第17話  ペットクリニック

「そろそろドクターが来る頃ですよ。みんな手許の仕事を片しておいてね」

 動物看護師の湯原が指示を出した。


「今、手が塞がってるのトリマーの純子ちゃんだけですね」

「はい。あと五分以内に完成しますから」

 診察室の前室を作るカーテンを縫っている手を止めて、広げて見せた。


「どうやってくるんですか」

 これはバイトの高校生、橋詰久未はしづめくみだ。

「バイクで来るって言ってた」

「バイク! 格好いい外車とかじゃ無いんだ」

「無理ムリ。こんなとこのドクターってね、サラリーマンに毛が生えた程度のお給料だからね」

 湯原が指で示した奥の休憩室には、宅配便で送られてきた冬馬の荷物が置かれている。

 引っ越し便ではなく、宅配便で事足りる荷物が冬馬の生活の全てだ。

 Fujiハウス・ペット・クリニックではこんな風にして冬馬を待っていた。

 

「はじめまして。小田冬馬と申します。獣医師四年目になります。阪神地区でペットロスの問題に取り組んでいました。ですからこういう店舗のような運営ははじめてなので 皆さんに教えて頂きながらやっていきたいと思います」

 宜しくお願いします。そう言って相互に頭を下げた。


「では、自己紹介をして頂けますか」


「湯原涼子。動物看護師です。資格的には人の看護もできますが……。ここに来る前は宝永町の犬猫病院で七年。ペットショップに四年いました。その前は医療センターの救命救急です」

 意外だった。

 救命救急はスキルが高い。多分勤務時間と家庭とのやり繰りがつかなかったのだろうと冬馬は思った。

「ご主人と子供さんはどうですか。家庭環境も教えて頂ければ勤務に考慮できると思うのですが」

「主人は運送屋さんです。子供は上が女で中二。下が男で中一です。オス三歳のラブがいます」

「では、学校行事とかのときは遠慮無く休めるように就業規則を作りましょう。次はどなたですか」

「林純子と言います。トリマーですが、その前は医療事務の仕事もしていましたから、ここでは受付も私が担当します」

「橋詰久未です。高校3年。今はバイトですが、卒業したら正規にやとってもらえることになってます。何でもやりますから宜しくお願いします」


それぞれの紹介を受けた後、質問を相互にした。

「先生はどんな経緯でここにくることになったんですか」

トリマーの林純子が訊く。


 建物が完成したのは一週間前。スタッフが集まったのが三日前だという。

 スタッフの採用は、面接の日集まった二〇人の中から院長一人で涼子以外の二人を決めたのだと純子が言った。

「ビックリしましたよ。私の知ってる凄い美人でコンテストにも入賞したことのある独身のトリマーさん来てたのに採用されずに、高校生や私なんかを採用するんだもん。訳分からない」

 

 高校生の橋詰久未が、

「私は高校出たら、続けてここに勤めたいですって言ったからだそうです。大学行かないし。動物看護師の資格取って、結婚してもここで働きたいって思っています」


 湯原涼子が、「私は本院に入院してたんです。それで退院したとき、ここができるので来ないかと院長に誘って頂きました。あと院長に言われた事は『自分の経験に合わせて必要なものを効率的に配置して作業をやり易く』ということでしたので、先生と相談しながら配置をしていこうと思っています」と言った。


「一応基本的な道具と薬剤は揃えておきましたので、後からチェックをお願いします。必要な物はメモ書きでいいので私に。それを本院の事務局に提出しますので。お給料や会計のことも本院の事務局がやってくれます」

「分かりました」 

   

「僕はこのクリニックを、人と動物を元気にするための、今まで何処にも無かった動物病院に改装をしろと言われて来ました」


 冬馬が三年居た阪神地区では、近年ペットロスの問題が多くなってきた。

 それは高齢者が動物に癒やしを求める年齢とペットの生存年数の差の問題でもある。

 高齢者は心と力が弱ってきたところでペットをなくすので、強いダメージを受ける。


「そのとき取り組んだ『ペットの健康と人の健康の相乗作用についての一考察』という論文がここのオーナーの眼にとまったようで、私がここに来るきっかけになったようですね」


 涼子が「あの」と言って全員の顔をみた。

「実は私、院長先生に此処に努める正式なお返事してないんです」

 全員が驚いた顔で涼子を見る。

「それは何故でしょう。お給料の問題とか?」

「そうではなくて、先生がこのクリニックをどんなふうにしようと思っていらっしゃるのか、それを聞いてからにしようかと思っています。私の能力的な問題もありますから」

「ああ。成る程」

 たしかに動物の病院は、可愛いだけでは済まされない問題が多い。

 汚いの他に、危険でもあり、圧倒的に動物の死に関わる事が多くなる。

 前回の職場でも、犬に噛まれたり、従業員同士の軋轢があったりして辞めていった者が何人もいた。

 湯原涼子は自分の能力と言ったが、経験からみて、能力が不足しているということではないだろうと、冬馬は思った。

 


「僕は先ず職場というものはプロの存在する場所でなければならないと思っています。動物といえど命に関わる以上ミスは許されないからです。

給料を貰っている以上、責任というのはどの職域にも存在します。しかも責任の重さは給料の額に関係しません。次に職場とは絶対的に楽しくなければいけないと思っています」


 前の職場の経験から、そう言った。

「最後に、当然ペットたちにも、人間大好きになって貰いたい。楽しい、行きたいと思うクリニックでありたい。それにはそのペットには何が一番楽しいのかを知って、飼い主にアドバイスしてあげることが大事です。そのことを理解しない飼い主とは徹底的に対峙することも辞さない覚悟で臨みます。つまり、利益のために飼い主に迎合しません」


「先生」久未が手を上げた。

「ペットが楽しい事って、食べる事とか散歩じゃないんですか」

「うん。うん。確かにそのとおり。でもそれだけではないようにすることが出来るんだ。例えばね。凡そ生物には遺伝子や染色体で伝承された『性格』がある。それは判るよね」

「判ります」

「長くなるから今は簡単に言うけど、犬の中には厳しく躾けても、それができたときに褒められることでとても喜ぶ犬が居る。その躾はその犬にとって嬉しいことだけど、人間から見て虐待じゃないかと見る人も居るわけだ。では、何の教育も受けず、ただ食べて寝るだけの生活が楽しいのか。そんなことはないだろうってことだよね。基本的には動物は外が好き、犬は群れに従属して命令をされたい」


「あっ解ります。私の彼なんか、教養があるんでクラシックの音楽聴いて感動して泣いたりすることがあるんですよ。私なんか、なにそれってなものですけど。それと一緒ですよね」

 涼子が笑った。

「彼氏さんのこと。とても言い例えだと思う」

「うん。感受性が豊かでもあるんだね。あとね、何匹かの犬と猫をここで持っていて、ペットをなくした人に、貸してあげたり斡旋したりしようかなって考えています」

 涼子が大きく頷いた。

「ペットショップからクレームが出るかも知れませんね。でも決めました。私も一緒に働かせてください」

 一斉に拍手が湧いた。

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