第25話 凪の問答

 カンナ、シオン、マリの3人が裏切ったなんて、にわかには信じられなかった。確かにシオンは以前から少し嫌味っぽいところはあったが、だからといって選挙でシグレに投票するなんて考えられない。ましてやカンナとマリが、コヂカではなくシグレに投票するなんてありえない。コヂカにとって3人との友情は、本当の自分を隠してまで守ってきた大切な繋がりだった。


 黒蝋くろろが溶け出したような夜のバス停で、コヂカは立ち尽くしていた。二人を乗せたバスはもう遠くに消えてしまい、あたりには波音がゆりかごのように優しく打ち付けるだけである。


ヲネはコヂカから少し離れて、背中の後ろで手を組みながら、何も言わないコヂカをもどかしく思っていた。証拠がないと信じられない、と言わんばかりの膨れっ面に、ついに痺れを切らしたヲネは、一指し指を三回横に回して、何もない空中から3枚の紙を出現させた。それはまるで昔からそこにあったかのように一瞬静止し、ぬるい夜風に吹かれながらひらひらとアスファルトに舞い落ちる。




「投票用紙よ」




 ヲネがコヂカの方を向かずに言った。ゆっくりと3枚の小さなわら半紙を拾ったコヂカは、それは確かに、あの日の選挙で使われた投票用紙であることを確認した。3枚とも「須坂シグレ」の欄に丸がついているが、もちろん無記名で、乱雑に描かれた丸の筆跡から誰かのものかを特定することはできない。コヂカはこんな紙切れ、早く破り捨てたかった。選挙ことはあまり思い出したくない。ヲネの言葉に素っ気なく、




「そうだね」




とだけ返事をし、




「だけど、3人のものじゃない」




と続けた。




「どうしてそう言えるの?」




 ヲネは意地悪にも首をかしげて尋ねた。このわら半紙3枚は、カンナたちのものであるという証明も、そうでないとう証明もされていない、悪魔の証明に似た様相をしてコヂカの手元に鎮座している。それでもコヂカははっきりとした口調でヲネに返した。




「絶対、違うよ。カンナとマリが私に入れないわけない。シオンだって、さすがにそんなことまでしない」




 ヲネはぷくっと風船のように頬を膨らまし、強いため息を吐いて、今度は風船を割るようにぽんっと頬をすぼめた。その時のヲネは残酷なほど真顔だった。




「人間って心の中を覗き見ることもできないのに、意味もなく他人のことを信じているのね」




 それは今、コヂカが一番聞きたくない一言だった。鋭い波音が暗闇を溶かしていき、コヂカはだんだんと暗がりに視界が飲まれていく気がした。


 違う。意味もなく他人を信じているわけじゃない。本当はカンナやカヅキたちの心の中を覗き見て、お互いに信じ合っているという証明がほしい。でも、それができないから、言葉を紡いで、時間をかけて慎重に繋がりを作るしかない。そうやってコヂカが2年間かけて育んだ3人との友情が、まやかしだったなんて信じられるはずがない。ヲネの言葉すべてを否定してやりたい。でも胸の奥底に堆積するコヂカの弱さが、それを許さない。




「本当は分かってるんでしょ?」




 ヲネは可愛らしく、言葉の牙をむいた。




「……」


「その投票用紙が、3人のものだってこと」




 波の合間を狙ったようにヲネがそう言って、どんな海鳴りよりも恐ろしい凪が訪れた。コヂカが握る3枚の投票用紙に、徐々にしわが入っていく。そうだ。はじめて手にとった瞬間から、この小さな紙切れがコヂカの体内に、3人の息吹のようなものを流し込み続けていたのだ。それはカンナの優しさであり、マリの元気さであり、シオンのしたたかさでもあった。そしてこれが、ヲネが作り上げた幻ではなく、本物の3人のものであることも、コヂカは知っていた。




「人間が触れたものには、すべて残り香のこりががある。投票用紙のような、明確な感情を持って触れられるものには特に強く香るわ。普通はエコウにしか感じられないものだけど、ヲネの魔法を何度も使っているコヂカちゃんなら別」




 これまで挫けまいと必死に保ってきたコヂカの全てが、瓶が割れるように粉々に砕けはじめた。




「……なんで、ねえ。なんでよ」




 カンナ。マリ。シオン。4人の友情は絶対だって、ずっと信じていた。嫌われまいと自分に嘘をついてきた結果、コヂカは裏切られた。理由はまだ分からない。ただ残酷な真実だけがそこにあった。


 その場でしゃがみこんだコヂカは、もう泣いているのかただ息を吐いているのかの区別がつかない。涙の粒が黒いアスファルトをさらに濃くしていくのを、時間から解き放たれて見つめていた。その間、ヲネが慰めてくれることはなかった。


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