第八幕 猫は無く

「椿ちゃん、またほっぺにご飯粒ついとるよ。」 

 そう言いながら俺のほほの米粒を取ってくれる、皺だらけの小さな人は、富さんと言う名前らしい。富さんは、この大屋敷で働く女中の中でもえらい人であり、上女中と言うのだと、一郎さんが教えてくれた。

「どうも、すみません。」

「椿ちゃんを見よると、孫が小さい頃を思い出すねぇ。」

 そう言う富さんの方は、死んだ俺のばあ様に良く似ている。俺の事を、可愛がってくれ、良く面倒を見てくれるところが、たいへん良く似ているのだ。

 俺の向かう机の上に並ぶ、お刺身やみそ汁などの料理は、全てこの富さんが作ったもので、大変うまい。先程まで母の料理を恋しく思い、何だか悲しい気分になっていたのが、嘘のようである。出来るのなら、富さんの作る鯵のお刺身を食いながら、ずっとこのお屋敷に住んでいたいとさえ、今は思う。

「そう言えば、一郎さんと次郎さんは、お刺身を食わないのですか?」

 俺がそう聞いたのは、この客間が広すぎるゆえである。一体いくつの畳から成るのか、良く分からぬほど大きな客間なのだ。そんなところでぽつんと一人、机を並べ飯を食うというのは、何だか不思議な気分である。

「祥吉郎さま、まだようならんみたいやけぇねぇ……。」

 祥吉郎というのは、親分の下の名であるらしい。あの横長に大きな体と顔で、きちろうと言うのは、何だかこっけいではないだろうか。

「親分は、ぶさいくなのに慕われているんだなぁ。」

「そんな事言っちゃいけんねぇ、椿ちゃん。昔は線の細い男前やったんよ、祥吉郎様も。」

 富さんは、俺の事を咎めながらも、可笑しそうにけらけらと笑った。富さんはばあ様のようでもあるが、このように、わらべのようなところもある。

「富さんは、親分が子供のころをごぞんじですか。」

「そりゃそうよ。あたしは祥吉郎様がまだ小さい頃からずっと、この家にお仕えさせて貰っとるんやけぇ。」

「あの親分にも、わらべの時分があると言うのは、何だかこっけいです。」

 頭の中に、ガマ蛙の親子の絵がふと浮かび、俺はこらえきれず、口の端から笑い声がこぼれた。

「祥吉郎様が小さい頃は、このお屋敷もこんなに大きくは無くてねぇ。女中だって、あたし一人しかおらんかったのよ。」

「ほう。屋敷とは、大きくなったり小さくなったりするものなのですか。」

「ま、銭が増えれば大きくもなるわねぇ。」

「それでは、昔の親分は銭が無かったのですか。」

「今ほど儲けては、無かったやろうねぇ。」

 すぅと息を吸って吐くと、富さんは、部屋の上を渡る、高い天井の梁を横に眺めた。しかし、その目はどこかもっと、ずっと遠くを見ているような、不思議なまなざしである。

「そりゃまぁ貧乏って訳じゃあなかったけどねぇ。……屋敷が大きくなったのは、祥吉郎様に代替わりをしてからの事やけぇ。」

「……親分の父は、死んだのですか。」

「赤間のお宮の傍の海で足を滑らせて、そのまま、えべっさんよ。それからは、気を病んだ母上もお亡くしになって。……こんな事言うたらいけんけど、何か悪いものでも憑いちょうみたいに、立て続けよ。」

「……なるほど。親分は、一人ぼっちですか。」

 俺はあんぐりと口を開けながら、富さんと同じように上を向き、広い天井の梁を右から左へと眺めた。

 このような大きな屋敷の中に、父も母も無く、一人ぼっち。俺だったら、もっと小さな小屋に住むであろう。屋敷が大きくなればなるほど、一人の寂しさは、深まるような気がするからだ。

 そう考え、ふと思い至ったが、もしやすると、一郎さんや次郎さんもそう思い、親分の傍にいつもお仕えしておるのかも知れぬ。もしそうだとすると、うるさく、嘘つきなばかりのあの二人は、存外にやさしいところがあるのやも知れぬ。

「……あの不気味な箱。中に何が入っちょったのか知らんけど、随分悪いことをする人がおるもんよねぇ。」

「富さんは箱に入っていた物を、見ておらんのですか。」

「祥吉郎様が、次郎さんと一郎さん以外には教えてくれんかったけえ。……椿ちゃんは、見たんかね?」

「一郎さんが言うので、本当かは知りませんが、桜の枝と折れた釣り竿が入っていたと。」

「……なんね、そんなもんで祥吉郎様は倒れられたんかね。あたしゃてっきり、もっと恐ろしいもんかと思っちょったいね。」

「親分はきっと、ながほそいものが怖いんです。」

「そんなこたぁ、ないだろねえ。」

 富さんは俺の推理をあっさり切り捨てると、何だか思うところあるように畳を見詰め「桜の枝に、釣り竿ねぇ……。」と呟きながら、一人思案に暮れてしまった。

 仕方が無いので俺は、止まっていた箸を動かし、鯵のお刺身をご飯の上にのっけ、それを口の中へと放り込もうとした。

 が、その箸を持つ手は自然と、ぴたり止まった、

 季節外れにも、刺すような冷たい風が吹いた気がしたのだ。

 風が吹いてきたのは、閉じた襖で隔てられた先の、仏間の方からである。俺は何故だか妙に胸が騒ぎ、耳を澄ませる。すると、微かだが確かに「みしっ……みしっ……」と畳の軋む音がする。

「誰だ!?」

 足音を忍ばせ、この屋敷の中を歩き回る者など、女中たちや、一郎さんらではあるまい。きっと、悪人に違いない。そして悪人と言えば、黒い箱の送り主である。

 思い至り、急ぎ立ち上がると、俺は仏間へと続く襖を開いた。勢いのままに開かれた襖が柱を叩くと、まるで拍子木のような威勢の良い音がした。

「椿ちゃん、一体どうしたんね?誰かおるんかね?」

 後ろで不安げにそう問う富さんの言葉を気にしないようにしながら、俺は仏間の端々に広がる冷たい闇の、その一つ一つに、じっと目を凝らしてみた。

「……にゃあ。」

 屋敷のどこか奥の方から、奇妙なる猫の鳴き声が響いた。

「どうも、すみません。どうやら、猫が入り込んだようです。」

 怖がる富さんをおもんばかり、そう言ってはみたが、俺は何だか、腑に落ちぬものを感じるのだった。それがどうしてかは分からぬが、何か良くない者が、この屋敷に入り込んだ気がし、しようがないのだ。

 未だ収まらぬ腕の鳥肌をそっと撫でると、俺の体がひとりでにぶるりと震えた。

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