お狐様、雨を降らせて

潮風凛

お狐様、雨を降らせて

 雨が降る。車軸を流したような大雨。

 夜半の山中。傘も差さず、闇の中へ溶け込むようにひとりの青年が佇んでいた。

 ひょろりと長い身体を薄汚れた着物で包み、特徴的な長い銀髪は豪雨の中でなおしっとりと輝く。僅かに顎を上げて空を見る瞳は、夜の闇よりも暗く澱んでいた。

 彼は何かに怒っているはずだった。ずっと、何かを許せないと思っていた。もう何に怒っていたのか、自分がどうしてこんなところにいるのかすら思い出せないけれど。

 雨は止まない。雨足は更に強くなり、視界は水底にいるかのように朧に揺らぐ。

 そうして、何も分からないまま曖昧な世界に溶けていくのだろうと思った時だった。


「はあ、はあ……。たす、けて……」


 雨の向こうから、荒い息遣いと小さな声が聞こえた。とさっという、軽いものが地面に落ちる音も。青年は初めて空から視線を落とし、自分のすぐ手前を見下ろした。

 どこから現れたのだろう。紅い着物の幼い娘が、泥だらけの小さな手で青年の袖を握っていた。……否、紅い着物ではない。誰の血だろうか、娘は全身を元の着物の色が分からないほどに紅く染めていたのだ。

 雨の中でも香る、鉄錆びた穢い血の匂い。娘は己の瞳さえも真っ赤に染めて、青年を見上げてただ「たすけて」と繰り返す。

 お前は誰だ。青年はそう聞こうとした。だが、娘がうわ言のように呟いたひと言にはたとその動きを止める。


「たすけて。ひとりはいや。みんなこわいの。たすけて。わたしはおにじゃない。なにもこわしてない。たすけて。

「……っ!」


 青年の全身がびくりと総毛立つ。その言葉を聞いたことがあった。昔々、多くの人に。

 そして、彼は全てを思い出す。請われ、慕われ、怒り、呪い。けれどいつしか彼は人々に忘れられて、このまま消え去る運命にあったこと。その寸前、娘によって繋ぎとめられたことを。

 血と泥に塗れた娘を見下ろす。青年の氷のような無表情に、薄らと笑みが浮かんだ。

 助けを乞う紅の瞳。そこに映る哀しみは、恐怖は、隠しきれない怒りと憎しみは、自分と同じものだ。幼子のか弱さとは相反する、抜き身の刃のような鋭さが青年を歓喜させる。彼女だから、彼女が求めたからこそ自分は今ここに存在している。そう実感できた。

 青年の、血の気の失せた腕が娘へと伸びる。細い指が長い黒髪をひと房掬い、赤黒い血が付着した頬を愛撫した。琴を弾いたような、艶やかで中性的な声が響いた。


「いいよ。助けてあげる」


 娘が顔を上げる。雨と涙に濡れる真紅の瞳をうっとりと眺めながら、青年は呪いのように小さな額に口付けた。


「私が一緒にいてあげる。その代わり、お前もずっと私の傍にいるんだよ?」


 何十年、何百年という時を重ねても。ずっとその背に、消えない業と罪と忌むべき記憶を背負ったまま。


 *


 ガタンガタン……。

 夕暮れの街を行く、電車の音が聞こえる。雨の駅、沢山の足が跡を残した泥だらけのホームで、わたしはベンチに座って手元の文庫本に視線を落とした。

 この駅は街で一番大きなもので、先程までは沢山の人が忙しなく歩き回っていたが今は殆どいなかった。ほんの数人が疎らに立ち、各々本や携帯端末に集中している。学生が帰宅するには少し遅い時間だが、かといって空気のようにホームの片隅で本を読む少女を気にする者など誰もいないだろう。

 わたしは一度文庫本に栞を挟み、スカートのプリーツが広がる膝の上に置いた。鞄にしまっていたペットボトル飲料の蓋を開けてひと口飲み、ブラウスの袖で汗を拭う。まだ夏の始めとはいえ、霧雨の夕方というのは存外蒸し暑い。先日駅の空調が壊れたなら尚更だ。

 頭頂で高く二つに結わえても肩に掛かり二の腕を叩く長い黒髪を手で掻き上げたわたしは、膝に載せた文庫本に視線を落とした。狐と少女が見つめ合う表紙絵を、そっと指で辿る。

 この本は、わたしのお気に入りの小説だった。何度も繰り返し読んでいる古い御伽噺。沢山の困難を乗り越え、想いを交わし合って、最終的に狐と娘が結ばれる物語だ。

 どうしてこの話が好きなのか、わたしは覚えていない。ただ、この物語を読んでいると胸がぎゅっと苦しくなる。雨に隠された花嫁行列で、互いに愛しさだけを与え合う二人が何だか羨ましくて……。

 その時、揺れる振動とともに雨の匂いを含んだ風が構内に吹き込んだ。もう一本、ホームに電車が来る。そろそろ終電。


 ――ガタンガタン、ガタンゴトン……。

 ――次は、××駅。××駅。間もなく電車が発車致します……。


 無機質なアナウンスと共に、電車は雨降る闇の向こうに消えていった。

 いつの間に陽が沈んだのだろう。駅の窓から見えた燃える朱の光も、しぶとく残っていた暑さも漆黒の夜闇に塗りつぶされ、ただ細い雨の音だけが絶え間なく響いている。

 そろそろ帰らなければいけない。わたしは膝に載せたままの文庫本を鞄に仕舞おうと手に取った。


「――っ?!」


 不意に、視界が真っ暗に染まった。ここはどこか、自分はどこに帰ろうとしていたのか分からなくなる。


(わたしは、朝霧日向美あさぎりひなみ。女子校に通う高校生で……)


 必死で、自分にとって確かなことを思い出そうとする。その時、背後に冷たい雷雨のような気配が立った。


「――それで、?」


 恐る恐る背後を振り返ったわたしは、そこにいるのが見知った青年であることを知って安堵の息をついた。変わらない闇の中、光を求めるように彼の名前を囁く。


「さくくん」

「良かった。ちゃんと覚えていた」


 当然のことを言って、さくくんが大げさなくらい深々と息を吐いた。後ろで編んだ長い銀髪と、銀鼠の着物の肩が大きく動く。真っ黒な狐面に隠れた彼の瞳が、わたしが手にしていた本を見た。


「ひな、またその本を読んでたの?」


 表紙の狐を見て、さくくんがくすりと笑う。「忘れてもひなは変わらないね。それとも、こんなぬるい幸せの方が良かったのかな」その言葉にわたしははっと顔を上げた。


「さくくん教えて、わたしは何を忘れているの?」


 何かを忘れているという自覚はあった。自分の名前は覚えている。さくくんのことも分かる。けれど、それでも何だか何もかもが全て嘘っぱちに感じるのだ。何より、わたしは。


 ――何よりわたしは、帰るべき場所を未だ思い出していないのだ。


 くすり、くすりとさくくんが笑う。彼はわたしの頭を撫でて、艶やかな声で囁いた。


「心配しなくても、すぐに思い出せるよ。ひなが逃げられるはずがないんだから。……あぁでも、ちょっとつまらないかな。いつまでもそんなに呆けた顔でいられたら」

「さくくん……?」


 言葉の意味が分からなくて、わたしは首を傾げた。くすり、くすりとさくくんは笑い続ける。彼の冷たく白い手が、わたしの頬にそっと触れる。


「ねえひな、?」


 ざあざあ、雨が降る。雨音に混ざるように、くすりくすりと笑い声が広がる。あちこちで誰かが笑って、哂って。逃れられないよ、とわたしに糸を絡ませる。


「学校はどんなところ? 勉強は楽しい? どんな友達がいるの? 先生は? お父さんとお母さんは? ……ねえ、ひなは私と会った時のことを覚えている?」


 絡む糸は業の証。ぽたりと落ちた紅い雫が広がって、夢が覚める。

 さくくんの問いかけに、わたしは何ひとつ答えられなかった。びくりと肩を揺らして後退る。


(わたしは、朝霧日向美。女子校に通う高校生)


 繰り返し自分に言い聞かせた言葉すら、疑う時が来るなんて。

 怯えるわたしに対し、さくくんはずっと場違いなほど優しかった。頬を恍惚に染め、うっとりとした口調で語る。


「あぁ、怖がらないで。大丈夫、忘れたくらいで怒ったりしないよ。ここはそういう場所だから」

「そういう場所……?」


 わたしが首を傾げると、「そうだよ」とさくくんが囁く。


「人の痛みも苦しみも忘れさせ、願いを暴いて安らぎを与える。怖いことも叶わない願いもない夢の郷、それが幽世かくりよだから」


 詠うようなさくくんの声が、わたしの耳に甘く響く。言葉とともに、駅が、わたしの制服が、先程まで現実だと思っていたものが急速に溶けて消えていく。だが、変わりゆく世界をわたしは見ない。ただ、目の前に立つさくくんをぼんやり見つめていた。

 ここは、夢の郷。どんな願いも叶う場所。そうさくくんは言った。だが、本当にそうなのだろうか。

 少なくともさくくんの願いは叶っていないのではと思った。笑っていてもいつも怒っているように、それでいて泣いているように感じたから。

 そして、わたしの願いも叶っていないのだと思う。幽世はお節介焼きで、わたしの心から「制服を着て学校に通う普通の女の子」を拾ってきて夢を見させたけれど、


「でも、ひなは覚えていて? 自分の恐怖も、私の消えない炎も」


 さくくんはそう言って、わたしの額に細い指でそっと触れた。雨が降る。銀の糸のような細雨が、わたしとさくくんと暗い地面と背後の古い社を一様に濡らす。

 夢は覚め、駅は消えた。そのはずなのに、未だ遠くから電車の音が聞こえる。金属の擦れる音を響かせ、到着の合図の代わりに無数の鈴の音を揺らめかせて。


 ――ガタン、ガタゴトンギギィ……。

 ――しゃらん。


 次第に大きくなる音ともに、一際強い風が吹いた。さくくんの狐面が外れ、彼の瞳が顕になる。

 その色は、蕩けるような真紅。わたしの色。忌むべき鬼の色。そして、あの日わたしの周囲を染めた色だった。

 雨が降る。花に光を零す紅の雨。受ける真紅の花は人の身体から咲いている。その花を咲かせたのはわたし。一度は否定しようとしたわたしの罪であり、決して消えないさくくんとの――神様との絆の証だ。


                 *


 遠い昔、とある山の麓にある小さな集落で、ある雨の神様が信仰されていた。

 雨之朔夜彦あめのさくやひこと呼ばれたその神様はお山に大きな社を持ち、お祭りも毎年催されて、人々にとても慕われていた。

 神様も集落の人々を愛し、恵みの雨は人々の生活を豊かにした。飢饉や日照りとは縁遠く、土地を洗って虫害を抑え、火の手が上がると私雨わたくしあめによってその拡がりを鎮めた。そうした数多くの伝説は益々信仰を集め、集落のみならず近隣の村々にも噂が広がるようになった。

 当時の人も神様も、ずっとそんな日々が続くと思っていた。集落は神様に護られて穏やかに成長し、神様も霊験あらたな神として信仰され永く愛されるのだろうと。


 ――だが、時代は瞬く間に変わっていく。


 日本に黒船が来航し、幕府に代わって天皇を中心とする新政権が樹立した。文明開化の波は全国に緩やかに広がり、名もなき小さな集落にもその風が押し寄せてきた。

 曰く、鉄道を通したいと。そのために社があるお山にトンネルを掘らせて欲しいと。

 当然のことながら、神様を信仰する集落の人々は反対した。だが、ひとりだけ反応の違う者がいた。当時の集落の長である。

 彼は野心家で、文明開化に大きな憧れを持っていた。伝説に固執して変遷を嫌う老人達に飽き飽きしていたことや、集落の改革に力を入れても余るほどの大金を謝礼に用意すると言われていたことも大きい。

 長の賛同を知ったことで、集落の若者達の意見が揺れた。彼は若く夢があり、少々無茶で突拍子もないところがあるが真摯に集落の未来を考える姿は尊敬されていたのだ。

 神様も、人々の生活が豊かになるのならトンネルを掘ってもいいと思っていた。お山が本体でもなし、時代の変化を受け入れる度量くらいはあるつもりだった。

 最後まで反対し続けたのは、やはり老人達である。伝説と伝統に生きる彼らは一方で、歳若い長に勝るとも劣らない影響力を持っていた。彼らを無視して話を進めるわけにもいかず、集落では連日互いの意見を擦り合わせるための協議が開かれた。

 話し合いは、施工の申し出を受ける期限である年明けまで続いた。それまでどんなに意見が堂々巡りしようが、無為な時間を過ごそうが、人々は休むことなく話し合いを続けた。少しずつ不満と不信の芽が集落で育っていることに気づかないまま。――今までにない大きな悪意に、神様が受け入れきれず堕ちていっていることを、彼自身も気づかないまま。


 ――そして、遂に「その日」は訪れた。


 それは月の無い夜、草木も眠る丑三つ時のことだった。突然、お山の社から火の手が上がったのである。

 火災の原因は放火。犯人は集落の長を中心とした若者の集団だ。彼らは神罰を恐れる老人達を嘲笑し、伝説が本当ならこの炎を消してみろと言った。

 だが、炎は消えなかった。

 集落を護る雨は降らなかった。それどころか社を燃やした炎は火を付けた愚か者を殺し、お山を燃やして集落を襲った。

 家を壊し、人々を燃やし、風に乗って駆け抜ける炎は全てを灰に変えるまで燃え続けた。眠っていた集落の人々は逃げることも叶わず、生存者はひとりもいなかった。その惨事を、神様はただ黙って眺めていた。

 神様は怒っていた。それが自分の怒りか、鬱屈した人々の怒りかも分からなかったけれど。怒りは集落を燃やしただけでは収まらず、三日三晩雷を伴う暴雨が続き周辺の村々に甚大な被害をもたらした。

 それから暫く、「集落の悲劇と祟神と化した雨神」の噂が続いた。人々は祟りを恐れて山に近づかなくなり、トンネルの施工も中止された。

 だが、人の噂も記憶もそう長くは続かない。数十年の時を経て集落があった近辺も開発が進み、当時の様子を知る者はいなくなった。

 新たな鉄道開通のためにトンネルも作られ、肝試しのネタとしてかろうじて残っていた噂もめっきり聞かなくなった。同時に、祀られ畏れられた神様の存在も次第に忘れられていった。

 人に存在を知られ、求められ、或いは畏れられてこそ人在らざる者は存在できる。それは、神であったとしても変わらない。

 人々に忘れられた神様は、やがてその記憶も怒りも全て忘れて消えていく運命にある――はずだった。



 ところ変わって、大正半ばの東京。朝霧日向美が生まれた家は、よく知られた歴史ある名家だった。

 通常ならば「朝霧家の末娘のお嬢様」と呼ばれるはずの日向美は、理由わけあって生まれた時からずっと幽閉生活を送っていた。

 その理由は、彼女の特徴的な真紅の瞳にある。朝霧家は、真紅の瞳を持つ異界の鬼と取り決めを交わすことで力を持った家とされていたのだ。

 それは遠いご先祖さまの話で、本当に鬼と契約したのか日向美には分からない。だが、少なくとも祖父母は心から信じていて、父と母はそれに流される形で従っていた。彼らは先祖代々伝わる「鬼は恐ろしいものだが、外に出さず丁重に扱えば家に恵みをもたらす」という教えを信じ、幼い娘を座敷牢に閉じ込めたのである。

 名も持たず、父母にも滅多に会えない日々が続いたが、日向美は特に寂しいとも辛いとも思わなかった。狭過ぎる世界も、「鬼姫さま」と傅きながら怯えるように視線を合わせない女中達も、生まれた時から続くならただの日常だ。彼女は何も考えず、感じることもなく、ただとても小さな場所から変わらない日々をぼんやり眺めていた。

 歪だが、それを疑問には思わない毎日。日向美にとっては当たり前でありきたりな日々。


 ――そんな、ささやかな日常が崩れたのは一体いつのことだっただろう。


 始まりは、そう、見つかった時だ。分家の子、父の弟の息子であり日向美の従兄弟に当たる少年に座敷牢にいる彼女の存在が見つかった時。

 四つ歳下の彼は天真爛漫で人に好かれやすく、好奇心旺盛で無知な子供だった。少年は日向美に牢の外に出るように言ったが、彼女が首を振ると心底不思議そうな顔をしながらも座敷牢に玩具や本を持ってきてくれるようになった。

 それらは日向美が知らないものだった。様々な遊びや歌や物語、未知の知識を彼女は喜んだ。親の目を盗んでどこからともなく現れては、日向美と遊んでニコニコ笑う従兄弟のことも嫌いではなかった。

 事態が変わったのは、少年が座敷牢に通っていたことが彼の父親に知られた時だった。

 叔父は祖父母に対して反抗的で、先祖代々の教えも鬼の存在も酷く嫌っていた。赤目の姪も気味悪がり、そのことが原因で兄と疎遠になったらしい。そんな彼に、息子と日向美が会っていることを知られたらどうなるだろう。

 案の定叔父は激怒した。殆ど事故による原因で少年を怪我させてしまったことや、祖父が他界し祖母が伏せっていたことも大きい。叔父は息子を隔離した上で、独断の「鬼退治」を強行した。それから、日向美の地獄の日々が始まった。

 実際に何が行われたか……は、書き記していて気持ちの良いものではないし、大方察しはつくと思うのでここでは割愛する。が、彼がおよそ人間の想像し得る限りの下劣な行為を尽くしたことは確かである。叔父は使用人を集めて事に及んだ。「鬼姫」を畏れかしこみ平伏していた女中達も、両親さえも日向美を助けようとする者は誰もいなかった。

 父も母も、日向美の存在を尽く無視した。檻の中で平然と過ごす異色を持つ娘、彼女をまるで神のように崇め盲信する先代、伝承と姪を狂的に憎む弟。それら全てを両親は厭い、煩わしく思っていたのだ。過激化する「鬼退治」は暗黙のうちに無視が慣例となった。連日血と生臭い臭いが立ち込め、男達の下卑た笑いと少女の悲鳴が響く座敷牢。月日が経つごとに、日向美の感情は次第に摩耗していった。

 もしかしたら、鬼は本当にいるのかもしれない。そう考えてしまうほどに奇妙な出来事が起きたのは夏の暮れ、冷たい雨が彼岸花に降り注ぐ日のことだった。座敷牢から外まで続く、花よりも紅い血痕。それは朝霧の屋敷に折り重なって転がる死体から出たものであり、走り続ける日向美が纏うものだった。

 その日、果てしなく続く狂気と絶望の檻の中で、これまでずっと無抵抗だった日向美が初めて叔父の使用人を刺し殺した。凶器は、誰かが持ち込んだ小さなサバイバルナイフ。床に落ちていたそれで行った行為は、抵抗と呼ぶには些か疑問が残るものだった。が、偶然にも頚動脈を捉えた一撃は大量の血を辺りに撒き散らし、その場の人間が一様に呆然とする中刃を受けた青年はもの言わぬ骸に変わった。――その瞬間から、日向美の様子と周囲の状況は一変してしまった。

 ご先祖様の教えは、祖父母の言い分は正しかった。鬼は丁重に扱わなければならないものだった。鮮血の赤を全身に纏って座敷牢を出た日向美は、無表情のまま屋敷にいた人々を惨殺した。刺殺、絞殺、殴殺、ありとあらゆる手段で。他人に従うことしかできず、末娘を無視することで自分達は平穏に暮らそうとした両親と兄弟姉妹を。怯えることしか能がない女中と使用人を。無関心を貫いた親族を。ひとり残らず殺し尽くし、最後に従兄弟の少年を殺したことで我に返って屋敷から逃げた。

 「わたしはころしていない」「たすけて」そう言いながら走り続けた。手に刃の感触を残したまま。雨でも拭い切ることができない、真紅と鉄錆た臭いを纏ったまま。そうして出会ったのが、忘れられた雨の神である雨之朔夜彦だった。



 通常なら出会わぬはずの二人。互いに過ちを犯し、狂気に惹かれた彼らは幸か不幸か。

 幽世の誘惑を振り払い、ただ共にいることを誓った二人の頭上に雨が降る。

 ――そして、今日も電車の音が。


 *


 金属の軋む音がする。暴風と轟音とともに電車が止まるのをわたしは見た。

 車窓の向こうに見える乗客は、皆のっぺりとした面を被っている。当然だ。他人の区別なんかついていない。あの時からずっと。わたしの中にいる鬼が刃を手に取り、何もかも全てを壊した日から。

 ああ、電車が行く。遠く、地の果てまで。わたしに笑った人、わたしに頭を下げた人、わたしを殴った人、わたしに刃を向けた人、わたしを××した人。あの日わたしが殺した人達を乗せて。

 戸惑うように小さく揺れた頭は、もしかしたら。わたしが彼の名前を思い出す前に、電車は再び轟音を立てて動き出す。


 ――ガタン、ガタンゴトン……。

 ――間もなく出発致します。お乗りの方は……いませんよね?


 無機質なアナウンスの真似っ子。くすりと笑ったさくくんが、わたしの背後に立って腕を回した。どんなに汚れていても、さくくんだけは躊躇わず抱きしめてくれる。彼も、わたしと同じように汚れているから。


「大丈夫だよ、ひな」


 わたしを抱いたまま、さくくんが囁く。雨音のようにしっとりとした声が耳朶に甘く広がり、もう彼の声しか聞こえない。


「約束通り助けてあげる。ひながここにいてくれる限り、私もひなと一緒にいてあげるからね」


 わざとからかうような口調で言って、そのくせ声は怖がっているみたい。そんな彼の言葉を聞いて、思わずわたしはくすくすと声を立てて笑ってしまった。くるりと振り返り、大きなさくくんの身体に思いっきり抱きつく。彼とわたしから漂う、甘い血の匂いにうっとりと目を細めた。


(大丈夫だよ、さくくん)


 怖がらないでも、わたしはずっとここにいるよ。幽世は何度でもわたしにわたしの罪を忘れさせようとするし、一度はわたしもそれを望んだ。一度は大切だと思ったあの子を殺したことを否定するために、わたしはわたしから逃げようとした。でも今は、さくくんといる方が幸せだから。わたしと同じ罪を背負った、血に汚れたわたしだからこそ一緒にいたいと思ってくれる貴方と。

 さっきまで手にしていた狐の物語を思い出す。あのお話は現世にいた時、あの従兄弟の少年に教えてもらったもののひとつだった。幽世で罪を忘れたわたしがあの本を好きだと思ったのは、鬼のわたしがあの子と仲良くしたかったからか。さくくんと、血の匂いなんてしない普通の出会い方をしたかったからか。

 でも、本当はそんなものいらなかった。わたしはさくくんがいれば、それだけで十分だった。たとえ誰かが私達のことを歪んでいると言っても。周囲に咲き乱れる彼岸花が、わたしと彼が殺した人の血でできていると知っていても。


 ――ガタンゴトン、ガタン……。

 鈍い金属音を立てて、再び電車が現れる。


 電車はわたしの罪の証。乗っている乗客はいつだってわたしが殺した屋敷の人達。もしかしたらさくくんにとっては、集落の人々が見えているのかもしれない。

 ここは駅。堕ちてしまった神様と、鬼に呑まれた咎人が、死者を見送り続けるための。わたしは、面を被った彼らを何度でも見送らなければならない。

 ああでも、もしこの電車が彼方へと去っていったら。物語のお狐様、貴方が少女と結ばれた時と同じようにわたしたちの頭上に雨を降らせて。貴方達と同じ幸せはいらない。ただもう誰も、幽世も引き離すことができないように、永遠とわに降り注ぐ雨でわたしたちを隠して。


 ――わたしは、こんなにも幸せなのだから。

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お狐様、雨を降らせて 潮風凛 @shiokaze_rin

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