第48話 特別な一瞬


「えっ、勝負!?」

「敬遠しないの??!」


 明姫月の内野手がそれぞれのポジションへ散っても一向に球審が1塁を指ささないことで、蘭華の応援席がざわめき立っていた。


「おい! ユズ! 考え過ぎんなよ! この場面で勝負しようってんだから、痛い目見せてやんのが格上の選手お前の役目だぞ」


 そんな落ち着かない雰囲気の中、打席に向かおうとする主砲に陽野涼エースが檄を飛ばした。


「うん。わかってるよ〜」


 誰もが息を呑むような緊迫した場面でも、藤宮柚希はどこか気の抜けた声を返して打席へと歩き出した。

 相変わらずのマイペース。それでも彼女は、自らの背負う責任の重さを知っていた。生まれもっての性格は変えられずとも、打席に対する心構えは変わった。自分の結果如何で、その後のチームがどうなるかはっきり自覚するようになった。


 だからこそ、に向かう時の彼女は決まって他では見せない悲壮な表情をしていた。


「プレイ!!」


 柚希がゆっくりとした所作で打席に入り、試合再開の号令がかかった。


「やっぱり、敬遠しないんだ……」

「藤宮さーん! もう1本見せて〜〜!!」

「ヒットで同点! ホームランで逆転の大チャンスだよ!!」


 彼女が敬遠されることなく打席に立ったことで、蘭華応援席が一層の盛り上がりを見せていたが、津代葵はその声援が耳に入らないほどの張り詰めた緊張感の中で初球の配球を吟味していた。

 決め球のアテはあったものの、そこまでの道筋を1歩でも違えばその瞬間奈落へ突き落とされる。そんな極限の綱渡りを渡り切った先でしか明姫月の勝利望んだ結果は手に入らないことを、葵は予め理解していた。


「……」


 何度行程を辿っても、初球の入りはスライダーの他考えられなかった。

 前の打席でストレートを完璧に打ち返されているだけに、その球を迂闊に選択することはできない。とはいえ、相手にその心理を逆手にとられることも警戒しなくてはならない。

 まずは低め、ボールゾーンへのスライダーで打者の反応を見る。そう結論付けてミットを構えた。


「んッッ!!」


 その後の勝負を分ける大事な初球。倭田莉緒菜の投じた白球は真ん中付近からボールゾーンまで落ちる要求通りの軌道を描いた。


「……ッッ!!?」


 この上なく慎重に入った初球に対して、藤宮柚希は何の躊躇いもなく全身全霊のスイングを繰り出した。


「ストライク! ワン!」


 しかし、そのスイングは莉緒菜のスライダーにまるでタイミングが合っておらず、あえなく空を切った。


「ナイスボール! 倭田さん! まだ球キレてるね〜!!」

「いいよ莉緒菜ちゃん! その調子だよ〜!」


 傍から見守るチームメイトたちからは揃って楽観的な声援が飛んでいたが、配球を組む津代葵捕手だけがこの結果に頭を抱えていた。

 望むらくはこの1球で見逃し、あるいはややタイミングの外れたファールを取ってスライダーにも意識があることを確かめたかった。しかし実際にはスライダーなど意にも介さず、完璧なストレートタイミングのフルスイングを繰り出されたのだ。


 これで次もストレートは


 仕方なく、葵は苦し紛れに初球と同じボールゾーンへのスライダーを要求した。


「ッッ!?」


 しかし、続く2球目は莉緒菜がコントロールを乱し、本塁の上でバウンドする失投となった。


「ランナーストップ!」


 必死のブロッキングで辛うじてランナーの進塁は防げたが、ここまで大きくゾーンから外れてしまうと打者の反応を見ることもできなかった。


「ナイスストップ! 葵ちゃん!」

「倭田さんリラックス! 肩の力抜いて!」


 これでカウントは1ボール1ストライク。

 葵はここまで2球スライダーを続けたからと割り切ってストレートを要求することも考えたが、打者目線から見ても前の1球でスライダーの制球を乱しているだけによりコントロールし易いストレートで勝負したいバッテリー心理は見え透いていた。そんな状況下でストレートを強行できない程度には、やはりまだ初球のフルスイングが尾を引いていた。


「ふぅぅ……」


 もう1球だけ、この場面は辛抱強くスライダーで誘うことを選択した。

 もちろん、リスクはある。前の2球で目が慣れている分、少しでも甘いコースに入れば単打では済まないだろう。それを理解した上で葵は、自分の勘と倭田莉緒菜の積み重ねてきたを信じることにした。


「んンッ!」


 その信頼に応えるかのように、莉緒菜の投じた3球目は理想的なコースから鋭く沈んだ。

 この配球にはさすがの柚希も虚をつかれたようで、ストレートタイミングで振り出したバットを慌てて食い止めた。


「スイング!!」


 葵はすかさずスイング判定を要求したが、塁審の手は上がらなかった。


「な──っ! 惜しいっ!」

「惜しい惜しい! イイよ莉緒菜ちゃん! ナイスコース!」


 スイングこそ取れなかったものの、その反応を見た葵は小さく口元を緩めた。


「よしよし! ナイスボールだよ! リオナちゃん!!」


 初球のようなストレート狙いの割り切ったスイングではなく、ストレート・スライダー両方をマークした上でボールゾーンの球は追いかけない、まさに先の1球のようなアプローチに切り替えてくる瞬間を葵は待ちわびていたのだ。


 これでようやくストレートを


 葵は迷いなく次の1球のサインを送り、莉緒菜も疑うことなくサインに頷いた。


「んんンッッ!!」


 しなやかな腕の振りから投じられた白球は葵がミットを構える真ん中高めへ。美しい縦回転を帯びてまっすぐ伸び上がった。


「ふ……っ!!」


 明姫月バッテリーにとってこの1球はストレートを投じる最良のタイミングだった。にも関わらず、藤宮柚希は一切振り遅れることなく、恐れを知らない強振を繰り出した。

 吹き上がるような軌道を描く白球に向かって無邪気な殺意を帯びたスイングが迫る。葵の脳裏に前の打席の光景が閃光のように蘇るが……



 ────キュイッ!!



 藤宮柚希のスイングはわずかに白球の下に潜り、バックネットを突き破る勢いで真後ろへ飛んだ。


「ファールボール!!」


 その判定がコールされた途端、葵の背筋が隠しようもないほど大きく波打った。


 紙一重だった。

 もし1球早くストレートを要求していたら完璧にスタンドまで運ばれていただろうと確信させるような鋭いスイングだった。

 しかし、裏を返せばその結果は先の葵の決断が間違っていなかったことを物語っていた。あの1球で執拗にスライダーを意識させていなければ、この紙一重は生まれていなかっただろう。


「ふぅぅ……」


 身の縮む思いはしたものの、途中で足を踏みはずすことなく2ボール2ストライクこのカウントまで辿り着くことが出来た。


 葵はここで温めてきた策を講じた。

 いつも通り球種のサインを出すフリをしながら、事前に示し合わせていた“首振り”のサインを送った。


「……!」


 それに気づいた莉緒菜はやや大袈裟に首を横に振った。願わくばもう少し堂々とした演技力が欲しいところだが、目的は果たせた。


 倭田莉緒菜2球種しかない投手が捕手のサインに首を振るということは、例え配球のセオリーから外れたとしても投手としての“我”を通したい現れ。そうなれば、否が応でも倭田莉緒菜を特別たらしめている球ストレートに意識が行くはず。


 その精神的な隙こそ、葵が欲していた最後の一欠片ラストピースだった。


 今度こそ正しい球種のサインを送り、堂々とインコースにミットを構えた。

 場は整った。後は莉緒菜が要求通り投げきれるか否かで勝負が決する。そんな単純明快な勝負において、葵は倭田莉緒菜の胆力にベットすることにしたのだ。



「────んんンッッ!!」



 迷いのない腕の振りから放たれた白球は葵の構えたミットの更に内、藤宮柚希の脇腹を撃ち抜くような角度で飛び出した。


「……ッ!?」


 身の危機を感じた柚希はほとんど反射的に身を捩る。が、瞬時にその動作を悔いた。

 2ストライクに追い込まれている状況で、どうして深く考えもせず避ける体勢を取ってしまったのか。柚希の脳裏に蘇ったのは、前の2打席での光景。ホームランを打った前の打席も、三振を喫したその前の打席でも、このバッテリーは必ず胸元へストレートを刺し込んできていた。


 もしそれが全てこの1球のための布石だとしたら? 打者にスイングの余地を与えないための仕込みだったのだとしたら……?


 に思い及んだ時にはもう、白球はベース板に向かって鋭く曲がり落ちていった。


「つッッ!!」


 白球は本塁の角を掠めるように柚希の目の前を通過して津代葵のミットに収まった。マウンドの上の彼女は自らの投げ抜いたコースを誇らしげに指さしながら、感情を噛み締めるように呟いた。


「…………入った」


 その不遜なコールをなぞるように、球審が右拳を振り上げた。




「────ストライク! バッターアウッ!!」




 そのコールを噛み締めるように一拍遅れて、明姫月ナインの感情が爆発した。


「────やったぁあああ!!」


「よし! よく投げきった!」

「ナイスボール。りおな」

「……なかなかやるわねアンタ。1年のクセに」

「莉緒菜ちゃぁああん!! ナイピッチぃいい!!」

「よっしゃあ! ナイスボール! これで2アウト!」


 この打席の勝者となった莉緒菜が背後からの声援を受ける他方で、見逃しの三振を喫することとなった藤宮柚希は尚もその結果を呑み込みきれずにいた。

 最後の1球、確かに反射的に身を翻してしまった時点で勝負は決していたのだが、彼女の縦割れのスライダーではあの位置・あの高さから曲げてもストライクゾーンまでは届かないはずだった。打席の中で散々その球筋を見せられていた故に柚希にはその確信があった。


 残された可能性はただ1つ。

 あの1球がより横曲がりの成分が大きい第3の球種もう1つのスライダーであった可能性。それをこの土壇場で咄嗟に閃いたのか、あるいはその刃を懐に忍ばせたままここまでのピッチングを展開していたのか────


「んー……やられた」


 澄んだ表情で悔恨の情を吐き出しながら、藤宮柚希はヘルメットを脱ぎ打席を後にした。


「イケる! イケるぞ!」

「ここ守りきったら、あの蘭華に勝てるかも!!」

「倭田さんっ! あと1アウトだよ! 集中してこー!!」


 勝負を分ける正念場を最高の形で制し、明姫月のナインは俄然勢いを増していた。残すアウトはあと1つ。この回を0点で凌いで最終回の攻撃へ。誰もがそんな展開みらいを思い描いて疑わなかった。


「すいません。タイムお願いします」


 そんな好調子に水を差すように、捕球した白球を見回していた葵が不意に試合を止めた。



「────タイム!!」



 敵も味方も、蘭華の応援席にさえも動揺が走る中、ゆったりとした足取りでマウンドに登った葵は貼り付けた仮面のような笑顔で口を開いた。


「リオナちゃん。手、見せて?」


 その言葉を聞いた瞬間、栞李はその理由ワケを察した。


「……はい」

ソッチなワケないよね?」


 せめてもの抵抗で右手を差し出す莉緒菜だったが、食い気味に葵にはたき落とされ観念することにした。


「はァァ……やっぱりねェ」

「ちょっと、アンタそれ……」


 莉緒菜が広げた左手の指先は、血豆が弾けて生々しい鮮血に塗れていた。


「うわぁ、思ってたより酷い……」

「え、『思ってた』ってナニ?」

「ヤバっ……」


 その光景を目にした栞李がうっかり口を滑らせたのを、葵は聞き逃さなかった。


「ねぇ? シオリちゃんはこの怪我知ってたワケ? そういえばさっきマウンドで何か話してたけど、まさかあの時気づいてたのに今まで黙ってたなんてことないよねぇ?」

「はは……まさか」


 逃げ道を潰すように捲し立てくる葵の真っ黒な笑顔に気圧されて、栞李は露骨に目を逸らした。


「2人とも、まずは落ち着こう。特に葵、君がここに来たのは責任の所在を明らかにするためじゃないだろう?」


 事態の収集がつかなくなる一歩手前で、沙月が2人の間に割って入った。


「はぁ〜あ、まったく。こうなっちゃったらもうリオナちゃんはソレ治るまで投球禁止。今日はここで大人しくマウンド降りてよ」

「……でも」

「でもじゃないの! というかよくまだ言い返そうと思えるよね」

「心配ないよ莉緒菜。前の回からブルペンで有咲が準備していたし、ここまできてこの試合を諦めるつもりの者もいない。残りのアウト4つは私たちに任せてほしい」

「…………わかりました」


 沙月に説得されてようやく白球を手放した莉緒菜は、すぐ傍らにいた栞李へその血だらけの指先を伸ばした。


「あと、おねがい」


 素朴な想いを添えて差し出されたその手を、栞李は逡巡なく握った。


「……うん。まかせて」


 触れ合った指先から溢れた雫はまるで融解した鋼のように熱く、栞李の手のひらを伝う。その温もりが身に染みるようで、些か心強く思えた。


「おつかれ様……その、格好良かったよ。今日のマウンド」

「…………良かった。ありがとう」


 栞李の想いを受け取った莉緒菜は充足した表情で帽子を取り、ゆっくりマウンドを降りた。


 5回と2/3イニング。強豪蘭華女子の打者を相手に被安打3、1失点。奪った三振は8つを数えた。

 堂々たる投球を披露しマウンドを降りる彼女には味方ベンチのみならず、蘭華の応援席からも潔い拍手が送られた。


 その瞬間、辺り一帯の視線を一身に集める彼女はまるで、ダイヤモンドの中心に根を下ろした小さな太陽のようで。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る