してから、僕は続けた。

「『君たちのうち誰が願った?』って言ってるんじゃないかと思うんだけど」

「願った? なにを?」

「それはわかんないけど……」

「願えば何か起きるのかよ?」アキがうんざりしたように言った。「願うだけだったら俺、全然もうやってるよ。頭の中で超祈ってるよ」

「ねぇ。願うって、魔法陣と関係ある?」

 大友さんが言った。

「屋上でさ、魔法陣の上で『異界に行きたい』ってお祈りしたじゃない。あれじゃない?」

「あれだとしたら、魔法陣の上での願い事は効くってこと?」

 思わずぽろっと言ってしまってから、僕はまた(とんでもないことを口に出してしまった)と思った。

 大友さんの目が大きく見開いていく。アキがぽかんと口を開けている。

 ナルがドカンと音をたてて、リュックサックを床に置いた。

「おっ、おい、じゃあさ、叶うんだったらやってみようぜ!」

 勢いよくジッパーを開け、中からクリアファイルを取り出す。

「な、なにを?」

「何をじゃねーよタツノ! 魔法陣の上で願ったことが叶うとしたらだ、もう一回やってみようぜ!」

 そう言いながらナルは、クリアファイルをバンバンと叩いた。

「この上で願うんだよ! 元の世界に戻りたいって!」


 今思えば、「藁にもすがりたい気持ち」というのは、まさにこのときのことだった。

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