エピローグ

エピローグ

 挫折の受容には半年を要した。それも、おめおめと故郷に逃げ帰るという部分だけでだ。カイル・ブランフォードが心から自分自身を赦すためには、もう少し時間が必要だった。一年やそこらでは足りないというのも、最近になって知った。

 テキサス州ポッター郡、アマリロ。州の北部に位置し、人口二十万を有するこの郡庁所在地こそ、カイルの生まれ故郷、いわゆる、ふるさとである。


 彼が帰郷を決めたのは、昨年の十一月のことだった。組んだばかりの相棒を失ってから半年ほどが経ったころのことだ。

 自信、居場所、期待、誇り、信頼、未来、相棒、被疑者。あの運び屋と探偵とに対峙した夜、駐車場で意識を失い、のちに病院で目を覚ましたときには、すでにすべてを失っていた。

 復帰からの三ヶ月間は、失態のマイナスを取り返すべくがむしゃらに業務に没頭した。交通整理だろうが駐車違反の取締りだろうが、とにかく任された仕事のすべてに、これ以上なく真剣に打ち込んだ。少しでも早く元の調子を取り戻したかったからだ。

 だが続く二ヶ月は、そうするための気力すら削がれるばかりの毎日だった。上司の態度はよそよそしく、同僚はカイルを避けるようになっていた。それも致し方なかろう。なんといっても、彼はアレックス・マルドネスを怒らせたのだ。

 捜索対象だった運び屋も、警察とデモニアスとの仲介役だった優秀な警官も、その両方が行方不明になったというのに、右も左もわからぬような若造がひとり生き残った。それも、なんら役に立つ情報も持ち帰らずにだ。はっきり言って、カイルが現在まで命を繋ぎ留めているのは、アレックスの気まぐれによる部分が大きかった。

 そういう事情を踏まえれば、挽回のチャンスなど望むべくもないのは明らかだ。明日にでも朝刊の死亡記事に名を連ねかねない男と、喜んでともに働きたいという人間がいるだろうか?

 自分が帰る場所はない。あの輝かしいSLPDのオフィスには――。

 名残惜しさもないわけではない。だがそれ以上に、一刻も早く逃げ出したいという気持ちのほうが彼のなかでは強かった。


 二〇九三年晩秋。リック・ハズバンド・アマリロ国際空港に着いたとき、カイルは大きな溜め息を一つ零した。意識してそうしたのではない。独りでにそうなったのだ。

 嫌気が差すほど通った母校も、再会の挨拶さえ気恥ずかしい悪友も、いまや新しい職場となった生家も、十八でここを飛び出したときのまま、ほとんど変わらずに残っていた。そのことが、カイルは純粋に嬉しかった。

 彼の実家は何代も続く金物屋の家系である。基本的に家族経営で規模は小さいが、カイルの高祖父の代から続く由緒正しい店だ。ただ、ブランフォード家の長男でカイルの兄、マックス・ブランフォードには、稼業を次ぐつもりはまったくなかったらしい。マックスは現在、アマリロより約二五〇マイル東のオクラホマシティで、中古車販売員として生計を立てている。立派に独り立ちし、自分なりの人生を歩んでいるということだ。

 そういう事情もあってか、父母はカイルの帰郷を素直に喜んだ。父は「息子と一緒に商売ができる」と言って。母は「息子が無事に帰ってきた」と言ってだ。

 しかし妹はどこか不服そうだった。よほど兄を不甲斐ない人間だと思ったに違いない。と、カイルは当初そういう具合に考えていたのだが、実際には、妹の心配は別のところにあった。

「この店は絶対に譲らない。店主になるのはこの私よ、横取りなんて許さないからね」

 カイルがその宣告を受けたのは、店を手伝い始めた初日のことだった。どうやら、この気の強いそばかす娘――マデリンは、将来の夢を「金物屋の女主人」と定めているらしい。ブランフォード家の未来は安泰である。


    *


 そうしてカイルが実家で下働きを始めてから、また半年が過ぎたころ。二〇九四年の初夏。二十一世紀もいよいよ終盤に入り、気の早い連中のなかには、新たな世紀末について語り始める者も出てきた。

(五、六年も先のことを話して何になる?)

 カイルがそんなふうに考えるのは、たった一年前の自分自身の姿を思い浮かべるからだ。世に名だたるSLPDの警官だったころの姿を。その顛末を思えば思うほど、彼は強烈な不安感を覚えずにはいられなかった。グロテスクな光が差し込む駐車場ビル。血みどろになったスタンの顔。運び屋を刺した際のぬめるような手の感触。足を貫いた弾丸の痛み。救急隊員に化けた悪党ども。

 助けられなかった命と、自らの手で奪ってしまった命とが、ふとした瞬間に精神を蝕む。ガソリン車の排気ガスに巻かれたり、カーラジオのチャンネルを合わせたり、ひとり満月を見上げたりというような、どうということのない折々に触れて、その不安感は霧のように立ち込めてきた。

――あの運び屋はスタンに銃を向けていた。だからこそ、自分は過剰とも取れる攻撃を仕掛けた。相棒を危機的状況から救いだすためにだ。しかし、本当にあの若者の内に殺意はあったのだろうか? もし本気なら、奴はどうして俺を生かしておいた。ただ重罪を恐れただけか?

 その点について考えるたび、どうしても己の柱、正当性というものが揺らいでしまう。何か、とんでもない過ちを犯した気がしてならなくなるのだ。

 とはいえ、あの場面で他に何ができたというのだろう? 意識は混濁し、脳も手足も痺れていた。骨の髄から痛みが広がり行くなか、無我夢中でナイフを拾い上げた。運び屋が落としていったらしい小型のバタフライナイフ。そこから先は夢中だった。拳銃が奪われた以上、この小さな刃物が唯一の希望だ。どうあっても銃を悪用させてはならない。どんなことをしてでも、あの暴漢を止めなければ。

 それははたして、正しい判断だったといえるのだろうか?

 いつまでも塞ぎこんではいられない。これ以上、家族に余計な心配はかけられない。そういう想いは確かにあれど、だからといって、この立つ瀬のない後悔からは容易に立ち直ることはできなかった。

 もしも故郷がいまの形で残っていなければ、彼は耐えられなかっただろう。堕落か発狂か、でなければ、より潔い結末を選んでいた可能性もある。頻度というのはずいぶん減ったが、「かつてあり得たはずの今」について想像を巡らせることは、この五月中にも幾度かはあった。人間、そう簡単には生まれ変われないらしい。


 カイルがマルドネス氏の訃報を耳にしたのは、ちょうどそんな日々を過ごしていたときのことだった。

 例年以上に暑く、このところはとくに乾燥した日が続いていた。屋外に立って頭上を見上げると、色味の強い空に真っ白な太陽だけが浮かんでいた。じりじりと夏の迫りを感じさせる空模様だ。

 スレッジハンマーから電動ノコギリ、ドライバーやボルト、ナット、ホース、ダクトテープに至るまで、ありとあらゆる物品が雑然とぶら下げられた店内の一角。空調の良く効いた、しかしどこか圧迫感のあるその場所で、カイルはテレビのニュースに釘付けにされた。

 彼は無数のニッパーからなるカーテンの真下にいた。表面をゴムに覆われた持ち手と、簡素な仕上げ加工を施された金属部分とが、赤と白とのコントラストで一面を染め上げる。それはやや低い天井付近から始まって、ぽっかりと口を開けたレジカウンターの直上まで続いていた。店側と客側とが売買契約を結ぶ場所、要するに、支払いためのスペースである。また電池やエナジーバーに代表されるような、手のひら大の商品が色彩を競い合う場でもある。

 その朝、ブランフォード一家は、総出で開店の準備を行っていた。季節の変わり目ということは、売れ筋商品の変わり目ということでもある。日々刻々と移り変わる戦場のただ中にあっては、昨日成功した作戦が今日も効果的だとは限らない。工夫はいくらしてもし足りないくらいだ。

 開店業務の一環として、カイルは自らの持ち場たるレジスターに付いていた。釣り銭の用意を終えると、台上の整理と清掃を行い、そのままスナック系商品の賞味期限を調べ始める――そういう具合に、朝のルーチンを坦々とこなしていたところだった。普段と変わらず、ポータブルテレビを横目に見ながら、だ。

 毎朝のニュースチェックは警察学校時代に身に着けた習慣だった。身体に染み付いた日課とでもいうべき行動である。適切な情勢把握は何事においても重要だ。その日の予定が犯罪を取り締まることであったり、種々の住民トラブルに対応することなら、なおのこと。

 いま現在では明確な目的があるわけではないのだが、一度癖が付くとなかなかやめられない。ひととおり報道を確認しておかないと、一日中そわそわとして落ち着かない気分になるのだ。

 それに、そういったニュースのたぐいが世間話の種にしやすいのというのは事実である。つまり、客商売をするうえでも大変に役に立つということだ。そういう意味合いもあってカイルはいまでも、午前中の大半を携帯テレビをつけたままにして過ごすことに決めていた。

 そしてその朝、とりわけ新鮮な話の種が見付かった。昨晩、アメリカを代表する世界都市の一つ、サウスランドシティにて、凄惨な襲撃事件が引き起こされた。実業家ケイン・マルドネス氏の私邸に何者かが侵入し、同氏と関係者あわせて七名を殺害。またその直前には、ケイン氏の長男アレックス・マルドネス氏が経営するナイトクラブが同様の襲撃を受け、アレックス氏本人を含む従業員二十五名が殺害された。

 カイルは言葉を失った。まだ情報は錯綜しているようだが、これが事実なら途方もないことである。

「すごい、びっくりね」

 いつからそこにいたのか、妹のマデリンも一緒になってキャスターの言葉を聞いていた。

「テロかしら?」

「さあ……わからないな」

「ああ、ねえカイル」

「なんだ?」

「こんな言い方もしかしたら良くないかもしれないけど、いい時に帰ってきたね」

 良くないかも、と言ったのは、不謹慎に取られかねないと考えたからだろう。だがマデリンの態度に含意は感じられなかった。口角を少し上げ、目元には小さな皺が刻まれている。声の調子は柔らかく真摯だ。この娘はただ、本音から家族を気遣っているのだ。

「ああ、そうだな……本当にそうだ……俺は――」

 俺はこのケインに会ったことがある。

 思わず口走りそうになるのを、カイルは慌てて言い換えた。

「――俺はいい時に帰ってきた。まったく、そのとおりだよ」

 ケインだけではない。アレックスとも話をしたうえ、こと息子のほうからは一時的な監禁や拷問まで受けたのだ。顔見知りと言葉にするだけでも苦痛な間柄である。だが、それを妹に伝えて何になる。それこそ無用な苦労話を聞かせるだけではないか。

「そうさ……俺は帰ってきた。無事にな」

(終わったことさ、この町に持ち込む話じゃない)

 カイルはマデリンに目をやると、短く訊いた。

「テレビ、消してもいいか?」

「仕事に集中するって? 珍しいじゃない」

「集中は普段からしてるさ。ただ、情報は大事ってだけだよ」

「さあ、どうかしら。とにかく、今日もしっかり頼むわよ兄貴」

 最後にそう言い残すと、マデリンは正面玄関に向かい、遠ざかっていった。

 開店時間だ。カイルは大きく息を吸い込み、ポータブルテレビをうつ伏せに倒した。彼らに必要のないものが、これ以上、そこから飛び出して来ないように。



                                 了

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ゴー、ジャッカル あるいは近未来の怪物創造 純丘騎津平 @T_T_pick

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