第31話 夢の話

 しかしもちろん、失った存在もある。コヂカが何気なくLINEグループを開くと、仲良しグループのメンバーが3人だけになっていた。アイコンはコヂカと、カンナとマリ、それだけだ。そこにあるはずの、もう一人の名前がない。だが、コヂカは既にその存在を忘れかけていた。


失ったものと得たものの差があまりにも大きいためだ。カナタを得るために何を失ったのだろうかと探ろうとしても、古い感覚が胸に突き刺さりそれを阻む。だからきっとコヂカを苦しめる何かだったのだろうと納得して、それ以上詮索するのを諦めた。そんなことはもう、どうでもいい。かけがえのない存在を、コヂカは手に入れたのだ。




 朝ご飯を食べ終えて、身支度を整えると、玄関でカナタがコヂカを待っていた。たれ目気味の目じりはなんとなく姉に似ている。




「遅いよ、姉ちゃん」


「待っててくれたの? 先に行けばいいのに」




 コヂカがそう言うと、カナタは驚いた顔をした。




「え? だってうちの鍵を持ってるのって俺だけだし、それにいつもバス停まで一緒に行ってるじゃん」


「あっ、そっか。ごめんごめん」


「今日は寝坊もするし、姉ちゃんなんか疲れてるんじゃない?」


「あはは、そうかな……」




 言葉を濁して、コヂカはカナタと共に家を出た。バス停を目指して街を歩くころには、ヲネはいつの間にか姿を消していた。




 潮風が吹く街の通りは、これまでと変わらない。しかし、真横を6歳も離れた弟が歩いているので、コヂカはどこか遠い別世界に来てしまったような心地がした。小学5年生のカナタの方が、まだコヂカよりも背が低い。




「昨日ね、カナタの夢を見たんだ」




 どうしてそんなことを言い出したのか分からない。その言葉はコヂカの意志とは別に、気息を整えるように紡がれた。




「まじ? どんな夢?」


「カナタがいない世界の夢。私とお母さんとお父さんの、3人だけで暮らしてる」


「いないって、じゃあ俺はどうなっちゃったの?」


「分からない。でも、初めからいなかった。私は毎日学校に通って、普通に暮らしているんだけど、何かが足りないなあって幼い頃から思ってて、ずっとずっと長い間、その足りない何かを探してた。そんな時、小さな魔法使いの女の子が現れて、その子が、助けてくれたお礼に願いを叶えてくれるって言うから、私は足りない何かが何なのかを教えてほしい、ってお願いしたの。それから、夜のバス停で、とても悲しい事と嬉しいことが起こって、私はよくわからないことを叫んでた。でも、そこで目が覚めちゃった」


「それだけ?」


「うん」


「足りない何かって結局何だったの?」


「わからなかった。でも夢の中にはいなくて、現実にいる存在だとしたら、カナタの事なのかも」




 突然の姉からの言葉に、カナタは照れ臭そうに顔を逸らした。




「絶対に違うって、もっと大事なものだよ、きっと」


「大事なものって?」


「知らないけど、姉ちゃんが大事にしている『観音ワンダーランド』のパンフレットとかじゃない?」




 その瞬間、これまですっぽりと抜けていたかのようなカナタの記憶が、行き場を失った濁流のようにコヂカの海馬に流れ込んできた。驚いたことにカナタはコヂカの孤独な趣味を知り尽くしていて、しかもコヂカ同様の価値観を持ち合わせていた。廃墟を見れば憧れ、汚れたシーグラスに惹かれる。年の離れた弟は、コヂカの引き写しのような存在で、コヂカはカナタが急に愛おしくなってしまった。




「それは夢の中にも、ちゃんとあったから」


「じゃあ違うか、なんだろうね」


「もういいよ、お姉ちゃんにはわかったから」


「えっ、なに?」


「教えない」


「なんで?」


「言わなくても、そのうちわかると思うよ」


「何だよ、それ」




 言葉で気持ちを覆い隠さないことが、こんなに清々しいなんて。コヂカの足取りが、ちょっとだけ軽くなる。風を受けて坂を下るコヂカに、カナタは遅れまいと少し早足になった。




 小学校への分かれ道は、バス停の少し手前にある。カナタは分岐点まで来ると、コヂカを見上げて言った。




「じゃあ俺、こっちだから」


「まだバスの時間まであるし、近くまで送っていこうか?」




 コヂカが少し冗談交じりに言うと、カナタは恥ずかしさで嫌そうな顔をして




「いいって」




と返した。それもそうか、カナタはもう小学5年生。年の離れた姉に送ってもらう年齢ではないのだ。コヂカは




「冗談だよ、いってらっしゃい」




と手を振ってカナタを見送った。カナタとの十年間は記憶として残っているだけで、思い出としては消えている。事実が過去にあるだけで、コヂカの感情はそこには付与されていない。そんな気がする。




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