船の到着(7)

 屋敷はすでに炎の海だった。

 入口を確認すると、マヤがいつも履いているサンダルが、きちんと揃えて置いてある。

 やはり、中にいることは間違いない。

「うっ……」

 ムラコフが一歩足を踏み入れると、強烈な火の粉の匂いと、むせ返るような激しい熱気が襲ってきた。

 呼吸が苦しく、思わず右手で口を塞ぐ。風が強いせいで、想像以上に炎の広がりが早いようだ。

 素早く左右に目を走らせるが、マヤの姿は見当たらない。

 炎はまだ天井までは回っていないようだから、少しの間なら大丈夫だろう――。

 コートを脱いで飛んでくる火の粉を払いながら、ムラコフは屋敷の奥へと走り出した。

「どこだ……」

 酋長の屋敷は非常に広く、いつもモモナが行われる大広間以外にも、細かい小部屋がたくさんあった。

 さらに二階もあるから、すべての場所を探すのは相当な手間である。

「……」

 仕方なく小部屋を一つ一つ確認していくが、マヤの姿は見当たらない。

 おそらく自分の部屋にいる可能性が高いのだろうが、屋敷の間取りを知らないムラコフにはどうすることもできない。どこがマヤの部屋なのかわからない以上は、こうして一つ一つ順に調べていくしかないのだ。

「!」

 一階にある部屋をすべて確認し終わって通路を曲がると、廊下の一番奥でマヤがうずくまっている姿が目に飛び込んできた。

 一目散に、その場所へと駆けて行く。

「マヤ!」

 ムラコフはその場にしゃがみ込んでいるマヤの右腕を乱暴につかんで、身体を引っ張り起こした。

 見たところ怪我はしていないし、意識もちゃんとあるようだ。おそらくは、驚きと恐怖で腰が抜けただけだろう。

「立てるな? よし、逃げるぞ!」

 そう叫ぶと同時に、ムラコフは素早く建物の様子を確認した。

 木組みの柱は、まだかろうじて支柱としての役割を果たしている。小部屋を一つ一つ確認しながら来たので時間がかかったが、ここなら入口からさほど遠くはない。

 助かった――。

 ムラコフがそう思って安堵した瞬間、思いがけない出来事が起こった。

「待って! 上の階に――」

 そう言うと、マヤは自らを抱え起こしたムラコフの腕を払いのけて、入口とは逆方向にある階段を上がっていった。

「なっ」

 すぐに追えばその場で捕まえることもできただろうが、あまりにも突然のことだったので、ムラコフはあっけにとられてしまい、状況を理解するまでに数秒を要した。

 屋敷は今のところかろうじて形を保っているが、おそらくそれも時間の問題だろう。

 二階にいる時に天井が崩れ落ちたりしたら、確実に――。

「ぐっ……」

 迷っている暇はない。

 ムラコフはマヤの後を追って、二階へ続く階段を駆け上がっていった。

「ゲホ……ゲホッ」

 二階は、一階以上に炎の回りが激しかった。

 呼吸が苦しいどころか、ちょっと口を開けただけで、体内が焼け付きそうなほどの高温の熱気が容赦なく襲ってくる。

 ムラコフは一瞬反射的に逃げようかとも考えたが、しかし今から階段を下りるのも、かなり危険な状態である。

(行くしかない――な)

 四方から迫りくる激しい熱気のせいで、目を開けていることさえままならない。かろうじて何とか開けても、襲いかかってくる煙のせいで自然に涙が出てきて、視界がうっすらとぼやけてしまう。

 視界が悪くどれくらい先に進んだかはわからないが、やがて遠くにマヤの姿が確認できた。

「マヤ!」

 ムラコフがそう叫んで走り出そうとした瞬間、天井を支える柱の一本が倒れてきた。

 その炎が床に引火し、激しい炎が視界を遮る。

 火の手が比較的小さい部分を通り抜けて、ムラコフがようやくマヤの元まで辿り着いた時、マヤは倒れてきた柱に足が挟まって動けない状態になっていた。

「バカか、お前! 何やってんだ!」

「だって、燃えちゃったら大変でしょ……これ……」

 マヤの声は、ほとんど聞きとれないほどかすれていた。

 おそらく、高温の熱気で喉がやられたのだろう。

「だからって、命より大切な物があるか! いったい何が――」

 そう叫びながらマヤが手にしている物を見て、ムラコフはハッとした。

「大切な物でしょ……?」

 身体中に衝撃が走った。

 かすかに微笑みながら、マヤがムラコフの顔を見上げる。挟まっている足以外にも、かなり火傷を負ってしまったらしく、白い腕や身体に痛々しいほど傷ができている。それでもその傷付いた右手で、彼女がしっかりと握っている物。

 誓約書だ。

 下には、マヤのサインが入っている。

「そんな物……」

 その瞬間、激しい後悔の念が押し寄せる。

「そんな物、どうだっていいだろ! どうしてこんなことをしたんだ! あのまま逃げていれば、おそらく無事に逃げられたのに――」

 ムラコフはマヤの身体の上に倒れた柱を持ち上げようとしたが、重たい柱はビクとも動かない。

「あなたのことが、好きだから」

 ムラコフの顔を見上げながら、マヤが答えた。

「これがあれば、あなたの夢が叶うんだよね? もし私のせいでムラコフ君の夢が叶わなかったら、私これからずっと後悔しちゃうよ。だから……」

 柱がもう一本倒れる音が、背後で轟く。

「だから早く、これを持って逃げて。私の気持ち、無駄にしないで……」

 ムラコフには、それ以上どうすることもできなかった。

 逃げ出すこともできず、マヤを助けることもできず、ただ無力にその場に座り込むことしかできなかった。

「マヤ……」

 その瞳からは、いつしか涙がこぼれ落ちていた。

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