第20話 4階へ

 しばらくまともに声が出なかった。荒い息を吐く自分の声が、他人の声みたいに聞こえた。

「おい、タツノ」ナルが僕の足をつついた。「タツノ!」

 ふくらはぎをバンバンと叩かれた。体に血が通い始めたような気がする。

「だ、大丈夫。僕は大丈夫だよ」

 僕はやっとのことで体を起こし、メガネを外して涙を拭いた。

「ほんとに大丈夫かよ」

「顔色やべーぞ」

 ナルとアキが、口々に僕を心配してくれた。ブルーシートを少しめくって、カナヅチを握った大友さんが顔を出した。

「行っちゃったの……?」

「ああ、うん。上に……」

 僕はそう言いながら、さっきの女性のことを思い出した。廃ビルに似つかわしくないクリーニングしたてのような真っ白なドレス。もつれた黒髪。そして後頭部にあった顔。引きずっていた重そうな、大きな袋。途端に脳みそが引きつりそうな恐怖が襲ってくる。

「頭の後ろに顔があったんだよ……顔が……」

「おい、タツノ。何言ってんだよ、マジで」

「呪文集に描いてあったやつだ!」自分の中で、突然タガが外れたような感覚があった。僕は一気にしゃべった。

「あれが『門の花嫁』だよ! あの呪文集は本物だったんだ!」

「まず落ち着けよ! お前、いつものタツノじゃねーぞ」

 ナルが分厚い手で僕の肩を叩いた。「何がいたんだ?」

 僕はできる限り、見たままのことを皆に伝えた。でも恐怖で興奮してしまって、うまく説明できていたかどうかは自信がなかった。

「何なんだ? そいつ」と、顔をひきつらせてアキが言った。

「タツノの話じゃ、確かに本に描いてあったのと似てるかもだけどさ……何引きずってたんだろ」

 アキの顔には紛れもなく恐怖が浮かんでいた。僕にも、彼が何を怖がっているのかよくわかるような気がした。確認はしていないけど、おそらく僕もアキも、あの頭陀袋には人間の死体が入っているんじゃないか? と疑っていたのだ。

 あの袋は僕らみたいな子供ならすっぽり入ってしまいそうな大きさだったし、ひきずっていく音の重さも、そんな雰囲気を醸し出していた。加えてあの赤黒い染み……あれは血でできた染みなんじゃないだろうか。ズタズタに切り裂かれたアレックス・アーヴィングの死体が、あの中に入っていたら……と思うと、僕は体の中心がズンと冷たくなるような気がした。でも僕もアキも、「あの袋には死体が入っていたんじゃないか」なんて、怖くてとても口には出せなかった。

「そんなこと、今考えたってわかんないよ」

 大友さんが言った。

「私たちは下に行かなきゃ。その女の人が上に行って、今は誰も階段にいないとしたら、チャンスだよ」

 僕は大友さんと、桜ちゃんの顔を見た。小さな手を握り締め、唇をかみしめて、桜ちゃんはただ黙っていた。この子はよく我慢しているな、と思った。おかしなことが起こり始めてから、彼女は泣いたり、進みたくないと言って駄々をこねたり、一度だってしていない。僕が小学1年生だった頃、そんな風に振舞えただろうか?

 長袖を着た彼女の腕が目に入る。そのとき、僕はようやく「寒い」ということを思い出した。まるで着て来る服をうっかり間違えたみたいだ。

「桜ちゃん、大丈夫?」

 アキが心配そうに尋ねる。

「大丈夫だよ。行けるよね? おねーちゃんが一緒だもんね」

 大友さんが優しく、でも強い声でそう言って、桜ちゃんの肩を抱いた。

 桜ちゃんは目に涙をいっぱい浮かべながら、それでも大きくうなずいた。

 外の音をよく聞いてから、僕たちはまた廊下に出た。

「ぐっ」

 ナルが押し殺した悲鳴をあげた。床に赤黒い帯のような痕がついていたのだ。それは階段を下から来て、上にのぼっている。ついさっきまではなかったものだ。「門の花嫁」が、染みのついた頭陀袋を引きずった痕に違いなかった。

 足先から、ぞわぞわと何かが上ってくるような感覚が襲ってきた。

 これから4階に行く。それから3階、2階、そして1階に……そこには一体何があるんだろう。

(もっと呪文集を読み込んでおけばよかった)

 今更ながら僕は思った。何があるのかわからないことが、今更のように怖くなってきたからだ。

(実物を借りればよかった。高い本かもしれないけど、亮ちゃんなら貸してくれた気がする。1冊丸々読めば、『異界を呼ぶ方法』には直接関係なくても、手がかりになるようなことが書いてあったかもしれないのに……でも、今はそんなことを言ってる場合じゃない)

 魔法の鉄球でしか倒せない、巨大なゴキブリが出ていないだけマシだ。そんな風に考えるしかない。

 僕たちは足音を殺し、なるべく床を見ないようにしながら階段を下った。


 4階に到着すると、「寒いな」と呟いてアキが身震いした。

「ほんと。それに臭いね」

 大友さんが小声で応える。古い血のような臭いは、4階につくと突然強くなって、誰の鼻にも届くようになった。

 4階のオフィスには、やっぱり誰の姿もなかった。9階にあったような事務机がふたつと、空っぽの棚がひとつ残されていた。

「は、入るよな?」

 ナルが皆を振り返った。

「うん……何かあるかもだし……」

 僕は他の皆の顔を見回しながら言った。

「……よし!」

 ナルは自分を励ますように強くうなずくと、4階のガラス戸の取っ手に手を伸ばした。

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