南の島(13)

 雨は、降り止まなかった。

 最初はすぐ隣りに感じられるマヤの体温が落ち着かなくて戸惑ったが、慣れればそれは心地良かった。だからムラコフは、可能であればずっと永遠にこうしていたいと思ったが、それ以上に雨が激しくなってきた。最初は「スコールだからすぐに止むわよ」と言っていたマヤも、さすがに不安そうな顔をしている。

「帰った方がいいな」

「うん、そうだね」

 こんな土砂降りの中を濡れながら帰るのは気が進まないが、このまま無駄に待って雨がさらに激しくなってから帰るよりはマシだろう。それに万が一途中の道が土砂崩れにでもなって帰れなくなったりしたら、それこそ大変だ。マヤもそれには同意見だったらしく、ムラコフの発言にすぐに賛成した。

 二人は先程登ってきた山道を、急ぎ足で下った。急ぐと危ないとわかってはいても、雨が降っているせいで、どうしても早足になってしまう。

 ムラコフは先に下って、危なそうな場所では後ろにいるマヤに手を貸した。

「きゃっ!」

 それから、十分ほど歩いた頃だろうか。

 声がしたので後ろを振り返ると、マヤがその場に転んでいる姿が目に入った。

「大丈夫か?」

 ムラコフは慌ててマヤの元まで戻って手を差し出したが、マヤはなかなか起き上がらない。どうやら、腰を打ってしまったようだ。

「うぅ、痛い……」

 マヤは涙目になっていた。

 無理もない。転んで腰を打った上にこんな雨と泥まみれの状態では、誰だって泣きたくもなるだろう。

 ムラコフはその場にしゃがんで、マヤに背中を差し出した。

「捕まれ」

「え?」

 マヤがなかなか言う通りにしないので、ムラコフはもう一度言った。

「捕まれって。ずっとここにいたいのか?」

「でも、コートに泥がついちゃうよ」

「構うもんか。どうせもう、こんなずぶ濡れの状態なんだ」

 マヤがようやくおずおずと背中に捕まったので、ムラコフはそのままマヤをおんぶした状態で立ち上がった。

「気にするな。胸が柔らかいとか、太腿が柔らかいとか、別にそんなことまったく思ってないから」

「そんな発言をする時点で、そう思ってるんじゃない!」

 そう叫んだ後、マヤはしおらしい口調でこう言った。

「……ごめんね、私のせいで」

「いいや。スコールは別に、お前のせいじゃないだろ」

「でも私の感情が高まった時って、いつも決まって雨が降るのよ。昔からそうなの。もちろん単なる偶然かもしれないけれど」

「……」

 それって何だ? 感情が高まったっていう、その原因は俺か?

 ムラコフは考えたが、しかしこの状況でそんなことを尋ねるのも気が引けたので、そのまま無言で足を進めた。

 やがて二人が池の前に差しかかった時、バシャッと水の跳ねる音が聞こえた。

 雨粒の音ではなく、もう少し不自然な音である。

「何の音?」

 マヤが不安げにつぶやいた。

「さあな。大きい魚でもいるんだろ」

 ムラコフが気にせず池の横を通り過ぎようとした、その時。

「あれ!」

 池の方を指差しながら、マヤが悲鳴のような声をあげた。池の淵から、深緑色の巨大な生物がぬっと現れたのだ。

 ワニである。

「っ……」

 仮にもう少し小さければ、そのまま早足で通り過ぎることもできただろうが、そのあまりの大きさに思わず足が止まってしまった。

 軽く三メートルはあるだろうか。

 ムラコフがひるむと同時に、ワニはこちらに頭を向けた。どうやら、気付かれてしまったようだ。

「……」

 巨大なそのワニは、ゆっくりと池から這い上がってきた。

 池の周囲は、人なら通るのに苦労しそうな深い水草で覆われているが、ワニはそんな物ものともしない。巨体でガサガサと草を踏みつぶしながら、確実にこちらへ近付いてくる。

「くっ、高台まで戻るか」

 ワニがどれくらいのスピードかは知らないが、四本足で這っている以上は、人間が走る速度よりも遅いだろう。

 ムラコフは引き返そうとして後ろを振り返ったが、しかしその瞬間、自分の目に飛び込んできた光景を思わず疑ってしまった。

「!」

 そこにはもう一匹、別のワニがいた。

 前にいるワニほど大きくはないが、それでも二メートルはあるだろう。おまけにそちらのワニはもう完全に池から這い出てきており、引き返す道を完全にふさがれてしまっている。

 再び前を向き直ると、最初のワニはさらに近付いてきていた。

 鎧のように硬そうなウロコから、茶色い泥水がしたたり落ちる。深く裂けた口の中は粘膜で湿っており、それが無機質なウロコとの対比で余計に不気味に見えた。その口の中には、白く尖った歯がいくつも並んでいる。

「うぅ……」

 後ろに捕まっているマヤの腕に力が入る。

 二匹のワニはゆっくりと、しかし確実にこちらへ近付いてきた。逃げ場はすでになくなっている。

 どうする? どうしたら――。

「きゃあ!」

 後ろのワニがついに飛びかかってきてマヤが叫んだその瞬間、耳をつんざくような轟音が、鬱蒼としたジャングルの中に響き渡った。

 何が起こったのかわからず、ムラコフは一瞬その場に固まってしまったが、ゴロゴロと余韻が鳴っているところからすると、どうやら近くに雷が落ちたらしい。

 轟音に驚いた二匹のワニは、すごい勢いでバシャンと水の中に潜ってしまった。

「た、助かった……?」

 後ろでつぶやいたマヤの言葉で、ムラコフはようやく我に返った。

「みたいだな」

「うぅ、よかった……」

「しかし、安心してる場合じゃない。いつまた出てくるかわからないし」

「うん」

 早足で、しかし決して滑らないように池の前を通り過ぎると、ムラコフはそのまま一目散に浜辺へと向かった。

 それから、十五分ほど歩いた頃だろうか。

 二人はようやくいつもの浜辺へ戻ることができ、その頃には土砂降りだった雨もすっかり止んでいた。

 東の小屋まで帰ると、そこには酋長とお付きの男が待ち構えていた。二人の姿を確認した酋長は、マヤの前まで飛んできた。

「どこへ行っていた?」

 怒ったような声で、酋長がマヤに尋ねる。

「ごめんなさい」

「謝らなくてもいい。どこへ行っていたかと聞いているんだ」

「山の頂上」

「何だと?」

 マヤの返答を聞くと、酋長は顔色を変えた。

「ジャングルには入るなと、普段からあれほど言っているじゃないか。どうしてお前は、言うことを聞かないんだ!」

 それから酋長は、何やらもの言いたげな視線でムラコフをじっと見つめた。

「私が無理やり誘ったんだから、彼はまったく悪くないよ! それに転んだ私をおんぶしてくれたし、途中でワニが出たけど、ムラコフ君が追い払ってくれたんだよ!」

 酋長の視線に気付いたらしく、マヤは必死でムラコフをフォローした。

(いや、ワニを追い払ったのは、俺じゃなくて雷だけどな)

 ムラコフは内心そう考えたが、しかし黙っておいた。

 自分の手柄だと言われたことを、わざわざ自然現象に譲る必要もないだろう。

「そうか。とにかくもう、今後はジャングルに入るんじゃないぞ」

「……はい」

 こうなったことを反省しているのか、マヤは大人しく頷いた。

 酋長は去り際にもう一度ムラコフの顔を睨むと、そのまま何も言わずに、マヤを連れて黙って帰って行った。

「ハァ……」

 ムラコフは安心と疲れで思わずため息をついたが、それを聞いていたお付きの男に笑われてしまった。

「ははは。とんだ災難だったな、兄ちゃん。まあでも、気にすることないさ。酋長は元々あの娘に対して過保護だが、最近は輪をかけてひどくなっているからな」

 お付きの男は同情するように、ムラコフの背中をポンポンと叩いた。

「まあそれも、無理のない話さ。何せ来年には、手放さなきゃいけないんだから」

「来年?」

「ああ。酋長の娘は、十七歳で結婚しなきゃいけないんだ。島のしきたりでさ」

「なるほど」

 だからマヤは、山頂であんなに憂鬱そうにしていたのだ。

 以前のモモナの時に、ファティ達が「ムコ候補がどうの」としきりに話していたのも、そのためだったわけだ。

「ちょっと待ってろな、乾いた薪を持ってくるから。濡れた服を乾かしたいだろう?」

「ああ、悪いな」

 そう返事をしながら、ムラコフは先程マヤが言った言葉を思い出していた。

『もしムラコフ君が乗っていた船がこの島に着いたら、私も乗せてくれないかな?』

 つい軽く返事をしてしまったが、本当にできるのだろうか。

 まあ、でも――。

「まずその船が着かないことには、な」

 ムラコフは、雨上がりの水平線に目をやった。

 そこには船の姿はなく、代わりに七色の虹がうっすらと幻想的に浮かび上がっていた。

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