生存者 十六

 乱れた髪に赤く腫れた瞼。激しく取り乱した痕跡こそあれど、ケインの動揺というものは早くも鳴りを潜めている。ジャッカルを呑み込んだ威圧感の源は、この男の自然体そのものだった。ケインの声や顔かたち、所作、姿勢、息遣い。そういった要素の奇跡的な組み合わせが、感覚器を通して脳が受容する信号に特殊な効果を与えているのだ。

 あらゆる経験から身に付く認識。個人の見分けが付くことや、また物を観察し、その物体が何であるかを判断する能力。人間が人間であると、土が土であると、雷鳴が雷鳴であると判ずるのと同様に、ジャッカルの脳は認めるのだ。いま、目の前に座すこの男、このケイン・マルドネスこそが、己が従うべき絶対的な君主であるのだと。

 全身が人工物で構成されているジャッカルも唯一、脳だけは生身に近い状態だ。その部分に対する攻撃には対策のしようがない。さらに言うなら、この一連の反応というものは、攻撃と呼ぶことすらできない事象なのだ。なんといってもケインには害意がないのである。この男はただ単に、自分自身としてそこに存在しているだけに過ぎない。

 そのケインの顔に鋭い視線を向けたまま、しかしジャッカルは為す術もなく立ち尽くすのみだった。お前は何者か、という問いに答えもせず、かといって明確に回答を拒否することもかなわない。ただ呆けたように沈黙を続けることだけが、このときの彼にできる精一杯の抵抗だった。

 それをどういう意味に受け取ったか、ケインはまたも視線を落とした。うつむき、じっと床を見る。しばらくその恰好を続けたあと、今度はデスクの引き出しに手を伸ばした。数秒後、そこに現れたのは一丁のリボルバーだった。銃身が長く、胴体もボリュームがある。やや小柄なケインが持つには不似合いなほどのサイズだった。

 ジャッカルがその真意に気付くより先に、それは存分に効力を発揮した。銃弾は彼の左脚に命中した。どうにか無事に残されていた最後の四肢だ。普通の拳銃弾であればものともしない特別製の骨が、一撃のもとに粉砕される。さすがに小銃のたぐいには及ばないものの、威力は充分。おそらくはマグナム弾。口径は五十を下回らないはずだ。

「痛みは感じないのか? それは残念だ。シンプルな方法に頼れない」

 転倒し、その場に這いつくばったジャッカルの姿を、ケインは無表情に見下ろした。「シンプルな方法」というのはおそらく、肉体的な苦痛を伴う拷問を指しての言葉だろう。ギャングにとっては最もポピュラーな交渉法だ。

「かといって、ご家族やご友人を招待しようにも、お前が誰なのかさえわからないのだから、どこに迎えを寄越せばいいのかもまた、わからない。困ったものだ。私はどうやってお前を苦しめればいい? いっそハンムラビ流のやり方で決着をつけてもいいが、まあ、それも難しいかもしれんな。なにせ、お前の生皮はお前自身が剥いでしまったのだから」

 そこまで言うと、ケインは椅子の肘掛けにぐっと体重をかけ、鷹揚な仕草で立ち上がった。片膝を悪くしているのだろう、右の足を少し引きずるようにしながら、彼はゆっくりとジャッカルに近付いた。

 ややあって、ジャッカルのすぐ頭上まで歩を進めると、ケインはそこで足を止めた。長いつま先をジャッカルの肩に引っ掛け、床に伏した状態の彼の胴体を反転させる。

 ジャッカルは、天を向くかたちになった自分の視線が、ケインのそれとまともにぶつかるのを感じ取った。そこに荒れる火花の激しさはなかった。むしろ、これほどの状況下に置かれながらもジャッカルは、どこか安心感にも似た心地よさを覚えていた。もしかすると、王の足下でひざまずくことに光栄を感じているのかもしれない。

「最後にもう一度だけ訊こう。お前は何者だ?」

 黒い銃口がジャッカルの顔を覗き込む。撃鉄はすでに起こされている。あとは人差し指を引くだけで、いつでも鉛玉を撃ち込めるという状態だ。

 ジャッカルに打つ手は残されていない。仮にケインの発するプレッシャーを差し引いたとしても、この苦境を自力で打開するのは完全に不可能だ。そうするための手段がないのである。武器のたぐいはすべて尽きた。刃も、爆薬も、あるいはそれらを操作する腕でさえ、いまの彼には残されていなかった。

 いまここにある確かなものは一つ。それは敗北だ。それも、言い逃れもできぬほどの完敗だ。そもそもケインがその気であったならば、さきのマグナム弾で吹き飛ばされるのは左足ではなく頭だったはずだ。あの発砲を許した時点で、すでに決着は着いていた。

 ゆえに、いまだ続けられているジャッカルの沈黙は、決して駆け引きと呼べるようなものではなかった。それは時間稼ぎでもなく、そこに陽動の意図があったわけでもない。逆転の策でないことは言わずもがな。それはただの悪あがき、言うなれば、死に行く者の儚き抵抗に過ぎなかった。

 その事実をケインも察したのだろう。彼の最後の言葉には、拭えぬ沈うつが滲んでいた。

「……そうか。ならば仕方がない。お前はあいつの仇だ。名前くらいは聞いておきたかったが……残念だ」

 時間切れだ。

 その直後、けたたましい反響が周囲を行き交った。火を噴く火薬の爆燃が、途方もない数の破片を作り出す。しかしその破片とは、ジャッカルの残骸というものではなかった。その正体は壁面の一方を構成していた防弾ガラスが砕けたものだった。最前の爆発音の源を咄嗟に探したジャッカルは、この部屋の一面を構成する巨大な窓の下部に、人が通れる大きさの裂け目が出来ていることに気が付いた。何者かが窓を爆破し、突入口を開いたのだ。

 賊はそこから侵入してきた。彼らは素早く室内に押し入ると、それぞれの死角をカバーするように陣形を展開した。四人一組で行動するその男たちは、判で押したような揃いの装備で身を固めていた。暗色のヘルメットに防弾ベスト、肩口には通信用のスピーカー、胸部前面にマガジンポーチ。またそれぞれの手元には、銃身のコンパクトなアサルトカービンが握られていた。多くの公的機関で採用されているモデルだ。

 突如として現出したその光景を、ジャッカルは驚愕の一意をもって見つめた。その彼を見下ろすケインにも同種の情動があったのだろう。魔王の目は見開かれ、銃把を握る手は弾かれたように位置を変えた。それまでぴったりとジャッカルに据えられていた照準が、新たな襲撃者の一人に向かって移される。ケインがすぐに引き金を引かなかったのは、そうするべき相手かどうかを見極めようとしたからだ。

 ジャッカルとケインがともに感じたこのショックは一見、両者を平等に襲ったようにも思われた。しかしその実、それらの驚愕というものはまったく異なる理由に基づいていた。瞬間的に思考を巡らせるケインとは違い、ジャッカルのほうには、くだんの乱入者たちの素性についてあらかじめ情報があったからだ。自然、この後に引き起こされるだろう事態についても、彼は瞬時に察しが付いた。

 にわかには信じがたいほど静粛に、かつスムーズに、暗殺は実行された。四つの銃口が束の間に輝いたかと思うと、その中心を貫いた弾丸の束が、今度は生きた人間を貫通した。魔王、ケイン・マルドネスの臓腑をだ。

 反撃の隙は与えられなかった。襲撃者たちの意図がはっきりした時にはすでに、ケインの身体は、まるで車両に撥ねられたかのように弾き飛ばされていた。有無を言わせぬ打撃力が革靴の底を持ち上げる。やがて彼の胴体が強い振動を伴って床に倒れると、それに続くようにしてだらりと手足が投げ出された。呼吸が止まり、目が焦点を失う。即死したようにも見えるケインに、しかし相手方はなおも銃弾の雨を浴びせ続けた。

 追撃は胸と頭とに集中していた。たったいま生まれたばかりの「死」を、より決定的なものとするためだ。有機インターフェースとしての脳の転用という、万に一つの可能性を恐れるがゆえの措置だった。

 このケインの死に様を、ジャッカルはすぐには信じることができなかった。疑いようもなく、現実に目の前で起きていることにもかかわらず、何かの間違いであるような気がしてならなかった。

 あれほどの圧力を持った男が、こんなにも呆気なく命を落とすのか? 誰ひとり道連れにすることもなく、ただ無様に横たわるものなのか?

 だが、現実にそれは起こった。サウスランドシティと、そこに暮らす人々の首筋に刃をあてがい続けてきた一人の男。悪辣なる王。暴虐の君主。あらゆる不条理の体現者。その男に、忌むべき時代の創造者に、逃れえぬ破滅が訪れたのだ。

 眼前で繰り広げられる一連の凶行を、ジャッカルはただ夢現のなかで見届けた。

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