第48話 観音像の頭上

 入り口から観音様の足元まで伸びる遊園地のメインストリートに立った時、コヂカはふと風鈴のような淑やかさを感じた。昨日も今日も雨なんて降っていなかったが、雨上がりの匂いを連れている。忘れられた観音様の足元には、艶やかな光の束たちが集まり、剥げかけた安っぽい白衣を灰色に照らしていた。




「クリヲネちゃん、ちょっと向こうに行ってもいい?」




 コヂカはヲネを連れて、観音様のほうへ歩き出した。割れたアスファルトの隙間から生えた雑草を、コヂカが踏みつけると、まるで泡あぶくのように白い光が溢れ出すのだった。観音様の足元には中に入るための案内所の跡があり、さながらアトラクションのような様相をしていた。ジェットコースターの前のように迷路状になった待機列の柵は、観音様に参拝する趣を完全に破壊している。それはこの遊園地がなぜ廃園になったのか分かるような、お粗末な光景だった。




「なんて眩しいんだろう」




 観音様の足元はこれまでにない強烈な光を放っていた。コヂカは手を目の前に当てて、光を遮る。




「これも人間の魂?」


「強い光だけど違うわ。この観音像に対する人間たちの意志みたい。意志を持っていた本人たちは観音像の存在を忘れて、意志そのものだけがここを彷徨っているのね」




 ヲネは光の束たちを見回しながら、コヂカの質問に答えた。懐かしさをまとってはいたが、コヂカが感じた淑やかさはこの光たちに中にはない。コヂカが諦めて離れようとすると、観音様の裏手にから薄っすらと光が漏れていることに気づいた。煌びやかで高邁だったが、どこか弱弱しい。




「人間の魂だわ」




 後ろからついて来ていたヲネがそう言った。肌が凍えるほど冷たく、胸が焼けるほど熱い。コヂカが感じたそのアンビバレントな感覚は、かつて彼女に抱いていた嫉妬と羨望が相反する感情に似ていた。




「シオンなの?」




 弱弱しく点滅を続ける魂にコヂカは言った。確認のために問いかけるような言い方をしてしまったが、コヂカはその野良魂が持っている雰囲気や無言の訴えから、シオンの魂であることは確信していた。




「彼女で間違いないわね。ただ今はかなり弱っているから、人間であったことも忘れてる」




 ヲネは魂をまじまじと見つめながら、何も言わないコヂカに向けて言った。こんな状態までシオンを追い込んでしまったことを、コヂカは深く反省する。




「まだ助かるかな?」


「まだ魂として形が残っているから大丈夫。コヂカちゃんがシオンのことを覚えていたから、魂の形が崩れなかったんだと思う」


「そっか。よかった」




 コヂカは大きく息を吐いて、シオンの無事を安堵した。これですべてが終わる。シーグラスの魔法も、カナタとの生活も、すべて。




「じゃあ魂を入れ替えるわね」




 ヲネはそう言って、シオンの魂を掴んだ。抵抗することなく手のひらに収まったそれは、まるで死期が近づいた蛍のようだった。




「うん、お願い」




 コヂカはシオンの様子をみながら、ヲネの肩に手をのせた。眩い光が瞳に飛び込んでくる。鼻にも鼻孔を突き抜けて喉を潤すような爽快な香りが充満する。そして温度も少しづつ消えはじめ、もう何もかも消えてなくなりそうなくらい光に包まれた。その時、どこからか聞いたこともない声が遊園地中に響いた。




『やめなさい。ヲネ』


「あっ」




 その声を聞いた瞬間、ヲネは驚いたように魂から手を放し、光はすぐに以前の明るさに戻った。ヲネから解放されたシオンの魂は、よろよろと漂いながら観音様の足元にある光の束の中へと消えた。




「クリヲネちゃん、どうしちゃったの?」




 コヂカが驚いてヲネに尋ねると、彼女は怯えるように観音様の頭上を見上げた。




「ヰネっ……」


「イネ?」




 コヂカもヲネの目線を追って、観音様の頭上を見上げてみる。そこにはすべてを吸収する黒い光が、人でも機械でもない姿をして、そびえるように浮いていた。コヂカはその存在に、なぜだか畏怖の念を抱かずにはいられなかった。




「それはあなたが苦労して手に入れた『雫』なのよ。もとに戻してどうするの?」




 黒い光は女性でもあり、男性でもある声で言った。その風体はすべての常識を超越している。




「誰かを消さなくても、コヂカちゃんの心は満たされた。だからすべて元通りにするの。『雫』は残らないけど、ヲネはコヂカちゃんの心を満たしたんだから消えることもない。エコウとしての役目は果たしたわ」


「『雫』をひとつでも生み出さないと、私たちエコウは生きていけない。そう教えたはずよ」


「そうだけど。エコウの一番の役割は人間の心を満たすことじゃなかったの?」




 ヲネは少し怯えながら、黒い光に向けて言い放った。状況が飲み込めていないコヂカは、小さく横でヲネに尋ねる。




「あれは誰? いったい何者なの?」


「俱利伽羅ヰネ。ヲネたち見習いのエコウをまとめている、先生でもあり、親でもあり、上司でもある存在よ」


「つまりクリヲネちゃんたちの親分ってこと?」


「そんなものだと思ってくれていいわ」




 ヲネはヰネを睨みながら、コヂカの問いに答えた。ヰネはヲネの諭すように優しく、しかし威圧的に言った。




「ヲネ、それは方便なのよ。たしかに私たちエコウの役割は人間の心を満たしてあげることだけれど、無欲で無私な人間に施しを与えるわけじゃない。人間の欲望を利用して、輪廻からあぶれた魂を『雫』に変えなければ、ただの慈善家と同じになってしまうでしょ。魔法の対価はきちんと受けとらないと。それも以前、教えたはずよ」


「そうかもしれないけど、だからって……」




 ヲネは言葉に詰まった。するとコヂカが声を上げた。




「クリヲネちゃんは間違っていないと思います。私なんかの心を満たすために、精一杯頑張ってくれたんです。そこまで『雫』が必要なら、私の魂を差し出します」


「だめよコヂカちゃん!」




 ヲネはコヂカを守るように、彼女の発言を制止した。ヰネはコヂカをからかうように高笑いを浮かべる。




「海野コヂカ、あなたの魂はいらないわ。だって、誰もがその存在を覚えているのですもの、活きが良くて、とても『雫』にはならない。私たちが欲しいのはね、忘れられて今にも消えてしまいそうな弱い魂だけなの。かわいそうな佐藤シオンの魂は、死者として見送られて輪廻に戻ることもできずに、ただ忘れられたまま『雫』に変わろうとしている。忘れられるということは、生きている人間にとって最も死に近い状態だわ。そこまで佐藤シオンを追い込んだのは、ほかならぬ海野コヂカ、あなた自身なのよ」




 ヰネの言葉は残酷にも、コヂカの胸を貫いたかに思えた。コヂカは少しの間、目を瞑り、しばらく何も言わなかった。

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