仕事をやめて歩道橋の上で車のライトを見つめていた俺は、昔の恋人と再会した

あまかみ唯

01


「仕事、辞めます」


そう、上司に言ったのは説教を受けている最中だった。


激昂する上司を無視してその場を離れ、荷物をまとめてそのまま出てきたのが数分前。


外はもうとっくに日が沈み、真っ暗になっている時間だった。


マナーモードにしていたスマホに通知が山ほど入っていることに気付いて、ボタンを長押しして電源を落とす。


人気のない歩道を駅の方へ歩いていく。


コートを羽織っていても冬の空気が肌に刺さり、吐いた空気が白い帯となって背後へ消える。


風が短い後ろ髪を撫で、寒気に背筋が凍る。


もしかしたら、体調が悪いのかもしれない。


いや、悪いのは精神状態だろうか。


そんなことを考えて、ふっ、と鼻で笑ってから表情を落とし、視線を下げて道をひたすらに歩いていく。


駅前の大通りの前まで着き、歩道橋の階段を上っていく。


まるで絞首台への道のように一段ずつ踏みしめ、一番上まで行っても縄でできた輪が垂れていないことに安堵する。


橋を渡る間にもすれ違う人影はほとんどなく、ふと横へ視線を下ろすと下の車道を走ってくるトラックが見えた。


それをぼうっと見つめ、思考が揺らぐ。


気付けば雪が舞っていた。


大学を出てからずっと勤めていたあの会社。


上司に毎日嫌みを言われ、人が減っても補充はされず、増え続ける仕事と残業、休みもとれずに疲れがとれない体、増えない給料。


次の仕事なんて考える余裕もなく、ずっと前から限界だった。


一台トラックが通りすぎていき、また向こうの方から乗用車が走ってくる。


降り注ぐ雪に乱反射したライトの眩しさに目が眩み、白くなった視界に吸い込まれそうになり、ちゃんと地面に立っているはずなのに上下の感覚があやふやになり、バランスを崩す。


「孝弘くん……?」


なんとか転ばずに姿勢を戻し、視線を歩道橋の上に戻すと、幻が見えた。


「涼子……?」






「久しぶりねー、何年ぶり?」


居酒屋に入ってテーブルの向かいに座った幻が楽しそうに喋る。


いや、幻じゃなくて実在の人物だ。


ただ、あまりにも偶然な再会に信じられないだけで。


「大学以来だから、五年ぶりか?」


俺が今年で二十七になったはずだから、それくらい。


「このお店も随分久しぶり」


ここは俺と涼子が学生時代、よく二人で来ていた店。


こじんまりとした店内が落ち着くからとお気に入りだった場所だ。


「それじゃあ乾杯」


酒のグラスを合わせ、それを舐めるように飲みながら自然と思い出話に花が咲いていく。


大学で四年間一緒だった記憶が段々と甦っていき、話題が盛り上がり、そのあとは少しずつ言葉が減っていった。


それでもその空気は嫌なものではなく、まるで当時に戻ったような優しくて暖かいものだった。


涼子の姿勢が段々と机に近くなっていき、それに合わせてまぶたも細くなっていく。


そして机に乗せた腕に頬がついたとき、俺の腕を見て呟く。


「まだ、それしてたんだね」


「ああ……」


それは大学時代からしている腕時計。


大学生でも買えるような金属製の安物で、壊れたら買いかえようと思いつつ、その機会がなくてずっと使っていたものだった。


「懐かしい、ちょっと触ってもいい?」


言われて腕時計を外し、涼子に渡す。


「ここの傷、私が机から落とした時につけちゃったんだよね」


フレームについた一本の傷を指でなぞり、そのときのことを思い出すように目を細める。


「あのとき孝弘がめちゃくちゃ怒って大変だった」


「そんなに怒ってないだろ」


ただちょっと、数日口をきかなかったくらいで。


「あの頃が懐かしいな……」


遠い過去の記憶に思いを馳せる涼子の向かいで、俺も昔のことを思い出す。


『ごめんね……』と、電話越しに聞いた言葉が今でも耳に残っている。


大学で知り合って二年の頃には恋人になっていた俺と涼子。


卒業するまではずっといい関係でいられたと思う。


でもこっちに残った俺と地元に帰った涼子で、お互いに会いに行く余裕もなく、次第に連絡する回数も減っていった。


そして、別れを告げられた時の言葉が、『ごめんね……』だった。


涼子がなにを思い出しているのかはわからない。


けど俺はその記憶を振り払いたくて話題を変えた。


「涼子は今こっちに住んでるのか?」


「うん、ちょっと前に戻ってきたの」


連絡できればよかったんだけど、と苦笑する涼子に俺も反応を濁す。


きっと涼子も俺と同じだったんだろう。


「孝弘は仕事は?」


「今日辞めてきた」


「なんで!?」


驚いた顔をする涼子に少しだけ笑って、事情を説明する。


最初は難しい顔をしていたけれど、最後は納得してくれたようだ。


「じゃあ、新しい仕事探し頑張らないとね」


「最悪実家に帰るかだな」


こっちに就職したのは大学の近くだったからで実家はかなり遠いところにある。


具体的に言うと新幹線で三時間くらい。


「そっか、孝弘も実家に帰っちゃうのか。なんだか寂しいね」


「先に実家に帰ったのはお前の方だろ」


その行為を責めるつもりはないし、そんな権利も俺にはないけど。


「そうなんだけどさ」


照れくさそうに力なく笑う涼子が、俺の時計視線を向けゆっくりと姿勢を起こす。


「いつの間にかこんな時間」


「本当だ」


楽しい時間は過ぎるのが早い、なんて感じたのは何年ぶりだろうか。


腕時計の針は、もし明日も仕事があったなら、もう寝るべき時間を過ぎていた。


仕事がなくても、もう帰ったほうがいい時間だろう。


「そろそろ出よっか」


「ああ」






並んで外に出るとあれからずっと雪が降り続いていたようで、うっすらと道路に積もっている。


それでも歩くのに困るほどではなく、電車も問題なく動いているだろう。


吹き抜ける風に体が震え、耳に触れた雪が水滴に変わるのを感じる。


「送ってくか?」


「ううん、平気」


マフラーを巻いた涼子が息を吐くと、白いもやが広がって、そして消えていった。


「それじゃあな」


駅の方角へ踵を返して歩き出そうとすると、手を捕まれた。


涼子の手は冷えきっていて、俺の手も触れた部分から熱がなくなっていくのがわかる。


「聞いてほしいことがあるの」


真剣な口調で告げた涼子が伏せていた視線を上げる。


目が合うと、涼子の瞳の光が揺らめいた気がした。


「私ね、今度結婚するの」


「そうか」


俺の返事はその一言だけ。


相手は就職先の同僚で、その同僚の転勤でこっちに戻ってきたこと。


とてもいい人で結婚式も決まっていること。


今は幸せだけど、ふと大学生活が懐かしくなって、今日あの場所にいたこと。


涼子が語る言葉を俺は短い相槌をうちながら聞いていた。


そして涼子の短い話が終わり、繋いだ手が離されて今度こそ別れの挨拶を交わす。


無言になってもその場から離れようとしない涼子を置いて、今度こそ振り向いて雪を踏みしめる。


なぜ涼子が最後にそれを伝えようとしたのかはわからない。


俺の手は、熱を奪われてすっかり冷たくなっていた。


おめでとう、とは結局言えなかった。






部屋に戻って椅子に腰掛け、腕時計を外す。


電源を落としたスマホは真っ暗なまま。


そこに涼子の連絡先は入ってはいない。


もう二度と会うことはないだろう。


卒業してから恋人を作ることはなかったけど、それは涼子との失恋を引きずっていたわけでもなく、ただ新しい出会いがなかっただけ。


だから別に、今日のことがあっても俺の中で何かが変わる訳じゃない。


暗闇の中で溺れるような生き方をしているのは、ただ自分がそれに相応しい人間だから。


『ごめんね……』


涼子が電話越しに呟いたその言葉をもう一度思い出す。


俺はまだ、仕事も、恋愛も、それどころか人間としても、あの頃から全く成長していない。


腕時計を持ってそれを見つめ、不燃物の屑かごに放ると、外側に当たって跳ね返り、カツンと安っぽい音をして床に落ちた。

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