第10話  海で――2

 雪江が泣き出したのは、消防の救急隊員から電話があり、救助された少年のバイタルが安定し親が到着したという報せを受けた後だった。


 容器に溜まった水がジワリとこぼれるように、目蓋に溜まった涙は、当の本人が気付かないうちに滲み出て頬をぬらし、タンクトップの胸に滴り落ちた。


 だから三人に割り当てられた部屋で一緒に居る尚美や霞子は、あの救助した少年が、雪江の何か大事な事情に繋がる者だったのかと思い、その事を訊ねた。


 雪江は「違うの。そうじゃなくて、あの子供を助けたときのヤス君達がカッコ良すぎて、どんどん好きになってしまうの」と予想外の事を言った。


「彼らって普段、優柔不断なところがあるでしょう。でもそれは私の意見をちゃんと聴いてくれてるから、キャパが大きいからそうみえたんだよね。彼らの本質って凄く決断力や行動力があるんだって、さっき、よく解った……そしたら今まで可笑しいって思ったことが全部理由があったんだって気がついて。……それなのに……それで、彼らともうすぐ離ればなれになるんだって思ってしまったもんだから……」そう言って「ごめんね。あなた達も同じだよね」と、涙を拭いた。

 

 尚美は冬馬の、愚直なまでの弱者への優しさと表に出さない芯の強さを。

 霞子は猛男の豪快な行動力と繊細な判断力、徹底して人を信じる強さを。

 それぞれ彼らのことを想っていたとき、雪江が「実はね」と言った。


「今日来たアンビ(Ambulance救急車)の隊員、運転してた方が高校の同級生なのね」

 観光客で賑わってこそいるが、それ程大きな町ではない。同世代なら殆どが知り合いと言ってもおかしくない。

「私、なんとなく彼奴あいつと結婚するのかなーって思ってたの。あいつ次男だしね。卒業のとき告られて、漁師になってもいいって言ってくれたから」


「そっちだったんだ」

「消防が結果報告までしてくるかなとは思ってたんだよ」

 尚美と霞子が顔を見合わせる。


「うん。でもね、会った時、ほんとに、なんっにも感じなかったの。懐かしいとも想わなかった。さっき電話で話したときも、ああ、そうですか。ご苦労様って感じだったし、最後に、俺、結婚したからって言われたときも、そうか。お目出度うって、それで? みたいな事言ってて。私こんなに冷たい人間になってると思ってびっくりした。そしたら、それ全部ヤス君のせいなんだよね。海で抱かれてキスしてから、それがわかった。ヤス君以外の男性なんかどうでもよくなってるんだ……私、どうしたらいいんだろう」


「ユキは最初から彼らにゆるかったからね」

 霞子は雪江を抱いて赤子をあやすように背中を叩いた。

「でもあいつらならしかたがないよね。よしよし。ユキの気持ちは凄くよくわかるよ。君は人を見る眼があるからね」

 霞子は同意を求めるように尚美に言って、

「そうね。取り敢えず卒業したらヤス君と遠距離してみたら?」

 霞子が自分と猛男の事を思いながらそう言った。

「それで消防の彼のように、いつか気持ちが離れていくんだったら、それはそれだけだったってこと。それでも今別れるより楽でしょ」

「ありがと、カスミ。元気出た。ママより頼りになる」

「やめてよ。同世代だから感じ方が似てるだけだよ」

 自分も猛男と似たようなことをしていることは言わなかった。今は先のことなど、どうなるかわからないのだ。 

     

 実際、彼ら三人による救助は群を抜いて鮮やかだった。

   

 最初に気がついたのは安幸だ。

 愛浜からデリバリーのドリンクを飲み終えた六人は、サマーベッドに寝転び微睡まどろみの最中だった。

 安幸が「おい!」と叫んで「遊泳禁止標識から指三本右」と言った。

 場所を示すために、自分たちだけに通じる方法を使ったことが、事態が切迫していることを二人に知らせた。

 猛男と冬馬が安幸と同じように目の前に右腕を伸ばして、指を三本立てる。

 人差し指の左端を標識に当てると薬指の右端辺りに水しぶきが上がった。

 それはバタフライで泳いでいるようでありながら、同じ場所から動かず、しかも不規則で弱々しくなり、飛沫が途絶えた。

 その周辺には人がいない。


 猛男が「要救助者だ」と叫んで真っ先に飛び出して行った。

 冬馬が「ヤスは指示を」と言い、猛男を追いかける。


 安幸は「人が溺れてる」と女性達に事情を説明し、「救助対象者をここに運ぶのでナオは場所を作れ、地理に詳しいユキはカスミを連れてAEDの準備と救急に連絡しろ」そう指示して二人を追いかけていった。


 猛男と冬馬が少年の右肩と左肩を、安幸が両足を抱えて駆け込んできた。

 尚美が準備したバスタオルの上に仰向けに寝かす。

 既に意識はなかった。

「呼吸なし。脈無し。心肺停止を確認」猛男の言葉に、直ちに冬馬が胸骨から心臓への圧迫を繰り返し、安幸が口から口へ息を吹き込み気道を確保する。


 三分ほどして雪江が戻り「救急連絡した。AEDすぐ来るから頑張って」と言った。

 霞子が「AED来たよ」と言って到着したが何も持っていない。

十秒ぐらい遅れて、四十過ぎと思われる男性が「俺の心臓が止まりそうだ」と言いながら、AEDを持って現れ、 少年を見て「水は吐いた?」と言った。

 霞子が「チッ」と舌打ちして「水なんか後でいいから、貸して」と、男の手からAEDを奪い取り、尚美がパッチの貼り付け位置をタオルで拭いた。

 AEDの説明・指示が長たらしく悠長に聞こえる。と言って苛立つ霞子を、誰でもが扱えるようにとの配慮で仕方が無いのだと安幸が言って落ち着かせる。

 震えていたと思われる心臓が、二発目で動き出した。程なく呼吸も自発が戻り、胃の収縮を察知した尚美が少年の顔を横に向けると、海水を吐きだした。

 救急車のサイレンが聞こえて、雪江が「誘導してくる」と走っていった。


  それが今からたった二時間半前のできごとだ。


 男女三人ずつ風呂に入り、着替えを済ませたところに、雪江の元同級生の救急隊員からの電話だった。


 ドアがノックされ、女性の「雪江ちゃん」と呼ぶ声がした。

「食事の準備ができたので、皆さんを居間にご案内して」

 

 居間は十八畳の和室だが、中央に長方形のテーブルを置いた和洋折衷で、椅子が八脚と、その前にそれぞれ膳が置かれていた。


 部屋の一面は日の丸と鮮やかな大漁旗が幾流も下げられている。

 床の間には天照大御神の墨書の軸と刀架が据えられ、刀架には刀、長脇差し、脇差しの三本が掛かっている。鍵のかかるガラス製のロッカーには散弾銃と、ライフル銃が入っているのが見えた。

 ここに住む者の強烈な個性を感じる部屋だ。


 三人ずつ向かい合わせに席に着くと、ステテコにダボシャツというスタイルの雪江の父親が、にこやかに現れた。

 霞子達には「こんにちは」と言い、猛男達には「初めまして」と挨拶をする。

「いつも雪江がお世話になりまして有り難うございます」と極めて真っ当な言葉を述べた。 

 俳優の中井貴一にどことなく似ているが、シャツの袖口から時折見える、色鮮やかな刺青が普通ではない圧力を感じさせる。


「この後で始める宴会にも出て頂きたいのですがね、そこではうるさくてまともな話しなどできなくなる。だからその前にゆっくりと、最上のマグロと鰹のたたきを味わって頂きたくてこの場を設けました。どうぞ召し上がってください。大トロ、中トロ、カマは一回目は何も付けないで。二回目はワサビ、三回目はマヨネーズで贅沢に。タタキはニンニクと塩だけで。ビールは止めて、酒は精米歩合35パーセントの地元の大吟醸を用意したので、最初はこれだけでやってください」


そう言って、「先ずは乾杯しましょうか」と氷で冷やしたボトルの栓を開け、一人一人に注いでまわった。

 安幸が「雪江ちゃんが日本酒好きな理由がわかった」と言った。

「ふふっ。実はそうなの。でも大学の近くにはこんな美味しいお酒が全然無いものだから」と、通販で取り寄せていることを知らせた。


「皆さんはこういう所は珍しいでしょう。何でも訊いて下さいよ。長期バイトも引き受けてますからね。いつでも言って下さいよ」

「パパ! やめて。私の大事な友達勧誘しないで」

 雪江が父親の口を押さえる。


 猛男が、「バイト料って幾らですか。多分お世話にはなる暇がないと思いますが、もし宜しければ参考に」と訊く。

「うちはいいですよ」

 雪江の手を押しのけ、子供を抱くように雪江を抱えて「おっ雪江ちゃん少し痩せたか」と言った。

 雪江は慌てて父親の膝から飛び降り「セクハラ親父」と罵る。


「45万」と言った。

「最初の三月は35万です。仕事を覚えたらそれから当分45万。資格を取って役付きになれば六十万と穫れ高の歩合です」

「凄いですね。でもキツそうだな」

「そりゃあキツいですよ。寝られないしね。本数が上がらないといつまでも海の上だ。だけど一年働くと五百万、六百万の年収だ。それにうちは三杯の船で補い合う。稼いだ金はストックしているから不漁のときにも強い」


「済みません、話しは変わりますが」

 つけすぎたワサビに鼻を摘まんでいた冬馬が水を飲み、手を上げて質問する。

「後であの刀を見せて頂きたいのですが、良いでしょうか」と言った。

「いいですよ。模造刀ではないと気がつきましたか。それほどの名刀では無いが包貞の業物です。刀に興味が?」

「実は剣道をしているのですが、竹刀と刀はどれくらい違うのか振ってみたくて」

   

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