第九幕 渦巻くは

 俺が思うに、この町の夜は、渦巻くようにし、やってくる。

 たそがれどき。富さんの作る飯を食い終えた俺は、海沿いの町の中程にある親分の大屋敷の屋根から、ぼんやりと景色を眺め、そう思った。

 ここから見えるのは、お天道様の映る、波立たぬ赤い海。そのすぐ向こうには、大きな山。その山の名は、老いの山というのだと、屋敷の誰かが言っていた。つまりこの海の波立たぬのは、それが山と山の間に差し込むようにして出来た、大きなみずうみのようなものだからなのだろう。

 向こうの山とともに海を挟むは、この屋敷のある、賑やかなる港宿場である。この町は夜を前にしても人で賑わい、まるで静かと言う言葉など知らぬように思える。俺の居た村とは、えらい違いであり、毎日が祭りのようだ。

 町の辻に灯る提灯の灯りを追えば、それは様々な軒から現れ、また別の軒下へと消えることを、せわしなく、ずっと繰り返していることが、わかる。きっと、それら人のもつ光が、夜の闇をうすくしているのだ。

 俺の生まれた村では、夜は帳を落とすようにして、やってくる。たそがれになれば、人々は家へ帰り、飯を食い、眠る。だから、夜はするりと、降りてくるのだ。

 ずっとそうして町の灯を見ていると、やがて老いの山のうしろへ、お天道様が沈んでゆく。それでも人の持つ光は、ぐるぐると町を回り、決して止まりはしない。このようにして、この町の夜は、渦巻くようにやってくるのだ。



「おい椿、ちょっと。」

 一郎さんがそう言い、風呂上がりで濡れた髪を拭う俺を呼び止めたのは、とっくりと日も暮れてからのことである。

「親分が目を覚まされた。話があるそうで、お前を呼べと。」

 それを聞き、俺はいつの間にか立ち込めていた、胸の中の黒き雲が晴れたのを、たしかに感じた。死んでいないのなら、目の覚めることは必定にある。夜半近くになってから目の覚めるのは寝坊助だが、さして珍妙なことでもない。しかし当たり前に目覚め、元気よく起き上がることの有り難さというのは、何にも変えられぬ良き事なのかも知れぬと、俺は近頃になり、分かり始めたのだ。

「目の覚めるのは、良い事です。しかし、むつかしい話は、いやですよ。」

「心得とるわい。……親分は恐らく、お前のその馬鹿さを買うておるのよ。」

 それは少し呆れたような物言いであったが、馬鹿さを買うてくれると言うのなら、いくらでも売ろう。しかしあまり親分に馬鹿になられても困るので、考えものではある。



 屋敷の隅にある、かびた紙の匂いのする狭い部屋の端には、油に灯した、白くか細き炎が揺れていた。窓の無いこの部屋は、濃い闇と、それを照らす白しか無く、まるで墨で描かれた絵のように、奇妙である。

「おう。来たか、椿よ。」

 部屋の白灯に照らされる親分は、夜も更けたと言うのに、初めて会った時と同じに、真っ黒の着物を着て、えらそうにふんぞり返っている。

 親分は、机の上に置かれた、むつかしげな漢字や数の書かれた紙の束をそっと閉じると、左手に持った小ぶりの筆を音無く置く。その隣には、次郎さんも、仏頂面で突っ立っている。

「一郎。お前はちょいと、外してくれるか。」

 一郎さんは少し驚いた顔をしたが、すぐ何も言わず頷くと、黒い影を映すましろな障子を開き、出て行った。親分は遠ざかっていく廊下のその足音を六つほど数えると、やがてふんと鼻息を鳴らし、こちらをその細い目で見やる。

「昼間は随分、情けないもんを見せちまったなぁ。」

「じつに。あの時の親分は真っ青で、アマガエルのようでした。」

「これ!この馬鹿!」

「ええて、ええて。」

 親分は、この白と黒の部屋の中にあっても、やはり蛙のようなつら構えで、今どのような思いをしているのか、分かりづらいところがある。口の端はいつもへの字で、はれぼったい瞼からちょろとだけ覗くひとみは、どこを見ているのかも窺いがたい。

「おめぇらだけに話ってのは、無論あの箱の話じゃ。家の者が皆、あの箱に関して不安に思い、知りたがっとるのは、よう分かっとるつもりじゃ。……しかし、皆に全てを話しても、わしがとち狂うたと思われるだけと思うてな。」

 障子に映る三人の影が揺れたのは、親分のくたびれたため息が、白い灯りを揺らしたからである。

「……あの箱な、あらぁ、老ノ山の鬼の所業よ。」

「……おに。」

 おに、オニ、鬼。口の中でそう何度も言うと、ふと昔見た絵巻のことを思い出した。鬼と言う者を、俺は昔、寺の絵巻に見た事がある。それは確か、赤や青や緑の肌に、角の生えた、人のなりをしたばけものである。地獄に住む鬼らは、針の山や、煮える大窯に人を落とし、終わりなき責め苦を与えるのだと、絵巻を見せてくれた住職は、言っていた。

 しかして、箱の中に芥を詰め込め送りつける鬼というのは、随分、しみったれた鬼である。俺は字が書けぬが、文など付けて向こうに箱を送り返せば、向こうもくだくだしき文を付け、またこちらへ送り返してくるのでなかろうか。

「あぁそうか。だから、倒れられたとき、ごんごう鬼の大太刀と。」

「……よう覚えとらんが、ついつい口が走ったやもしれんな。」

「親分、あれが鬼の仕業としましても、何故椿と、俺だけに。」

 次郎さんは、一郎さんがここに居ないのに、ずいぶん得心いかぬようである。あるいはそれは、自分だけがここに残された事か、俺がここに居る事かも知れぬが。ともかく、どこか気に入らなそうに、仏頂面で、静かに吠えているのだ、次郎さんは。

「まぁ待てや、次郎。ここにお前ら二人だけを集めたは、無論、訳あっての事よ。一郎の奴はようしてくれとるが……ちょっとばかし賢しいとこがあろう。」

「あぁ、なるほど。それで俺と次郎さんだけ……。」

 さかしい者を遠ざけたと言うのなら、俺と次郎さんだけがここに残ったのは、なんだか納得いく話である。俺は親分の筋の通った話ぶりに頭の中のもやが晴れ、すっきりした心もちになり、思わず手を打った。しかし次郎さんの方は、眉間にしわを寄せて、今にも噛みつかんばかりである。

「なるほどじゃねぇやぃ。この阿呆!」

「あいてっ。」

 次郎さんに突然どつかれ、思う。どうしてこう、親分や一郎さんでなく、いつも俺に向かい怒るのか。初めて出会ったその時から、次郎さんのことわりが、俺にはいつも分からない。

「まぁ、そうカッカすなや、次郎。何も馬鹿だ阿呆だってんでお前らを集めたわけじゃあねぇ。……俺が求めとるのは、鬼に屈せぬ、忠と勇よ。」

「鬼に屈せぬと言うのは、つまり……?」

「……察しの通り、わしがここから先を話せば、主らは鬼に逢うやも知れん。それでもわしに奉公を続けてくれるか?」

「俺は、かまいません。」

 即応した俺に、どうしてか次郎さんは驚いたようで、顔をぶんと振り目を開き、こちらを見た。

「おめぇ、少しは考えてから物を言わんかい!」

「用心棒をやめれば、母の病も、なおりませんので。」

「ええ心掛けじゃ、椿。……次郎、お前もはっきりせんかい。」

「……父無子ててなしごの俺らを面倒見てくれた誼、忘れるわけがねぇじゃねぇですかい。」

「……あい、分かった。おめぇらのこれよりの恩義。この彦田祥吉郎、決して忘れぬと誓い立てしよう。」

 親分は牛蛙のように重々しくそうのべると、すっくと立ちあがり、行燈の皿に灯し油をそっと足した。それは、まるでこれから語ることの間には、決して灯りをたやしてはならぬとでも言いたげな、どこか怖じるような所作であった。

 ごくり、と一郎さんが唾を呑んだのが、間近の闇を通し、伝わった。

「ごんごう鬼っちゅうのは、とうに忘れられた老ノ山の古き鬼よ。」

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