第2話

 ピアノが届けられた次の日、俺はおっさんの店でピアノの練習をしていた。

 いつもなら、仕事のないホールスタッフとして時の止まった日々を過ごすところだが、何故かピアノを弾いている。

 俺は、表現も抑揚もない脳死プレイで仔犬のワルツを弾きながら昨日の会話を思い出した――。


『いや、ピアノ弾けって言われてもそんなに上手く弾けませんよ』


『良いんだよ上手くなくても。どうせ、俺の店じゃろくなピアニストが雇えない。それなら、今確実に実力が分かるやつがいるに越したことはない。それに、お前が弾いて客が増えればその分給料も上げてやる。悪くないだろ』


『とは言っても、今弾いた曲なんて普通の基礎の練習曲ですよ。誰でも弾けますよ』


『良いんだよ。問題は上手いか下手じゃないんだから。それに、お前もこの店潰されたら困るんだろ』


『まあ……そうっすね』


『だろ? 悪くは無い話だと思うんだ。だから、頼む……! この店を救ってくれ!!』


 ……と、半強制的にこの店の専属ピアニストをすることになってしまった。まあ、ピアニストなんて言えるほど大したものでは無いのは分かってる。

 そして、渋々引き受けた俺は、客が来ないのを良いことに仕事をサボってピアノをずっと弾いて練習している。

 正直結構楽しい、こんなの遊んでるようなものだ。

 勿論、これが俺の仕事になるんだしおっさんに文句は言わせねぇ。


「お前、普通にピアノうめぇじゃねぇか」


「指が動くようになっただけですよ。まだ音にムラが多いから、修正しないと」


 感覚は思い出しつつあるが、以前ピアノを弾いていた時と比べると随分味気ないし、雑な弾き方になっている。

 こんなので金が取れるのかどうか……。勿論、無理だろうな。

 もっと集中して弾こう。ピアノの音だけに集中して、ほかは何も聞こえないくらい深く。

 ショパンのエチュードを知っている限り思い出し、そして昨日と同じように所々誤魔化しながら弾いた。

 頭の中から指の動かし方がゆっくりと浮かび上がってきて、俺はそれの通り指を動かしていく。

 そして所々音が抜けていたり、別の音で何とかやりくりしたり、弾く度にここ違うなと思いながらも弾いていく。

 

「……これは、ちょっと酷いな」


 ため息を吐いて、俺は指をそっと下へ垂らした。まだ正確に弾けていない。

 それでも2、3人の拍手が響いた。

 やっべ、これ聞いてたのかよ恥ずいな。


「お兄さん。上手いですね。いやぁ、まさかこんな所でピアノの演奏が聞けるとは」


「面白いでしょう。私が思いついたんです」


 おっさんの外向けの口調にはなれないなぁ。

 俺にはめっちゃフランクな割に、客相手だと急に丁寧になるんだよ。気持ち悪いレベル。

 それに加えて今回は自分が機転を利かせて発明して、全て手柄を持ってこうっていうスタイル。いや、でもそういう調子の良い人を俺は嫌いじゃない。


「お兄さん。他に何か弾けるんですか?」


「ああ、まあ」


 メニューはまだ頼んでいる途中だし、口振り的に今の1曲しか聞いてなさそうだ。

 てことは、今一通り弾いてみたやつでマシなやつ選べばいいか。

 そうするとやっぱりゆったりしたのがいいな。テンポ遅めで、滑らかで綺麗な曲だな。

 思い出の曲とかそんな大層なものじゃないが、以前からめちゃくちゃ弾き込んでて今でも弾ける良い曲がある。少し前も確認程度だが割と弾けてたし。

 初めは確か……音を切らずに滑らかにだ。

 

 練習曲作品10第3番ホ長調。

 悲しみという副題があるらしい。別れの曲。と言えば誰でも分かるかもしれない。

 中学の時にショパンは腐るほど弾いていた。その中でも特に印象に残っている曲だ。

 多分、今まともに見せられるとしたら、これより若干難しい位が限界だろうな。

 因みに別れの曲っていう名前は映画かららしくて、実はショパンそのものとは関係がない。

 序盤と中盤は甘く、ゆったりとした曲調だが中盤は感情が激しく揺れ動く。

 因みにショパン自身が「これほど美しい旋律を見つけることは、もう二度と出来ないでしょう」なんて自画自賛したらしいが。その言葉がまた似合うのもショパン。

 やっぱかっこいいね。

 

 話は少し戻る。別れと言えば、今の俺が真っ先に思い出すのは元の世界だ。

 どんぐりの木が生える公園、立ち並ぶ電信柱、学校。

 中休みにドッヂボールで遊んだり、放課後に何人か友達を誘って家でテレビゲームをしたり、家族と北海道や沖縄へ旅行に行ったりもした。

 受験とかも大変だった。あんなに勉強したのに、結局公立は落っこちた。


 苦い思い出もあったが、その分楽しい思い出もあった。

 まだ帰ることを諦めてはいないが、俺はその全てに思いを馳せてそして――別れを告げた。


 一体、ショパンがどんなものを想像して作っていたのかなんて知る由もない。

 故郷への別れか、失恋か、それともそのどちらでもないのか。まあ、そもそも別れなんて関係がないのかもしれない。

 でもそんなことはどうでもいい。

 悲しみは生きていれば切ることが出来ない感情で、別れも然りだ。

 だから、今下を向いてはいけない。

 今やるべきことをやるだけなんだ。


 そっと、鍵盤を優しく沈み込ませて、この曲は終わりを告げた。

 そして、俺はゆっくりと息を吐き、溜め込んでいた緊張を出し切った。

 うん。今の実力の割には上手く弾けた気がする。


「……凄い。お兄さん、この曲はなんて曲なんだい?」


 客が話しかけてきた。めんどくさい。


「えっと、練習曲作品10第3番ホ長調。まあなんか、別れの曲とか呼んでください」


「練習曲? それなのにこんな綺麗な曲があるのか……」


 まあ、練習曲って初心者用の練習曲とは限らないし、このショパンのエチュード集に関しては少し特殊だったりもしたしな。


「ありがとう。ここに来れてよかったよ。近所にも是非この店へ来るように伝えてくるよ」


 おっさんが飯を運んできて、練習は1度中断だ。

 俺はぐぐっと伸びをして、大きくあくびをした。

 そろそろ空は少しずつオレンジ色へ変わる頃だろう。店も、ゆっくりと締めの準備に入る。


「はぁ〜……。腹減ったし、賄いだ賄い。おっさん。パエリア作ってく……れ……?」


 俺の太ももにぽんと小さな手が乗せられていた。柔らかくて温もりを感じる小さな手だった。

 そこにいるのは金色の髪が伸びる少女。

 育ちがいいんだろう。率直に綺麗だな、と思った。


「あ……あの!」


「う、うん?」


「今の曲、もう一度弾いて貰えますか?」


 今の曲を? 


「まあ、良いけど」


 俺はもう一度椅子に座り、別れの曲を弾き直す。そんな2度も同じ曲聴いて楽しいもんかね。

 と思いながらも渋々弾く。だが、何故かさっき感じた輝きを、音から感じ取ることが出来ない。

 また、無機質に鳴り響いてくる。電子音ののように淡々と鳴り響く。

 

 少女はそれを真剣に聴いていた。少女は違和感を感じて無さそうだし、音自体は問題ないのか……?

 気のせい、か。

 少女の服装的に、ただの一般人って感じじゃなさそうだ。白いシャツはしっかりボタンが閉められていて、黒いスカートに、よく手入れされた革のブーツ。顔は整っていて、肌も健康そうな真っ白な肌。

 見た目からしておそらく貴族だ。


 こんな所に貴族が来るなんて、ほとんどないんだけどな……。親はどうしたのだろうか。


 2回目の別れの曲が弾き終わり、また拍手がパラパラと鳴り響いた。だが、目の前の少女は固まったまま、黙りこくっていた。


「……決めた」


「うん?」


 突然、少女が口を開いた。


「私を弟子にしてくだひゃ……くださいっ!!」


「うん!?」

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