第19話 旅の宿

 二人は湯上がりで高揚したまま一階の風呂場から二階へ上がり、部屋へ戻る廊下で女性論を語りにながら闊歩かっぼした。

 部屋へ戻ると見計らったように片瀬成美が夕食を運んで来た。木下が「図ったように来られるのですね」とそのタイミングに感心した。応えるように成美は愛想笑いを浮かべた。

「お客様へのおもてなしが最大のお宿の魅力ですから常に心掛けていますよ。それより結構長湯されてさぞお話が弾んだのでしようねそのせいか加納さんは顔色が良くなってよかった」

 そう云って彼女が次々と料理を座敷机に配膳したが手付きがどうもぎこちなかった。

 くつろぐ木下は気付かなかったがこの変化に加納は直ぐに気付き、どうしたのかと尋ねた。 

 何でも無いと気丈に成美は答えたが、よくよく訊くとあの鎖で祖父が自分の手を痛めたのを知って、前回より表情に陰りが見られそれが気に掛かっていたそうだ。それで配膳が終わり手の空いた頃を見計らって片瀬が話を続けた。

「さっき電話で母に聞いたの、あのタイヤチェーンが今日まであの家に有ったそうだと」

「照美さんと連絡を取ったのですか」 

「母に鎖の話をすると井久治いくじさんのお父さんがずっとあの家に残していたなんてと、みんな知りたがっていたけれど今まで誰にも言わなかったから道幸みちゆきさんによくもまあ話したもんねと感心していたの」

「と云うことは伯父さんも無くなったのは分かっていても今まで残してあったとは知らなかったのか」

「あのごった返している納屋を見ればおじいさんから聞かされなけゃあ分からなかっただろうなあ」

「道幸さんも加納さんには教えたくても自分から言い出せなかったから、多分、木下さんが問い詰めたのが渡りに舟で案内できたんじゃないかしらと母は言っていたの」

 ーーお父さんの四十九日が過ぎると処分するんじゃないかと思って。とにかく耀子ようこさんがいなくなった辺りから指が可怪しくなったのは織機で痛めたとは訊いていたけれどじっくり見た事が無かった。だからまさかタイヤチェーンで痛めたとは思えなかった。それを道幸さんが知って途中で引き留めて、今まで沈黙してお父さんを守ったのね。母から聞かされた母との恋の華やかさを断たれたあの血糊のタイヤチェーンが、耀子さんの人生を大きく変えてしまった。それで母は幼馴染みの将来を託した彼女に心を痛めていた。だから彼を思い描くとどうも胸が痛むらしいと母から加納の力添えを託されちゃったと笑った。

「照美さんもけっこう気に掛けてくれたのですか」

「あなたのお父さんとは耀子さんよりズッと長い付き合いですもの」

「幼馴染みだそうですから」

「今年大学を出てまだ社会人一年生のあなたをだから気にしているのよ」

 人生経験がまだ未熟なところは私が指導しますからと木下が間に入ってくれた。 

「職場の人にも恵まれていいわね、でも文学部と聞いてますが今の会社とは縁がなさそうね」

「文学部なら学費と小遣いの為に最低限の出席と単位でかろうじて卒業出来そうだったからでもどっちも身に付かなかった。だからまだ中退の木下の方が知識が豊富だったよ」

 そこまでして手に入れたかった学歴とはあなたにとってんなんのと加納は成美に問い詰められた。

「どうすれば良いか答えが出ないまま進路を決めたものだから取り合えず将来は先々で後悔しないようにただ肩書きが欲しかった。でも社会に出てこれは失敗だと気付き、弟には両立するなら夜間の大学へ行けと行ってるんです」

「だからこいつは女を全く知らんから一席ぶったまでですよ」 

「ああ勿論だが木下のさっきの女性観を聞いて世間の視野が広がりそうだ」

 どんなのとせがむ成美に加納は簡単に説明した。 

「何ですのそんな女性論で勝手に女の生き方を決めてしまうなんて良くないわよ」

「いやこれは一般論でなく有る女性の生きざまを言ったまでで特定の人を批評しょとしたのじゃない。極端なまでに妥協を求めずに決めた以上は突き進むまあ女性としては滅多にいない人を言ったまでで」

 説明に苦労する木下がいらんことを言うなと横目で加納を見てから片瀬に言った。

「滅多にいない人の生き方を聞いても遣り切れないでしょう加納さんはどう思うの」

「さあ木下だけの胸の中にいる幻の人かも知れない」

「幻って云うのはこの世に居ない理想の女性像を世間一般の人に当てはめるなんてどうかしているわ」

 ちょっと難しい顔をして片瀬が言うと木下は慌てた。 

「現実に居るんだその人は」と木下は写真を加納に見せた。

 木下が出した女の写真は涼しそうな切れ長の目だった。これが木下の言う矢絣の目だって云うのかと加納は呆れた。

「違うじゃないか、どこが矢絣の目なんだ」と成美にも見せて賛同を求めた。

「だから形じゃないんだ相手の心を射抜く鋭い目だと云うのだ一度突き刺さったら離れられない目を言ってる、要は真っ直ぐなんだ。写真でなく実物を見れば納得する」

「写真ではそんな感じは何処にも発散していないなあ」

 昔は嫁ぐときに婚家から戻って来ない意味を込めて娘に矢絣の着物を持たせたとか言うらしい。

「当たり前だ一流のカメラマンが表情を注文して狙って撮ったもんでなく素人の俺が真面目くさって撮った写真だ。それでもよく撮れてると思うんだが」

 憂いを帯びた写真ねと言いながら片瀬から戻ってきた写真を大事そうに木下は仕舞った。

 食事が終わると片瀬は廊下のワゴンテーブルに食器を運び終えて部屋に戻り明日の予定を伺った。

 木下は帰りは電車でなくレンタカーで帰るつもりだと言って舞鶴から二十七号線で丹波越えをすると伝えた。

「亡くなったお父さんの足跡を辿るつもりなのね」

 明日は観光案内したげると微笑んで、じゃあまたと言って彼女は部屋を出た。


 翌朝は泊まり客少なかったせいか一階の広間に用意された朝食会場は閑散として彼女の姿はなかった。食卓に着けば現れると思っていたら年配のおばさんが食事を用意した。代わりに世話をした宿の人は「成美ちゃんに手伝ってもらうほど泊まり客もないから休んでもらったの」と告げて一時間後に成美ちゃんが迎えに来ると言われて二人は安堵した。

 部屋に戻り荷物をまとめると早めに受け付けでチェックアウトして横のロビーで暫し待った。駐車場に車の止まる音がすると軽快に玄関から成美がやって来た。成美は宿の人と挨拶してから出た。

 二人は後ろに座ろうとして「加納さんは前に座ったらと勧められて」木下もそうしろと目で合図されて宿を出発した。車は前回半島回った時と同じ軽自動車だった。

 軽やかな彼女のハンドルさばきに中々上手い運転ですねと加納は努めて穏やかに切り出した。

「この辺は車が無いと何処に行くにも不便なのよ」と加納の気持ちを知ってか知らずか差し障りのない返事をした。

 後ろで木下はそんな話の成り行きを見守っていた。

 海岸沿いの景色に見とれていると加納の持つ山林近くでは波多野の事業に話が集中した。単調な海岸沿いだが好天に打ち寄せる波が次々と岩や波打ちに砕ける様は見飽きなかったし、見るだけで心は安寧を取り持った。

 天橋立辺りから雑踏の中に乗り入れた。と言っても都会よりましだが今までの単調な海岸沿いを走り慣れた者には、この降って湧いた賑わいが、夏の夕立に似て驚かされる。

「賑やかになってきたでしょう」

「都会に比べれば雀の囁きですよ」

 木下の比喩は滑稽すぎた。何もどこにでも居る雀を持ち出すほどの物でもないと思ったからだ。案の定成美は含み笑いをしていた。後ろの木下は気付いてないようだった。

「うちの母に木下さんが言った女性を聞いて耀子ようこさんの様だと言ってましたよ」

「それって加納のお母さんだろう、そうなんか」

「昔はそうかも知れんが今では似ても似つかぬ人に見えるけど、なら、燃え尽き症候群かなあ」

「それは酷い、女の情念って灰になるまでって宇野千代さんが言ってたわよ」

「そこまで行かなくても、でもお袋は二十代中頃で俺を連れて夜逃げ同様に飛び出してきて落ち着いて暫くして『新しいお父ちゃんやで』と云われても古いお父ちゃんとどこがちごたんやろうとピンとこなかったんだ。それぐらい数週間で忘れてしまっただから余り憶えていないんだ」

「おいおい、それは幾つの時だ」

「それがお袋に訊くと二歳になってなかった頃だと言ってた」

「ウン、ほぼ当たってる、お母さんが再婚してから耀子さんと会ったけどなんか目が死んでるって言ってた。今とちごて生きていくだけで精一杯な生活を考えるのが人の常だと思う。だから木下さんも昔の人は幼児おさなごを抱えていればそんなもん言ってられへんなんとちゃうやろうか」

「なるほどなあ……」

 一寸木下は落ち込むように眉を寄せた。

「だから滅多にいない人だと木下は強調したいんだろう」

 それで木下は俄然張り切りだした。

「そうだ、女の本能としては生き延びれる人になびくのが人の常で、そうで無い女は非常識だと云うのなら、彼女はそれに当てはまるけど、それは華麗なほどの非常識な人と思って欲しい」と木下は夕べの補足説明をした。

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